お茶の西遊記
台湾の三つの宝のうち茶は比較的発展が遅かったのだが、輝かしい産業の歴史を作り上げた。
初期の茶は南投県埔里の山地に自生する野生の茶で、また先住民が薬用に栽培したものもあった。しかし、その品質からあまり飲用には適さなかったと言う。その後、清代になって福建省安渓からの移民が、台湾北部の景美渓の川筋から石碇、深坑一帯の環境が故郷の福建に似ていることに気づき、故郷で栽培していたウーロン茶を持ちこんで飲用の茶を大量に栽培しはじめたのである。イギリスのお茶商人が積極的に奨励したこともあり、フォルモサ茶は欧米に直接販売され、外国商人が次々に台北に拠点を設立するようになった。ここから、当時は荒れた土地であった台湾北部が繁栄の道を歩みだした。その後、ウーロン茶の栽培は次第に台湾中部に広がる。
この時期のウーロン茶は現代人がよく知っている凍頂ウーロン茶とは異なり、紅茶に近く結球する深く焙煎するタイプであった。その後、輸出が停滞する時期があって、お茶商人は原料の茶葉を福州に輸出し、そこでジャスミンなどを加えて加工して売出した。福建省安渓のウーロン茶より緑茶に近い種類のお茶だったが、これが人気となり外国で台湾包種茶と呼ばれ、東南アジア一帯の華僑に好まれたのである。
現在、私たちがよく知っているウーロン茶の正確な名称は、半球型タイプの包種茶ということになる。
ウーロンや包種に加えて、紅茶も清末から日本時代にかけての重要な輸出商品であった。日本の国内では緑茶を生産するので、それとの競争を避け、またヨーロッパ市場の需要に応じるために、台湾での紅茶栽培が奨励されたのである。日本人はアッサム茶を導入し、1920年から栽培を開始した。1930年になると、日月潭周辺で葉の大きな紅茶の木が植付けられ、三井合名会社(当時)はこれを日東紅茶と名づけ、ヨーロッパ市場でリプトンと競い合い、1950年代にいたるまで繁栄を続けた。最盛期の輸出量は年間500万キロに達し、輸入のリプトン紅茶しか飲まない現代の人には想像もつかない歴史を築いていたのである。
台湾の緑茶は、1949年に福州のお茶職人が台湾にやってきてから生産が始り、新竹以北で生産量が増加し、年間数百万キロを輸出した。その黄金時代は約10数年続いたが、コスト高と味の好みの変化から世界的な競争に勝てず、1950年代になると没落していく。
台湾のお茶の二度目の最盛期は1980年代に訪れた。台湾が経済発展を開始し、国内の消費能力が高まってきたそのときに、凍頂ウーロン茶が発売されて販売量が急速に伸びていったためだが、これは主に国内向けであった。台湾のお茶の産地は初期の大産地が化学肥料を使用し過ぎたために地力を失って、すでによいお茶を生産できなくなってしまい、現在では嘉義一帯に移ってしまった。今も名産地として知られるのは鹿谷だが、実は台湾各地から質のよいお茶の葉を買付け、鹿谷で製品に仕上げているだけである。鹿谷が売っているのは、お茶の葉ではなく優れた製茶技術なのである。
1970年代の第一次オイルショックの頃、政府は重化学工業発展の重要性を意識し始め、中国スチール、中国石油などの企業の活動が活発になった。これによって70年代の製造業が支えられた。