旧きを破り新しきを立つ
清朝末期以降、知識分子が出版に関る伝統(梁啓超の清議報と新民叢報など)を受けて、1916年に発刊された『新青年』だが、その前身は1年前に上海で創刊された『青年』であった。発行人はその後中国共産党を創設した陳独秀である。
『青年』の創刊号には、日本に留学して西洋の新思想を吸収した陳独秀による「青年に告ぐ」六か条が書かれていた。
・自主的であって奴隷的でない
・進歩的であって保守的でない
・進取的であって退嬰的でない
・世界的であって鎖国的でない
・実利的であって虚文的でない
・科学的であって想像的でない
この最初と最後は民主主義と科学思想の主軸を述べ、この精神が『新青年』に受け継がれる。北京大学中文科の陳平原教授によると、民主主義と科学主義の二つの主義以外に『新青年』の同人たちには共通する旗がなくなっていた。その同人とは、陳独秀、胡適、魯迅、周作人、呉稚暉、蔡元培、李大釗;などである。科学思想と民主主義の普及のために、文学と文化の改造が『新青年』の主張する思想となっていった。
たとえば、1916年にはまだコロンビア大学にいた胡適だが、「文学改良芻議」を書いて、翌年海を越えて『新青年』に寄稿し、8項目の要点を提出した。それは古人の模倣をせず、文法を重んじ、典故や対句、決まり文句を用いず、俗語や俗字を厭わないなどの諸点で、大きな反響を呼んだ。
陳平原からは話題性を好むと批判される陳独秀も、「文学革命論」を書いて胡適に応え、新文学の三大主義として、精緻な諂いの貴族主義を打倒し、平易な叙情的文学を建設、陳腐で大げさな古典文学を打倒し、新鮮で誠実な写実文学を建設、回りくどく晦渋な山林文学を打倒し、通俗的で明瞭な社会文学を建設すると主張した。
文化においては孔子批判に加え、中国の伝統的な道徳も批判した。胡適の弟子羅家倫がイプセンの『人形の家』を翻訳して『新青年』に掲載すると、家を捨て自我独立を求める女性の論調が知識分子の世界に蔓延した。ノラの「あなたのよい妻に私を教育するなんてできないわ」といったせりふは、自我を主張する新女性の宣言となった。陳平原によると『新青年』の問題指向型の編集方針では、文学を切り口として思想文化革命を目指していたのである。
蔡元培は1917年に北京大学の学長となり、次いで陳独秀を文学部学部長に任命した。1920年には『新青年』は北京大学を編集本部として、原稿は北京大学の教授、学生が寄稿し、編集も陳独秀の独壇場ではなく、胡適、李大釗;など教授6人が交代で当っていた。
五四運動は全中国各省へと広がっていった。大学生たちが街頭に立って演説し、新文化や新思想を論じて伝え広めた。「煙士披里純」(インスピレーション)や「娜拉」(ノラ、独立した女性の象徴)といった外来語が頻繁に使われた。