血と汗の一滴が、台湾の歴史の一頁
玉井にはマンゴーばかりではなく、歴史の跡が残されていて、人々の発見を待っている。
玉井には、お勧め観光スポットが幾つもある。たとえば、台20号線の南部横断道路は玉井が起点になっていて、1972年の開通時の盛況と施工過程の苦難が思い起こされる。ここに来て、生活の利便性と自然環境との間のバランスに思いを致すのである。
さらに歴史を遡ると、第二次大戦後の玉井は台湾南部の製糖業の基地であり、製糖工場があり、四季を通じてサトウキビの香りが漂い、台南善化から玉井まで製糖業専用の鉄道が通っていた。鉄道は20年余り運営され、1975年になって全面的に廃線となった。すでに生産を停止した玉井製糖工場は、今もかつての姿を残している。
虎頭山にある「抗日烈士余清芳記念碑」と玉井鎮入り口の「噍吧哖記念公園」は、かつての悲壮な抗日の歴史を思い起こさせる。
玉井はツオウ族の「噍吧哖社」の所在地であったが、その後、シラヤ族や漢民族が移ってきて、噍吧哖が当初の地名だった。1920年に日本人が噍吧哖の発音に近い日本語音Tamaiから、日本風の玉井という地名を付けた。
虎頭山から下を望むと、曽文渓がうねうねと山間を流れる。1915年の日本による台湾統治初期に、最も激烈な武装抗日事件「噍吧哖事件」がここで起こった。死傷者は惨烈を極め、古老の話では曽文渓が赤く染まったという。
その当時、台湾の政治経済文化のエリートは台南に集まっていた。そのうち余清芳を中心とする日本統治に不満を持つ志士が、しばしば台南市内の西来庵に秘密集会を開いていた。1915年8月に抗日組織と日本の軍警察が虎頭山で戦火を交え、死傷者が多数出た。余清芳は逃亡したものの数日で逮捕され、処刑された。そこでこの事件を余清芳事件あるいは西来庵事件ともいう。
この事件で最初に犠牲となったのは成人男子だが、その後病没した婦女幼児を加えると総数は推定するのも難しいが、少なくとも千人に上ると見られる。
来年は西来庵事件から100周年で、この時期にその場を訪れて哀悼の意を表するのも意味がある。また200年余りの歴史を有する玉井の江家旧宅は、西来庵事件の後に、唯一完全な形で残されている閩南様式の集落であり、玉井を訪れたら必ず見てみたいポイントである。
「現在のアップルマンゴー農家の多くは、西来庵事件の生き残りの末裔なのです」と、玉井農協の黄澄清総幹事は言う。
虎頭山には抗日烈士・余清芳による「噍吧哖事件」の記念碑がある。碑には「忠義可風」の文字が刻まれている。