自分の足で立てない
車椅子の人々にバルーンアートを広めようと、張世明は脊髄損傷潜能発展センターで「ピエロ教室」を開き、講師を招いてピエロの化粧方法も指導してもらった。しかし「先生、車椅子に乗っているだけで辛いのに、そのうえピエロに扮するなんて、みっともなくて嫌です」と言ってくる人もいた。張世明は、こういう人はまだ車椅子に劣等感を抱いていることを知っている。「車椅子は一生手放せないのですから、それは受け入れなければなりません。わたしはピエロに扮した時、とても明るい気持ちになれました。人の目を気にせずに自分のままでいられるのですから。注目を浴びたとしても、それは楽しんで私を肯定してくれている視線なのです」張世明は、車椅子でピエロになるのは勇気のいることだと語る。
だが、それまで自由に歩けていた人が、ある日突然、下半身不随になって車椅子に頼らざるを得なくなることについて、張世明もそれほど達観していたわけではない。
1970年代に淡江大学建築学科に通っていた張世明は、4人兄弟の中で唯一大学まで進み、両親の自慢の息子だった。大学1年で、軍の成功嶺で集中訓練を受けた時、彼は左足の反射がおかしいことに気付いた。訓練を終えて病院に行き、腰椎の検査を受けたが異常は見つからず「原因不明の脊髄の病変」ということで退院した。
だが、左足に力が入らない状態は続き、1~2年の間、あちこちの病院で診てもらったが、やはり原因はわからなかった。通学のために一人暮らしをしていた彼は、痛みをこらえて大学への長い階段をのぼって通っていた。
大学3年の夏休み、彼は何とか治療しようと決意をして大病院を紹介してもらったところ、胸椎に影が見つかった。腫瘍か過去の鬱血の塊だろうということで手術を勧められた。ところが手術は失敗し、下半身不随になってしまったのである。それまで足に力は入らなくても何とか歩けたのが、突然車椅子の生活になったのである。
近年は障害者にフレンドリーな施設が増え、心身障害者が社会に出ていく助けになっている。