雲門舞集創立者・林懐民さんの実家「培桂堂」は、嘉義県指定文化財として一般公開されている。
嘉義県新港の町は400年前には古地図に登場する。洪水や地震、そして大規模な移住を経て、商業の盛んな港町から農業の里へと姿を変えた。1980年代にギャンブル「大家楽」がブームになった頃には、庶民から町づくりの大きなうねりが起こった。
新港を観光するなら、廟建築の見事な工芸や、雲門舞集(クラウドゲイト)の創始者・林懐民さんの先祖代々の家「培桂堂」、古民家カフェなど、住民の協力で作り上げた魅力あるスポットの数々を訪れたい。
休日、嘉義県新港にある奉天宮の前の中山路には爆竹音が響き渡っていた。台湾各地に分霊された媽祖とともに参拝客が続々と詰めかける。
新港と言えば奉天宮がまず思い浮かぶ。毎年何百万人もの信徒が参加する大甲媽祖巡礼が1988年からは奉天宮を目的地とするようになり、奉天宮には毎年平均5000体もの分霊媽祖像が戻って来るので、大変なにぎわいだ。
「休日の奉天宮は全国の信徒のものですが、平日には新港の住民のものになります」と、奉天宮世界媽祖文化研究・文献センターの林伯奇事務局長は、新港の人々にとっての媽祖を語る。
奉天宮が再建・修築を重ねたことで、新港は交趾焼や「剪黏」の工芸で知られる町となった。
「小台湾」と呼ばれた18世紀
現在の新港は宗教の町として名高いが、古地図に登場する400年前には重要な河港の町だった。
嘉義大学応用歴史学科の黄阿有教授によれば、新港はかつて「笨港」と呼ばれていた。1623年にオランダ人のモーゼス・クラース・コマンスが描いた台湾の大縮尺地図には、笨港渓の南岸に「Pankam(笨港)」という地名で記されている。ここはオランダ人が陸路で北上する主要ルートの起点だった。
黄教授はこうも説明する。清朝による台湾統治開始から1784年まで、台湾と中国本土の間で貿易船の往来が許されていた港は、台南の鹿耳門と中国のアモイだけだった。そして笨港は、諸羅県(現在の嘉義一帯)の米を鹿耳門へと運ぶ集散地だったので商業や貿易で栄え、清朝の役所も置かれていた。

大きな火で素早く炒めた鴨肉とタケノコで作るスープは人気が高い。
新港の変遷
笨港は、笨港渓(現在の北港渓)に臨む港として繁栄し、18世紀初頭には笨港北街(現在の北港)と笨港南街(現在の新港)の町が形成されていた。とりわけ笨港南街は、1784年以前の台湾沿岸で最大の港町だった「台湾府城(現在の台南)」に次ぐ規模を持ち、そのため「小台湾」と呼ばれるようになった。
だが19世紀初頭の度重なる北港渓の氾濫で、笨港南街の住民は東へ数キロ離れた麻園寮という町に次々と移住し、そこが後に新港と名を改めたのである。新港には平地が多かったので農業が栄えた。当初は主にサトウキビ、落花生、ゴマ、アスパラガスなどが栽培された。
カフェ「新港客庁」は「1/2自然農場」との提携によって地産地消を推進し、住民の高い評価を得ている。
奉天宮までの歩み
多くの信徒にとっての聖地である奉天宮に伝わる記録によると、1622年に中国大陸から台湾海峡を渡って来た移民たちは「船仔媽」と呼ばれる媽祖像を携えており、媽祖のお告げに従い笨港に定住して、1700年には天妃廟を建立した。黄教授によれば、これは諸羅県で最も早くに建てられた媽祖廟であり、後に天后宮と名を改めた。
だがその後、北港渓の氾濫で天后宮も流されてしまい、新港に移った人々はその地に廟を建てた。1813年に落成したこの廟が奉天宮である。開拓者たちを守ったこの媽祖は「開台媽祖」とも呼ばれている。
ところが1906年に嘉義を襲った大地震で、奉天宮はほぼ全壊してしまう。林伯奇さんによれば、日本統治時代には皇民化政策が進められて台湾の伝統宗教は抑圧されていたにも関わらず、奉天宮再建のための寄付金集めは許され、1918年に奉天宮は再建された。これらから、新港の歴史が媽祖と深く結びついて来たことがわかる。
黄教授によれば、日本統治時代になって河川舟運が鉄道に取って代わられると、鉄道の縦貫線につながる台湾糖業鉄道「嘉義-北港線」が新港や北港まで開通し、後に奉天宮や朝天宮への参拝者もこの鉄道を利用するようになった。このため嘉義-北港線は「進香(参拝)鉄道」とも呼ばれていた。

新港の空心菜の生産量は台湾卸売市場の6割を占める。(新港郷農業組合提供)
廟の修築で磨かれた工芸
1999年9月21日と10月22日の大地震で、奉天宮は再び大きな被害を受ける。再建のために各分野の国宝級の伝統工芸職人が選ばれ、それぞれが腕を競い合い、廟をさらに美しく荘厳なものへと生まれ変わらせた。
奉天宮が幾度も再建・改築を経たことで、廟建築の装飾に必要な交趾焼や「剪黏(磁器やガラスを切り貼りする細工)」といった伝統工芸への需要が高まり、新港はそうした工芸の中心地となっていった。とりわけ名匠として名高い石連池氏は新港の人で、地元で弟子を集めたので、新港は「剪黏交趾の牙城」と称されるようになった。林伯奇さんは「交趾焼の材料や剪黏の道具は、今では新港に行かないと買えません」と言う。
嘉義大学視覚芸術学科の何文玲教授は共著『新港奉天宮志続修』の中で、奉天宮の建築と装飾には極めて高い芸術的価値が認められると書いている。特に壁面には数々の交趾焼工芸が並び、初期の名匠・洪坤福氏の国宝級の作品や、その弟子と孫弟子にあたる石連池氏と林再興氏の作品が壁一面を覆っているのが、大きな特色となっている。
林再興氏の弟子である陳忠正さんは、新港の板頭村に「板陶窯交趾剪黏工芸パーク」を開設した。現代的な要素も取り入れた作品を創作したり、人々に伝統工芸を親しんでもらおうと体験教室も開催したりしている。
交趾焼・剪黏の職人である陳忠正さんは「板陶窯交趾剪黏工芸パーク」を開いた。観光スポットであり、伝統工芸の継承が行われる場でもある。
商業から農業の町へ
明と清の時代に商業で栄えたこの町は、東へ移転した後に農業が発展した。かつて台湾がアスパラガス王国として名を馳せた時代、新港はこの作物の重要な生産地だった。今も新港は嘉義県の農業の中心地で、嘉義県のデータによると、新港は稲の収穫高で全自治体のトップに輝いている。
米のほかに温室栽培も盛んだ。新港郷農業組合推進部の何麗質主任によれば、平坦な土地の多い新港では、空心菜やサツマイモの葉などの葉物野菜や、パプリカ、トルコギキョウなどが温室で栽培され、特産品となっている。中でも最も生産量の多いのが空心菜で、台湾の卸売市場の6割近くを占めるほか、地元ブランドをつくってスーパーに進出している。
トルコギキョウは種類、形、色が豊富で、主に日本に輸出される。出荷期が冬から翌年4月と、ちょうど媽祖巡礼に新港が賑わう頃なので、地元の人は「媽祖花」と呼んだりしている。
また、農糧署による雑穀・豆類栽培促進の取り組みと連携し、新港郷農業組合は稲作の2期目を黒豆に切り替えるよう農家を支援している。2期目の作物を換えることで地力の調整になる。また生産販売履歴の認証も組合で行い、品質を管理している。収穫された黒豆は醤油や豆乳、加工食品などに使われ、新港郷農業組合が経営する「豆食堂」では、そうした地元の味が楽しめる。
新港鎮には手造り醤油の醸造所もいくつかある。前街にある「源発号醤油」が新港の黒豆と輸入黒豆を用いて薪火で醸造している醤油は地元住民にも人気だ。
農産物以外にも、新港には美味しい物がたくさんある。特に有名なのが新港飴で、考案者は盧欺頭さんだ。新港の近くにはかつて砂糖工場がいくつかあり、当初、蘆さんは砂糖、ピーナッツ、麦芽を混ぜて、ネズミの形に似せた「ネズミ飴」を作っていた。後に新港に移って「金長利」という名で店を開き、新港飴やバナナ飴を売り出した。新港飴は、日本統治時代初期に日本の博覧会に幾度も出品されて受賞し、広く知られるようになった。 今でも新港を代表するみやげ物の一つだ。
奉天宮の前にある「新港軒」は、新港飴のほか、さまざまな伝統のパイ菓子やアーモンド菓子を製造販売しており、どれも昔からの懐かしい味がする。これらは、媽祖が他の地を訪れる際に奉天宮が配るおみやげにもなっている。
奉天宮の中で出される鴨肉スープは、鴨肉とタケノコの千切りを炒めて具にしたとろみがあるスープで、参拝の際にはぜひ味わってみたい。
陳忠正さんの作品「百鳥朝鳳」は、あらゆる鳥が鳳凰の元に詣でる様子を描いた。
町づくりの先駆け
1980年代の台湾の経済成長期、暮らしが潤うようになると、人々は「大家楽」という違法宝くじに熱中した。町の開業医の陳錦煌さんは、頭痛や不眠に悩む患者が増えたり、当選者がお礼参りと称してヌードダンサーを載せた山車を繰り出すなど、ギャンブルが社会に及ぼす悪影響を憂慮していた。そこで、雲門舞集(クラウドゲイト・ダンスカンパニー)を率いる林懐民さんに、新港での公演を依頼した。林さんは新港出身だ。
「子供たちがワールドクラスのパフォーマンス芸術を目にし、そういう文化が生活の一部になればと願いました」と、新港文教基金会の創設者でもある陳錦煌さんは語る。当時ちょうど林懐民さんも芸術を大衆に根付かせる方法を模索しており、2人は意気投合した。しかも林懐民さんは出演料を基金会に寄付し、これは基金会設立後に初めて受けた寄付となった。
新港文教基金会の設立は1987年。台湾初の町村レベルの基金会であり、ボトムアップ型町づくりの先駆けとなった。最も重要な目的は芸術や文学を地域に根付かせることで、移動図書館車を僻地や学校へと走らせた。現在でも新港の各村のお年寄りにサービスを提供し、同時に彼らに人生経験を語り、伝えてもらう場を設けている。
新港はかつて伝統音楽「北管」が盛んだった。だが時代とともに人々の娯楽も変わり、北管の伝統も途絶えつつあった。そのため基金会は、100年の歴史を持つ地元の北管音楽団「舞鳳軒」とともに後継者養成プロジェクトを開始し、団員の募集等を進めている。また古民小学校では「宋江陣(伝統の武術パフォーマンス)」を教えている。
芸術・文学からさらに手を広げ、環境保護や地域緑化にも取り組む基金会は、1988年の大甲鎮瀾宮の巡礼団が町に来た際にボランティアを集め、行列が通過した後の、おびただしい爆竹の燃えカスを掃除した。ほかにも、陳錦煌さんの母親が野菜を育てていた「緑園」を苗木園にし、植樹のための木を育てて新港の緑化を進めた。
台湾糖業鉄道の最後の営業路線である「台糖嘉北港線」が廃止されたのが1982年。沿線の新港駅はその後、雑草の生えるままになっていた。そこを基金会で人を動員して清掃し、鉄道公園を作った。名に「鉄道」を冠した公園としては全国初だった。公園のそばにあった台湾糖業の社員寮も改築してカフェ「新港客庁」に変身させた。
農村の高齢化に合わせたサービスも進めている。前述の緑園は現在「素園」と名を変え、高齢者や重度障害者のケアをサポートする場所となっている。
基金会への取材では、陳錦煌さんは自転車で素園に現れ、陳政鴻董事長や徐家瑋事務局長も駆けつけた。町づくりの営みが末永く続いていくことを象徴しているような光景だった。
奉天宮は、人々の信仰の中心地であり、地理的にも新港の中心部にある。
街路作りと活性化
奉天宮の裏を通る大興路(別名「後街」)は、ボトムアップによる官民連携で街路作りが進められた台湾初の例だ。市場や商店の集まる通りだったが、1996年に文化建設委員会(文化部の前身)による地域伝統文化建築空間改造プロジェクトが立ち上がり、大興路が最初のモデル地域に選ばれた。そして歩道を広げ、市場を移転するなどして、古いものと新しいものが融合する通りに生まれ変わった。百年の老舗の乾物店や、野草店、雑貨店などが並ぶ、散策に適した通りだ。

地元の黒豆で醤油を醸造する源発号醤油醸造所。
林懐民の先祖代々の住居
林懐民さんの祖父は、「詩人の良医」と呼ばれた林開泰氏だ。その診療所と住居も後街にある。林開泰氏から3代にわたる43名の子孫には、15名の博士と24名の修士がいるので「博士の家」とも称される。子孫は「公爾忘私(公のために行動する」という家訓を守ってこの家屋を嘉義県に寄贈したので、文化財として修復が行われ、本年(2023年)から一般公開されている。
正面入り口に掛かる「培桂堂」の字は、林開泰氏の父である林維朝氏が書いたものだ。外から見ると赤レンガの素朴な印象の建物で、玄関前にはギリシャ・ドーリア式を模した柱が立つ。前庭は青々とした草が生え、椅子に腰かけて休むこともできる。
室内に華美な装飾はなく、林維朝氏や林開泰氏の書や、林懐民さんの叔父伯母たちの書籍が並ぶ。林懐民さんは雑誌『天下』のインタビューでこう語っている。「これらの書籍は、後に自分の小説執筆や舞踊創作の養分となりました」「この空間は美しく、心地良く、静かです。屋内でおしゃべりする人はほとんどおらず、居間に長く腰掛けて瞑想にひたる人もいます。座って物事を深く思考するのは気持ち良いものです」
培桂堂の脇には、ベンガルヤハズカズラを棚に這わせたアーケードがあり、そこを進んで裏に行くとスターバックスからコーヒーの香りが漂ってくる。古民家、緑のアーケード、コーヒーの香りの組み合わせが、新港の町に文化的なムードを添えている。
新港郷の葉孟龍郷長によれば、「塔山(阿里山)の画家」として知られる林国治の美術館が2023年末に培桂堂の後ろにオープンする予定だと言う。新港を訪れたら、奉天宮に参拝したついでに培桂堂、スターバックス、美術館を一挙に回ることができる。もっと時間があれば「板陶窯交趾剪黏工芸パーク」に行ったり、さらに北上して北港と新港の人々の共通の記憶である「新港台糖復興鉄橋(台湾糖業鉄道の鉄橋跡)」を見たりもできるし、或いは南へ足を延ばして安和村や渓北村に広がるひまわり畑を眺め、新港の農村の魅力を味わってもいい。
洪水や地震などの試練を経た新港は、しなやかに新旧融合の花を咲かせた。この町を知る最良の方法は、ゆっくりとした歩調であちこちを巡り、古き町の新生の物語を訪ねることに違いない。

新港土産として知られる新港飴とバナナ飴。
新港軒の伝統パイ菓子や新港飴は、奉天宮の媽祖が巡礼に出かける際のみやげ物にもなる。

新港の重要な農作物の一つであるパプリカ。(新港郷農業組合提供)
板頭村住民が力を合わせてよみがえらせた板頭駅。


新港のトルコギキョウは日本に輸出されている。(新港郷農業組合提供)