1960年代の台湾、ポップスが好きな人ならアーサー・リュウの名前を覚えていることだろう。幼獅、警察ラジオ、中央ラジオなどのラジオ局で8年にわたり、西洋のポップス番組「アーサーの時間」「ヒット・ミュージック」「ホット・ミュージック」などのパーソナリティを担当し、そのころの時代の先端を行っていた。
台湾ロックの父
「台湾に西洋音楽を紹介した最初の人物です」と、台湾テレビでヒット曲を歌っていたロバート・蔡さんは、その頃のアーサーへの憧れを懐かしく振り返る。「まだ高校生だったのですが、アーサーの番組でヒット・ミュージックに夢中になり、朝から晩まで投書して歌詞をくれとせがみました。アーサーは嫌がらず送ってくれましたよ」と言うが、アーサーの人に接する親切な態度は今も変らない。
現在、ロサンジェルスの中国語ラジオ局AM1300に勤務するアメリカ人スタッフの一人は、アーサー・リュウについて「いつでも関心を持ってくれる友人のような存在で、安心して何でも話せます」と言う。
親切で熱意をもって人に接し、事に当っては真剣で熱心、しかも自分で言う通り幸運にも恵まれ、劉恕は今日の立身伝中の人物となった。
ジャーナリスト一家に生れた劉恕、父の劉竹洲は戦前の中国で中央通信社のベテラン記者だった。その時代、卜少夫、毛樹清、邱楠、楽恕人などの著名ジャーナリストと共に、一世を風靡した「新聞天地」を創刊し、家に出入するのはすべて、有名なジャーナリストだった。しかし、父は息子にジャーナリズムの世界を勧めることはなく、息子は台湾大学農業化学学科に進学した。それでも生れつきの性格は変えられないのか、劉恕は後にマスメディアの世界に入っていく。
自由な校風で知られる師範大学付属高校に入ってから、劉恕は英語と西洋音楽が好きになっていった。毎日ラジオ番組「空中英語」を聞いて英語になじみながら、オーストラリアとフィリピンのラジオ局のポップス番組に夢中になった。大学に進学してから、幼獅ラジオの西洋音楽の番組を担当し、これ以降「アーサーの時間」は多くの若者に愛されてきた。
大学時代から兵役を挟んで正式に就職し、アーサーは幼獅、警察ラジオ、中央ラジオなどでヒット・ミュージックの番組のパーソナリティを8年に渡って担当した。30歳になってから、マスメディアについて勉強しようと決心し、アメリカにわたって大学に入る。そこでマスメディア学の修士の学位を取得し、次いでアメリカの三大テレビネットの一つABCに入社した。その頃は月給わずか400米ドル、レストランのアルバイトの4分の1に過ぎなかったが、それでも勉強のチャンス、給料は重要ではないと苦労を厭わなかった。
大志を抱いて
1972年、アメリカのテレビ文化を知り尽くした劉恕は、ニューヨークにシノTVを設立する。4年後にはさらにシノ・ラジオを設立して中国語番組を製作すると共に、新聞社「華語快報」も経営した。そこでマスメディアにおける基盤と人脈を作り上げ、ラジオとテレビ関係のニュースに注意していたのである。1982年、ついにチャンスは訪れた。ライセンスを取消されたラジオ局、FM105.9の取得申請競争に加わったのである。
この得がたいチャンスに対し、29社の競争となった。審査は極めて厳しく、10年間が過ぎたが、劉恕のマルチカルチャー放送社は諦めなかった。1991年になってアメリカの法律が改正され、劉恕はやっとこのニューヨークのラジオ局のライセンスを手に入れることができた。
数十年に及ぶラジオ局での経験を基に、劉恕はやっと自分のラジオ局を手に入れてから、発信局をニューヨークのエンパイアステート・ビルに移した。よりクリアな音質で番組の時間帯を調整し、系統的にマルチ言語の番組を提供することにした。懐かしい自分の国の言葉を聞けるというので、少数民族が多いニューヨークで多くのリスナーに歓迎され、経営は軌道に乗っていった。
1993年から1995年の間に、劉恕は低コスト経営、ラジオ局買収と負債の循環という経営手法を展開し、ニューヨークに第2のラジオ局、ロサンジェルスでは3社の中波ラジオ局を購入、マイノリティー路線を継続した。そのうちの1局ではベトナム語、韓国語、ロシア語、メキシコ語に東欧語などのマイノリティー・グループに番組を賃貸して、一定の賃貸料を受け取ることにしたのである。
躍進の年
1998年、再びチャンスがやってきた。連邦コミュニケーション委員会は個人或は企業グループが所有できるラジオ局の数の制限を撤廃したのである。あるスペイン語のラジオ局グループは、劉恕が最初に購入したニューヨークのラジオ局に目をつけて、1億5000万ドルで買収した。当初、銀行からの借入金で投資した金額の16倍である。
その一方で劉恕は節税と事業への興味から、この資金を投じてアメリカの東海岸と西海岸で15のラジオ局を買収した。去年2月には4500万ドルで別のラジオ局を売却、これでさらに十三のラジオ局を買収したのである。ヒットミュージックのパーソナリティだったこのメディア王が単独で所有する30余りのラジオ局は、ニューヨーク、ワシントン、バージニア、シカゴ、ボストン、フロリダ、アトランタ、ダラス、シアトル、サンノゼ、サンフランシスコ、ロスなどアメリカ全土に散らばっている。
劉恕はかつて「メディアの買収には成長の倍数を見ます。テレビは10倍、新聞社は7から8倍で売れますが、ラジオ局は40倍になることもあるのです」と言っている。
その成功には経営者の知恵が必要である。
劉恕はラジオ放送出身だが、経営にもプロが必要である。弁護士の費用は毎年50万ドルにも達するし、ラジオ局にはそれぞれGMをおき、責任分担を明確にしている。ロサンジェルスの中国語局AM1300と広東語局AM1430を運営するGMの朱継文は、スタッフから、オーナーよりオーナーのためを考えていると笑われるほどである。
12年前にマルチカルチャー放送社グループの一つ、アメリカ・カナダ中国語ラジオ局に入社した朱継文さんは、劉恕について開放的で明晰な思考を持ち、原則を曲げないよいボスだと賞賛する。自分を信頼してくれるボスのためなら努力できると言う。ロサンジェルスのAM1300はアメリカ唯一の24時間中国語放送のラジオ局で、番組のラインアップが豊富、インターネットでも聞けるというので人気である。
中国語の全国ネット
劉恕自身は、多くの人から巨額の資産を持つ実業家と見られても、親切で義理堅く、友人や昔からの知合い、部下に寄せる熱意は変らない。普通なら定年の65歳になったが、ラジオについて話し出すと相変らず力がこもる。
恐いもの知らずと自分を評する彼は、これからもテレビ局の売却と買収を続け、ケーブルや衛星放送にも進出し、さらにアメリカで1時間の全国ネット中国語番組を製作するという。そのため100万ドルを投じて、ロングアイランドに学生の実習用に番組製作ができるラジオ局を購入した。ここで人材を育成し、製作チームを立ち上げようというのである。心から愛するラジオのために種を蒔き育て上げ、豊かな収穫を待っている。
劉恕(後列左から三人目)とその傘下のラジオ局のパーソナリティたち。前列左から袁立功、劉愛慶、沈明麗、後列左から郭宗迅、謝英蘭、劉恕、朱継分、盧宝禧、李蘊為だ。
親切で気さくな劉恕は大企業の経営者だが、高ぶったところが少しもない。
ロサンゼルスAM1300は劉恕のグループの中でも最も人気のあるラジオ局で、精鋭が揃っている。写真の郭宗迅・営業部長も、高寧とともに人気番組「今日の話題」に出演している。
(左・右)50年代の台湾で、欧米のポップスを流すラジオ番組のDJとして鳴らした劉恕は、90年代にアメリカで30のラジオ局を買収して華人メディア経営者となり、ラジオ放送の歴史に新たな一頁を書き加えた。