現地に根を下ろす必要はない
一般に大陸の学校教育は台湾のそれより「早く、深い」。算数の場合、小4で一元一次方程式、小5で不等式、中1で三角関数を学ぶという具合で、台湾より1年半早い。国語でも文語が3割を占め、現代文学でも梁実秋、魯迅、銭鍾など1930年代の作品が多い。
台湾人の親の多くが子供を現地の学校に通わせたがらないのは、競争が激しすぎること以外に、両岸の政治思想と体制の違いが子供のアイデンティティを混乱させるのではないかと不安に感じるからだ。
台湾師範大学出身で、東莞;台湾人学校で教えた経験のある陳鏗;任さんと呉建華さんは、2005年に小学5年生17人にじっくりインタビューをしたことがある。17人のうち3人は現地の学校に4年半以上通った経験があり、説教に近い「政治」の授業について「退屈」「教科書に出てくる中国の英雄は崇拝したくない」などと話した。また17人の台湾の記憶という部分では、休暇には帰省しており、故郷のイメージは親しみやすく魅力的なものだった。
エスニック・アイデンティティを研究する中央研究院歴史研究所の王明珂;研究員は次のように指摘している。移民グループは「構造的記憶喪失の温床」だが、故郷の記憶は数世代を経てしだいに消えていくものである。また、家族や集団のルーツと関わる活動を通して新たなアイデンティティを生むこともできる。こうした新たな記憶の創出の背後には、感情と理性を併せた選択がある。
現在の状況を見ると、大陸に暮らす台湾人の親は故郷への想いを抱いており、子供たちも台湾の生活を理性的に評価しており(台湾の方が安全で清潔、人々は礼儀正しいなど)、台湾人駐在員の子供にアイデンティティの問題はないようだ。
子供たちの心が台湾とつながっているのは良いことだが、それは現地社会に入る障害にもなる。中国がすでに新興の強権となり、教育制度や観念も進歩しつつある中、現地の学校を選択する台湾人が増えていくのは抑えられない趨勢だ。大陸の一般の学校にどう適応していくかは、次の大きな課題である。
2004年、夫が上海のPC小売ルート百脳匯;商場に赴任した時、周素燕さんは小1と小4の娘を連れて夫と共に上海に移住した。2人の娘はSMIC学校中文部で楽しく2年を過ごした。宿題も多くなく、あまり勉強しなくてもクラスで1位の成績が取れた。しかし、長女の怡静さんが小学校を卒業する時になって、そのままSMIC中等部へ進学する生徒がクラス30人のうち3人しかいないことを知った。他の親たちは中文部で楽をしていたら後で困ることになると、子供を転校させることにしたのである。
そこで周さんは、勉強の要求が厳しい同校の国際部に転入させようと思ったが、英語の筆記試験で90点以上要求されるところを66点しか取れず、他の学校を探すほかなかった。現地の学校でもいいと思った周さんは、長寧区に新設された天山中学の設備が良いのを見て問い合わせたが、すでに定員は埋まっていた。上海の台湾事務弁公室から、定員に余裕のある仙霞中学を勧められ、筆記試験を受けて入学が決まった。
「入学したばかりの頃、娘は口を聞かず、一日中しかめっ面をしていて、いつSMICに戻れるのか、とばかり聞いていました」と言う。周さんは心を鬼にして「もう、ここに家を買ったんだから、SMICまで毎日往復に3時間もかけられない」と言い聞かせた。
幸い、若くて熱心な担任の先生が怡静さんを励ましてくれた。彼女がSMIC時代のクリスマスパーティを懐かしんでいるのを知ると、この先生は学校の規則に反し、教室を閉め切ってパーティを開き、歌を歌ったりプレゼントを交換したりして楽しい一時を過ごさせてくれた。こうして、負けん気の強い怡静さんの成績は上位まで伸び、学校で賞を取るまでになった。担任の先生は「共産主義青年団」に彼女を推薦しようとしたが、周さんが「私たちは台湾人なので」と言うと、先生も理解してくれた。
周素燕さんは、夫の仕事に大きな変動がない限り、娘たちは大陸の大学に入学することになるだろうと言う。
幼年時代が終わると、前途に関わる進路を選択しなければならない。すでに3回卒業生を出している昆山華東台湾人学校では、7割が台湾への進学を希望し、2割が大陸に残る可能性があるため、台湾と大陸の両方の教科書を使っており、勉強は大変だ。