奇跡の誕生
1986年、48歳になった蕭泰然はカリフォルニア大学ロサンジェルス分校に入学し、現代音楽作曲の修士を取得した。そこではソウル・オリンピックのテーマソングを作曲した韓国系作曲家B.K.Kimの教えを受け、一人娘の蕭雅心さんや娘婿と同窓生になったのである。
一貫して唯美的で保守的な曲風の蕭泰然だが、なぜ現代音楽を学ぼうとしたのであろうか。蕭泰然によると21世紀の作曲家の物の見方を知りたかったのだという。時代が移ると共に人の美的感覚も変わっていき、それぞれの時代ごとにメロディの美の認定も異なってくる。天性多感でロマンチックな詩人気質の蕭泰然は、その作品においても、常に色彩豊かな、うねるように層をなすメロディの美が溢れている。それをKim教授は目にして、蕭泰然に不協和音ばかりの尖鋭な現代音楽を真似ることはないのだから、自分の路を行くようにと勧めた。
この大学院の時期である。蕭泰然は台湾民謡を素材にし、古典派、ロマン派、印象派に現代音楽のテクニックを組み合わせて自身の曲風を確立していった。修士の学位を取得して間もなく、蕭泰然は林衡哲の勧めもあって、絢爛としたバイオリン協奏曲を書き上げたのである。
台湾音楽史上最初のバイオリン協奏曲は、蕭泰然が血を吐くような思いで書き上げたものであった。
「父が亡くなったばかりで、母は篤い病の床にあり、妻のビジネスもうまくいっていませんでした」と蕭泰然は思い出す。母と子供たちと一緒に二間切りのアパートに住んでいたが、子供に一部屋を当てて、病気の母と彼がもう一部屋に眠った。夜は母の看護をしながら机に向かって曲を書き、夜が明け白むまで毎日16時間も仕事をしたのである。
こうして貧困と病に迫られた辛い心持の中にあっても、蕭泰然には狂ったような力があり、今まで手をつけたことのない大規模な曲へと彼を駆り立てていった。蕭泰然はこの曲の誕生を奇跡だと言う。
世界の舞台へ
1988年、蕭泰然はバイオリン協奏曲を完成させたが、最初はピアノ伴奏のみのダイジェスト版で演奏するしかなかった。それでも怨むような、嘆くようなバイオリンがゆるやかに台湾民謡のテーマを変奏していくと、聴衆の涙を絞った。その後1990年になって、蕭泰然はある音楽会において偶然に南台湾出身の世界的バイオリニスト林昭亮と知り合った。林昭亮はただちにこの曲の初演を蕭泰然に約束したのである。
2年後、日本人指揮者大山平一郎とサンディエゴ交響楽団の協力を得て、ソリスト林昭亮によってこのニ長調バイオリン協奏曲が初演された。アメリカの著名な交響楽団が台湾の作曲家の曲を演奏するのは、これが初めてだった。結果は予想通り、歴史的な公演として好評を博し、蕭泰然は国際的な舞台に迎えられることとなり、台湾音楽も国際化に向けての重要な一歩を踏み出した。
この公演を思い出すと、蕭泰然は感激を隠せない面持ちで「この音楽会で私の曲はブラームスとドボルザークに挟まれていました。自分がサンドイッチのように二人の巨匠に押しつぶされると思いました」と語る。しかし事実はポスト・ロマンの特色をたたえたこの曲がこの二人の巨匠に引けを取らないことを証明したことになり、蕭泰然の曲の中で今も一番の人気を維持している。
バイオリン協奏曲で一挙に有名になった蕭泰然は、1990年に台湾作曲家として最初のチェロ協奏曲を発表した。この曲は1995年にサンディエゴ交響楽団により初演されている。1992年になると台湾の民謡「心酸酸」を巧みに取り入れたハ短調ピアノ協奏曲を発表した。低くつぶやくように始まりながら、何段階かの展開を経て次第に昇華し、感情が盛り上がって、最後には勝利の凱歌となるこの曲は、台湾が遂に自由と尊厳を勝ち得たことを象徴している。
作曲のために生きる
わずか5年の間にこの協奏曲3曲を続けざまに発表し、音楽のために毎日明け暮れていた蕭泰然だが、この時突然病に倒れた。1993年のクリスマスイブのこと、蕭泰然は大動脈血管瘤の破裂で病院に担ぎ込まれたのである。ところが医療保険に入っていなかったために先に5万米ドルの入院保証金を支払わなければならないのだが、その金がない。病状が重いにもかかわらず、すぐには十分な治療が受けられなかったという。幸いなことに台湾の同郷の人たちが保証金を工面してくれて、しかも日系の心臓外科の名医横山先生に執刀を依頼できた。10時間にわたる大手術の結果、蕭泰然は三途の川の前から何とかこの世に引き戻されたのである。
発病したとき、蕭泰然はちょうど二二八事件のために「一九四七序曲」を作曲していたところであった。胸に激痛が起きたとき彼には「主よ、この作品を完成させてください」という願いしかなかった。運良く助かってからは、蕭泰然はさらに一日も疎かにできなくなった。1995年、「一九四七序曲」がオークランドで初演され、台湾民謡からつむぎ出された凄艶であり、ときに激昂し、また荘厳なメロディーの数々が国際的な舞台で大きく異彩を放った。
これからを作曲のために生きると考えた彼は、その後数年体調が思わしくないにもかかわらず、「玉山頌」「フォルモサよ」「浪子」(楽劇)などの作品を書き続け、また作曲や公演の依頼が絶えなくなった。誠実な彼は、期待に応えようと努力するしかなかったのだが、2001年10月に動脈瘤が再び破裂した。緊急手術で動脈を切除したために、蕭泰然は左の手首では脈が取れない半分だけの人間になってしまったのである。
退院してから最初にしようとしたことは、ピアノを弾くというものだったが、鍵盤に手を下ろしてみると右手は力も敏捷さもあるのに、左手には知覚がなかったと彼は言う。半年に及ぶリハビリのおかげで、少しずつ回復してきた。
樂の音を再び
2回の大手術を受けながら、蕭泰然の体内にはまだ取り残した動脈瘤が残っていて、時限爆弾のように命を脅かしているが、彼自身はそれを見切るコツを知っているかのようである。現在は息子の家に同居し、貧乏は相変わらずだが、内外の友人の援助を受けて文教基金会が設立され、毎月生活費が支給されることになった。時折台湾に戻ってくると、静かな淡水の借家に腰を落ち着ける。
蕭泰然のために長年にわたりコンピュータの譜面を作成し、また偶然にも台湾では蕭泰然と同じマンションに住む音楽家の荘伝賢さんは、蕭泰然が台湾に戻るたびに親切に世話をしてくれる。その荘さんはため息をつきながら、例えばシベリウスなどの作曲家は北欧で国宝扱いされて、国家が報酬を支給して生活の心配なく作曲に専念できるのにと嘆く。それに引き換え蕭泰然はこれまで流浪の一生で、数年前までは台湾に永住したいと考えたのに住む所もない。師範大学が教授に招聘するという話もあったが、教室に入るのに階段を上らなければならないとあって、体力のない蕭泰然は諦めるしかなかった。
借家のある淡水はいつも風が強い。足元のふらつきがちな蕭泰然のことで、用事で台北に行くためにバスに乗ろうと走った途端に転びそうになったこともあった。楽譜の印刷コストが高いのも、蕭泰然の曲が広く普及するための妨げになっている。今回の国立コンサートホールでの公演にしても、これだけの規模なのに楽譜はすべてコピーで間に合わせるしかなかった。こういった待遇の様々を目の当たりにすると、蕭泰然の音楽を愛し、その人格を尊敬する荘伝賢さんはただ心が痛むばかりである。
音楽会が終わってから、蕭泰然はわずかな身の回りの物をまとめてアメリカに帰った。その頭の中には、故郷の高雄のために作曲を依頼された「愛河の歌」の構想が渦巻いている。現代の台湾音楽界で最も才能豊かなこの作曲家はこれからも創作を続け、その音楽を通じて深い愛情で台湾を包み込んでいくことであろう。