50年の歩みを載せた雲
2015年4月に開幕した雲門劇場だが、それ以前の彼らの本拠地は観音山のふもと新北市八里烏山頭にある練習場だった。2008年にこの練習場が全焼した後、雲門は市の提供による1.5ヘクタールの中央廣播電台跡地に雲門劇場を建設した。土地と建物は一定期間後に市に返還することになっている。建設費用は国内外から4155件、総額6.6億元の寄付が集まり、ここは民間からの寄付で建てられた初の劇場となった。寄付者の名前は、匿名の人も含めてすべて台湾産ヒノキの板に刻み、劇場入り口に掲げて感謝を表している。
「劇場前の芝生の脇には八里の火災で焼け残ったコンテナがあり、コンテナから外を見ると、淡水河対岸の観音山が見えます。そのふもとの八里が雲門を16年間育んだ場所です」鄭宗龍は時々ここに来て、林懐民が団員を率いてきた長い道のりに思いを馳せる。そして、当時の酷暑や厳冬の中での厳しい練習を思い出し、自分は雲門のためにまだ何ができるかと考える。
コンテナを出て入口の方へ向かうと土地公(土地神)の小さな祠がある。鄭宗龍は定期的にスタッフを伴い、この土地の安寧を守ってくれる土地公に祈りを捧げる。また、すぐ近くのスターバックスの前には蓮の池があるが、そこの蓮の花を舞台の小道具に使うこともある。またその池には、雲門で活躍した第一世代のダンサーであり、サブグループ「雲門2」の芸術監督だった羅曼菲のダンス姿を表したブロンズ像が立つ。
台北芸術大学舞踏科卒業の2002年に雲門舞集に入った鄭宗龍は、これまで世界中で数多くの公演を経験してきた。雲門はかつて彼にとって世界へ羽ばたく準備の場だったが、今やすでに高みに達し、ここを世界にとっての芸術の場にしている。「雲門はさまざまな人材を吸収して多くの美しい物を創り上げてきました。空の雲が水分を吸収してふくらみ、やがて大地を雨で潤すように、雲門というこの雲も世界中へと漂い、創作という雨で皆の心を潤します」50年の歩みを経た雲門を、鄭宗龍はこう表現した。
日本統治時代の新富町市場は今では文化拠点として生まれ変わり、艋舺にあって新旧融合した独特の味わいを持つ。
鄭宗龍が父とよく生活用品や美味しい物を買いに来た東三水街市場は、父との思い出が詰まった場所だ。
園内には八里の火災で焼け残ったコンテナが置かれ、そこから、かつて雲門の拠点があった淡水河対岸が見える。
園内にある蓮の池。池の中には羅曼菲のブロンズ像が彼女を記念して置かれている。