黒い垂れ幕の下から、3人のお年寄りの足がのぞき、その1人がふるえを帯びた声で「当時、私はけがれを知らぬ良家の子女でした。それが日本人に踏みにじられ、命からがら帰国したものの子を産むことも育てることもかなわず、それを隠して、ただ嫁ぎたくないのだと母を一生騙し続けてきました。今、私は日本政府に過ちを認めて欲しいのです」と訴えかけた。
1992年8月、台湾の元従軍慰安婦が初めて公の場に出た時の光景はこのようなものだった。
が、今はもはや黒い垂れ幕で姿を隠す必要はない。頭を高くもたげた彼女たちの顔には固い決意が表われている。今年11月初旬には東京地方裁判所の前で世界各地のメディアに向かい、当時日本政府によって受けた迫害を訴えた。しかも実名で裁判を起こすことにしたのである。「我々がもう年寄りだから長い訴訟には耐えられないだろうなどと、日本政府に思って欲しくありません。たとえ我々が死んでも、後を継いでくれる人がいます。日本政府が過ちを認めない限り、我々はどこまでも闘います」と、高雄から来た桃さんは語った。
歴史というのは、その歩みを止めることはない。最初は顔を隠していたのが、今や堂々と胸を張るようになったように、台湾人元従軍慰安婦の歩みも変遷を経てきた。「社会の賛同や励ましがなかったら、彼女たちもここまで来られなかったでしょう」と、長年にわたって慰安婦問題に取り組んできた王清峰弁護士は言う。
日本軍が1931年から1945年の第二次大戦中に占領地や植民地で女性を性の奴隷として扱ってきた、いわゆる「従軍慰安婦問題」は、この10年の間に世界各国で取り上げられるようになった。1991年より、韓国、フィリピン、オランダ等の被害者が次々と名乗り出て、日本政府に対し謝罪と賠償を求め、日本で裁判を起こすようになったのである。今年7月中旬には、台湾の元慰安婦も裁判を起こし、11月2日に東京地方裁判所で審理開始のはこびとなった。
「他の国と比べて、台湾の行動開始は確かにやや遅れました」と王清峰弁護士は認める。その主な原因は、日本人によって当時の資料が隠滅されてしまっていたことにある。「韓国と比べて、台湾の元慰安婦たちは自分の経験を語りたがりません」と言うのは、中央研究院中山人文社会科学研究所の朱徳蘭さんだ。台湾植民地史におけるこの悲惨な経験は、未だにきちんとした解明や整理がなされていないと彼女は指摘する。
1985年に国史館から出版された『日本在華暴行録』には、日本軍が中国東北地方や上海、雲南などで慰安所を設置し、朝鮮半島や中国の女性を無理矢理連れて来て慰安婦とした事実が1章にわたって述べられている。だがそこには「台湾の売春業者」が関与したことが触れられるにとどまり、詳しい事情については述べられていなかった。
台湾人慰安婦問題の本格的な浮上は90年代まで待たねばならなかった。1991年8月、韓国の金学順さんが、「第二次大戦中に日本軍によって慰安婦にさせられた」と名乗り出て、それが日本政府の言うような「自ら志願して」といったものではなく、強制的かつ計画的に徴用されたのだと訴えた。金学順さんの突きつけた証拠は明白なもので、それまで韓国の元慰安婦に対して「賠償、謝罪の必要なし」「記念碑は建てない」と繰り返してきた日本政府に、大きな一撃を加えることとなった。国際的な世論が高まる中、韓国と同じく植民地であった台湾にも同様の事実があったのではないかと、注意の目が向けられるようになったのである。
1992年2月、日本の伊東秀子国会議員が防衛庁図書館で、台湾で慰安婦を募集する電報3通を発見し、これが台湾人慰安婦の歴史的事実究明の発端となった。その後、台湾の女性団体「婦女救援基金会」が慰安婦問題についてのホットラインを設置し、調査に乗り出した。その結果、7年間で計400本以上の電話が寄せられ、自ら名乗り出た被害者は、今も健在のケースで41件に上るという。
20世紀の終末を迎えたアジア各国では、第二次世界大戦に対する反省をめぐり、「歴史の生き証人」が名乗り出るというケースがよく見られる。彼らの証言が歴史研究を進めたり、時には従来の歴史的叙述を覆すこともあった。慰安婦問題がちょうどそれに当たる。
今日歴史学者たちが用いる「慰安婦」という呼称は、その上に「従軍」とつけて呼ばれるのが一般で、軍隊とともに移動した「従軍公娼」という意味である。台湾大学で歴史を研究する李国生さんの論文「戦争と台湾人」によれば、この制度ができたのは1932年の上海事変の後で、当時の日本兵が上海のあちこちで女性にみだらな行為に及ぶのを見かねた日本軍の岡村寧次参謀長が、兵士の性的欲求を解決するため「慰安所」を軍に設置するよう命じたのだという。慰安所が最初に集めたのは、日本の売春婦や酌婦たちであった。
当時植民地であった朝鮮や台湾の女性を慰安婦として強制的に徴集し始めたのはいつからなのか、その解明は今後の研究を待たねばならない。が、中央研究院の朱徳蘭さんの推定では、1942年の真珠湾攻撃の後、台湾が本格的に第二次大戦の戦火に巻き込まれるようになった頃が、ちょうど台湾人慰安婦が大量に徴集され始めた時期であろうという。
「高雄に着いた時には、すでに夜が明けていました。そこで沖縄から来た10名余りの女性と合流し、船に1週間ほど揺られ、どこかに上陸した後、またトラックに載せられました。そして到着したのは、椰子の木で作られた大きな建物で、一人に一部屋あてがわれました。来る前に聞かされていた『軍の売店で働く』という話は全くの嘘だったと、そこで知ったのです」(婦女救援基金会による調査・ケースA)
「あそこで私たちは、毎回目をじっと閉じて耐えていました。兵隊と恋愛するなどということはありません。ベテラン慰安婦に『あんたたちは軍の慰問に来たのだから、軍人さんをお慰めして、お国に奉仕しなくてはいけない』と言い聞かされました。同情してくれる日本兵もいましたが、私たちを打つ人もいて、恐ろしい思いをしました」(婦女救援基金会による調査・ケースB)
「日本兵には悪い人がいて、まるでアリをひねりつぶすかのように平気で人を殴るのです。私たちは鍋に放り込まれた魚も同じで、煮るなり焼くなり彼らの思いのままでした。ある日、一人の日本人に『こんにちは』と挨拶すると、いきなり叩かれました。その人は酔っていたのです。急いで部屋に逃げ込んで鍵を掛けると、外から突き刺された刀の刃が戸板からにゅっと出て来て、慌ててもう一方の出口から逃げて便所に隠れました。それでも後で慰安所の主人に、その日本兵に謝るよう言われました。その時以来、叩かれた私の片耳は聞こえません」(婦女救援基金会による調査・ケースC)
台北市婦女救援基金会の調査によれば、当時、台湾人慰安婦が軍人への「慰安」の仕事をさせられたのは、1日に3回から20数回と開きがあるが、最高で1日60回というケースもあった。病気になっても生理でも、たとえ妊娠中や産後でも休ませてもらえず、多くの女性が刃の脅しの下に強要されたのである。
慰安婦に徴集された時の年齢は、16歳から25歳前後に集中しており、最小年齢が14歳、最高が40歳となっている。多くは家が貧しく、学校教育も受けていなかった。料亭や酒場、旅館で芸者などとして働いたり、レストランの女給をしたことのある人も多くいたが、それでも3分の1は家事や農作業に従事している人たちだった。
ほとんどの人は、性的奉仕をするために海外へ行くのだとは事前に知らされていなかった。「徴集の際に伝えられた仕事の内容は、食堂で料理を運んだり酌をする、或いは兵隊のために洗濯や料理をする、芝居を演じたり、看護をする、といったものだった」と、婦女救援基金会でケースワーカーを務める江美芬さんは、レポートの中で述べている。
また、李国生さんは「慰安婦は、日本軍が第二次大戦中にアジアに残した醜い歴史の傷痕であり、中国大陸から海南島、香港、フィリピン、インドネシア、ビルマ、沖縄、朝鮮半島、台湾など、およそ日本軍の駐留した所には全て慰安婦がいた」と指摘する。
太平洋戦争で日本が海外へと送り出した部隊は総勢350万人にも及ぶ。それに伴って、中国、台湾、朝鮮半島から女性たちが強制的に徴集されて行ったのである。朱徳蘭さんらの推計によれば、強制的に慰安婦にされた人の数は、朝鮮半島で10数万人、日本人が2万人、台湾からは少なくとも1200人、そして中国大陸からは20万人を超えるだろうという。
戦力増強が目的で、他国から一般の女性を集めてきて強制的に従軍売春婦にする。これは、日本が戦争のために国家の力で、弱者である女性を虐げたことにほかならず、だからこそ非難されるべきなのである。「これは国家というメカニズムを通して、強姦を合法化かつ制度化したものだ」と李国生さんは論文で述べている。「こんなことをした国は、歴史上おそらく他に例がないでしょう」と言うのは、朱徳蘭さんだ。更に非難されるべきなのは、日本政府が未だに心から過ちを認めていないことだと、朱さんは指摘する。
日本の学者や政治家の中には、「90年代になって次々と発表された元慰安婦の証言、例えば『強制徴集だった』などというのは根も葉もない作り話だ」と考えている人が今でもいると、朱徳蘭さんは言う。例えば「慰安婦は性的奴隷などではなく、民間の斡旋業者によって戦地に連れて行かれた売春婦だった。韓国では、斡旋業者のほとんどは韓国人だった」とか「戦時中の日本軍による暴行などはでっちあげだ」と、かつて東京大学の藤岡信勝教授も述べている。
このような発言に対し、アジア各地の女性団体は一生懸命闘ってきた。1992年からは、韓国、フィリピン、日本、台湾等の女性団体が協力し、アジア各国の元慰安婦を結集して「慰安婦問題アジア連帯会議」を行ってきた。すでに5回を数えるが、毎回元慰安婦が名乗り出ている。「ほとんどの人が乗せられたのは軍艦で、慰安所の建物は軍からの提供、管理方法も軍が決め、病気の時は軍医が診る。斡旋をした業者も、慰安所管理者であるママさんも、みな日本軍と深い関係がありました」と言う、婦女救援基金会事務局長の何碧珍さんは、各国の元慰安婦の証言を集めた上で、日本政府の「慰安婦は民間業者による経営の売春だった」とする見解に強く反論する。
少数ながら日本にも戦争責任を追及する良心的な学者がいる。彼らは各国に先んじて研究成果を発表し、日本政府に異議を唱えてきた。1992年には中央大学の歴史学者である吉見義明教授が、第二次大戦時の慰安婦徴集と渡航に関する軍の文書を公開し、日本軍が関与していた事実を示した。この指摘により日本政府は、軍による慰安所設置関与の事実を認めざるを得なくなったのである。93年には当時内閣官房長官であった河野洋平氏が慰安婦問題についての談話を発表すると同時に被害者に対し謝意を表し、続く94年にも、首相であった村山富市氏が被害者に対し口頭でお詫びを述べるにいたった。これらはいずれも日本政府がやむを得ず行った善意の表明なのである。
ただし、善意は善意でしかない。台湾籍元日本兵の問題と同様に、補償問題については日本政府は譲らず、日本外務省の見解では、戦後補償問題はすでにサンフランシスコ条約で解決済みであるとして、「民間から募金する」という形でのみ補償を行いたいとするにとどまっている。「つまり政府は表に立ちたくないということです」と婦女救援基金会の何碧珍さんは言う。
この日本政府の態度を「過ちを認めないに等しい」と捉えた台湾の元慰安婦たちは、考えた末に今年7月、東京地方裁判所に訴えて出ることにしたのである。
一方、台湾でも慰安婦についての研究は進められている。今年7月中旬、中央研究院の朱徳蘭教授が発表した「台湾拓殖株式会社に関する記録」も、慰安婦史料を整理した成果の一例と言える。
台湾拓殖株式会社(以下「台拓」とする)というのは、日本が当時の南下政策の下に作った官民合弁の企業だった。朱徳蘭さんの調査によれば、1939年、日本軍が海南島上陸を果たした後、台湾総督府の命令を受けて台拓は海南島の開発を任せられる。その業務はあらゆる方面に及んだが、特に初期は占領軍の事務所や食堂、宿舎、そして海軍慰安所などの建設に携わった。
朱徳蘭教授の調査によって、海南島で日本政府は慰安所建設を行っただけでなく、慰安所の経営にまで介入していたことが明らかになった。それによれば、1939年台湾総督府調査課の木原課長が台拓の高山理事に委託して芸者や売春婦90名を海南島に派遣させ、同時に営業資金として3万円を融資していたことがわかる。ただし「台拓が業者に直接資金を提供するのは『いろいろ宜しくないと思われる』として、福大公司を通して進めることはできないものかと問い合わせています」と、朱徳蘭さんは記録を引用する。
「福大公司というのは、台拓が中国大陸福建で開発を行なうための会社でした」と朱さんは説明する。そして、今回公開された資料の付録の中には、福大公司の株主名簿と株主総会出席者の記録が含まれているが、その中には、意外にも今日の台湾政財界で活躍する辜顕栄氏や林熊徴氏、陳啓峰氏などの一族や、基隆の名士である顔欽賢氏の一族の名が見られるのである。これらファミリーが所有した株は少ないものであったとは言え、資料発表当時はマスコミによって「慰安所投資、四大ファミリーが株主」と大きく取り上げられた。
しかし「四大ファミリーが福大公司の株主だった」というのは、今日でも一般の人が株を買い、ある会社の株主になるのと同じことで、これによって彼らが戦時政策に荷担していたとするのは歴史的に見て公平ではないと、ある歴史研究者は指摘する。朱徳蘭さんも、現在発見されている資料からは四大ファミリーが慰安所経営に直接関与していたとする証拠は見つかっていないと学術的立場から説明する。ただし朱さんは「四大ファミリーが戦争協力者であったことは疑いの余地がありません」と言い、これら富豪が植民政権下で微妙な役割を担っていたことがうかがえる。
こうした歴史的研究だけでなく、台湾人元慰安婦についての究明は、女性の権利にとっても意義深い。
慰安婦として経験は、被害者にとって終世癒し難い心身の傷となって残った。婦女救援基金会のケースワーカーである江美芬さんによれば、慰安婦として働かされた人の多くは、男たちによる蹂躪にさらされただけでなく、戦時中は飢えや凍え、命からがらの引き上げ等を経験し、帰国してみれば家族は離散、前途も絶たれているという辛苦をなめてきたのである。先住民の中には海外へと遣られることのなかった人たちもいたが、故郷で性的奉仕を強要されたことにより周囲の人々に知られ、更に辛い思いをしたと言える。「今まで生きてこられた人はみな生命力の強いおばあさんたちばかりですよ」と江美芬さんは言う。
「台湾に戻ってからは夜眠れず、よく居間でタバコを何本も吸い続けていると、母に『馬鹿な子だよ。そんなに深く考えるものじゃない』と言われて、涙がぽろぽろこぼれました。母は『泣いていても仕方がない。過去のことはみな過ぎ去ったのだから』と言ってくれましたが、それでも涙は止まりません。悲しかったのは、きれいだった自分の肉体が人に踏みにじられ、まるで道端の雑草のように価値のないものになってしまったことでした。全ては終わったと思いました」(婦女救援基金会による調査・ケースD)
ほとんどの人は慰安婦としての経験により健康を害し、戦後も苦しんできた。婦女救援基金会の調査によると、慰安所での粗末な食事から胃病を患ったり、日本兵に殴られて難聴になったり、脊椎の痛みに苦しんでいる人もいる。更に多くの人が卵巣や子宮に異常が見られ、約6割の人が不妊症になった。「彼女たちの生活は孤独、老い、貧困、病という言葉そのものです」と王清峰さんはたとえる。
更に痛ましいのは、慰安婦の経験が彼女たちの心に与えた傷であろう。何碧珍さんによれば、相談に来たばかり頃の彼女たちには、性的犯罪の被害者と同じように「自己非難」の心的態度が見られた。多くの元慰安婦たちが子供を産めないことや男性を嫌いになったことで一生独身でいることを決意し、また結婚したり同棲したりしていても家庭生活が幸せだとは言い難い、と江美芬さんも指摘する。数十年にわたり秘密を胸に抱え続け、他の人に自分の過去を知られたのではと常にびくびくして暮らしている。「彼女たちの心に負担をかけているのは、自分は『けがれている』とか『商売女』というような伝統的な固定観念です」と、江美芬さんは内在化された傷の深さを説明する。
また、王清峰弁護士は次のように語る。これまで我々は、おおよそ戦争というものには殺戮や強奪、強姦、放火といったことがつきものだと考えてきた。これを当然とする態度こそが、慰安婦のような悲劇を繰り返すことになるのだと。
王弁護士によれば、慰安婦問題の摘発はもちろん日本軍の非理性的行為を浮き彫りにできるが、更に重要なのは、このような非理性的な行為は戦争にはつきものだという考えを無くすことだという。「こういった悲劇は今後も起こり得るのです。最近のユーゴスラビアやルワンダでの内戦、インドネシアでの華人に対する暴動など、すべて女性が巻き添えになってきました」というのだ。
各国の女性団体の努力により、国連人権委員会はすでに、日本軍の慰安婦を一種の「軍隊の性的奴隷」と認め、人権を侵しているうえに、婦女子の人身売買を禁じる国際法にも違反した戦争犯罪だとして、被害者への国家賠償を日本に要求した。日本政府は未だに明確な回答を避けているものの、「昨年ローマで国際刑事法が可決され、一般の人々の性的虐待も戦争犯罪になることが示されました。慰安婦問題の摘発が国際的にも女性の権利にとってプラスに働いたことは明らかです」と王清峰さんは語る。
50年も沈黙を守ってきたおばあさんたちにとって、つらい過去と再び向き合うことは確かに勇気の要ることだった。が、「一回また一回と集まりを重ねるごとに、自分たちの不幸な運命を嘆くだけだったのが、徐々に家族や友人に話すまでに態度が変わっていきました。タバコを片手に涙にくれる状態だったのが、皆で歌を楽しむまでになったのです」と言う何碧珍さんは、彼女たちの変化を見て社会的支援の力というものをつくづく感じた。「彼女たちは、このような目に遭ったのは自分のせいだとはもう思っていません。あの出来事を恥じるべきなのは自分たちではないということを徐々に理解したのです」と何さんは語る。
韓国やフィリピンの元慰安婦と比較して、台湾の元慰安婦は婦女救援基金会等の援助を得ることができ、次第に社会の関心を集めるようになった。1997年、作家の李敖氏は自分の所蔵品百点をオークションにかけ、その収益を元慰安婦一人当たり50万元の生活補助として差し出した。それに続いて政府も、同額の50万元を彼女たちの老後のためにと特別手当てとして発給した。また県や市からも毎月1万5千元の福祉手当が支給され、経済的には彼女たちの生活もしばらく息のつげる状態になっている。
だが、日本がこの問題を真に反省し、彼女たちに正式に謝罪し賠償金を払うまでは、一生苦しみ続けてきた彼女たちは肩の荷を下ろすわけにはいかない。「賠償の意義は金銭だけではありません。国家というメカニズムがこの出来事を徹底的に懺悔することなのです」と言う王清峰さんは、戦争における非理性的行為に対する反省と悔いを表明してこそ人類の進歩はあると考える。
また、慰安婦問題は女性の権利についても人々の関心を促すことになったと王清峰弁護士は指摘する。元慰安婦だけでなく、レイプや少女の強制売春、ドメスティック・バイオレンス、セクシュアル・ハラスメントの被害者も同様の問題を抱えているのだ。「こういった事件を耳にした時、『被害者にも何かすきや問題があったのでは』と思ったことがありませんか」と何碧珍さんは問いかける。
「慰安婦問題を通して我々が求めるのは、弱い立場の女性たちにもっと力を与えることであり、まず何より、いわれのない罪によって指される、あの後ろ指を断ち切ることなのです」と王弁護士は語る。
この王さんの願いがかなえば、慰安婦問題の究明は、単なる歴史責任の追求にとどまりはしない。