
教会と総督府と市庁舎、この三つの組み合わせはスペイン植民地の特徴だ。写真はマニラ大聖堂とその前のローマ広場。
1624年、オランダ人が大員(今の台南)に拠点を置き、台江内海に台湾初の町を作った。台南が今年400周年を祝う所以はここにある。台湾の歴史と大航海時代がつながった時点でもある。
さらに世界が台湾を知り始めたきっかけはフィリピンと関係している。1571年、スペインはフィリピン群島を占領し、マニラに本拠地を置いて貿易を開始した。これにより台湾との貿易航路が開かれ、世界の航路に初めて台湾が出現したのである。この歴史を振り返ると、台湾とフィリピンは早くから縁を結んでいたことがわかる。
7000余りの島嶼からなるフィリピンの面積は32万平方キロで台湾の8.3倍、公用語は英語とタガログ語で、国民の8割がカトリック教徒である。人口は1.1億人で人口ボーナス期にあり、産業はサービス業、次いで農業を主とし、世界の重要な移住労働者供給国でもある。台湾とはまったく異なる状況だが、実は台湾とフィリピンとの間には深いつながりがある。

周民淦・駐フィリピン代表によると、台湾はフィリピンにとって8番目に大きな貿易パートナーで、輸出相手国、輸入相手国としても第8位である。
手が届く距離の隣国
2023年6月に着任したばかりの駐フィリピン台北経済文化弁事処代表の周民淦氏はこう話す。かつてルソン島北端のカガヤン州を訪れた時、現地の知事は、北端の海岸沿いに暮らす住民は南台湾のラジオで音楽を聴いており、多くの人が台湾のポップスを歌えると語った。「中国を別とすると、フィリピンは台湾から最も近い国なのです」と周民淦は言う。
地理的に近いことから、台湾とフィリピンは兄弟とも言える。気象学者によると、台湾にやってくる台風の多くはフィリピンを経由してくる。地質学者によれば、同じ環太平洋火山帯に属する台湾とフィリピンは地理的環境や地質構造、大気環境、地震活動においても関連があり、共同で研究できるテーマが山ほどあるという。
台湾とフィリピンは、船をこいで行ける近さにある。地図を開くと、台湾本島の東南に位置する蘭嶼は、フィリピンのバタン諸島と相望む距離にある。バタン諸島最北端のヤミ島(マヴディス島)は小蘭嶼からわずか99キロの距離にある。蘭嶼に暮らすタオ族に伝わるオーラルヒストリーにおいては、彼らの祖先はバタン諸島から移り住んできたと伝えられている。この両地の住民の言語は非常に似ており、通訳なしでコミュニケーションが取れるという。原住民族文化事業基金会が2年をかけて計画中のプロジェクトの一つは、タオ族の伝統の船であるチヌリクランを建造して蘭嶼からバタム諸島まで航海し、当時の航路を再現するというものだ。

1990年代、台湾政府の南向政策に応えて多くの台湾企業がフィリピンのスービック湾工業団地に入居した。
アジアに残されたラテンアメリカの跡
桃園空港を離陸すると、2時間20分でマニラのニノイ・アキノ空港に到着する。台湾と同じように気温は高いが、街の雰囲気はまったく異なる。欧米の植民地だった影響からか、マニラ一帯の建築物は折衷スタイルで、そのため「アジアで最もヨーロッパ化した都市」と呼ばれている。ビジネス街のマカティへ行くと、台北の信義区のようにオフィスビルが立ち並び、たくさんの車が行き交っている。しかし、通りには実弾入りの銃を持った警備員がいて、ビルやデパート、地下鉄構内に入るにはセキュリティ検査を受けなければならず、警察犬が荷物の匂いを嗅ぐ。台北のゆったりした雰囲気とは大きく異なる。
マニラの有名な城壁都市イントラムロスを訪れると、いたる所にスペイン植民地時代の建造物がある。このエリアの西北地域にあるサンチャゴ要塞跡は重要な歴史的ランドマークだ。ここから遠からぬところにはマニラ大聖堂、その南側にはゴベルナドル宮殿、東側には市庁舎がローマ広場を囲んでおり、こうした配置もスペイン植民地の特徴だ。『フィリピン簡史』に「フィリピンは地理的には東南アジアの一部だが、実際には他の東南アジア諸国の歴史との関連は大きくなく、むしろうっかりアジアに落とされたラテンアメリカの島のようである」とある通りだ。

マニラの交通手段は自動車、バイク、ジプニー、三輪車などさまざまだが、深刻な渋滞でも知られている。
歴史的つながりとデジャヴ
大航海時代の研究に熱中する清華大学歴史研究所の李毓中准教授を訪ねた。准教授は『フィリピン簡史』の著者でもある。訪ねる前はジャック・スパロウのように髭をひねりながら話す海賊をイメージしていたのだが、伺ってみると飄々とした学者だった。「台湾は閩南(福建省南部)人とスペイン人の交流の過程で浮かび上がってきたのです」と言う。
大航海時代、ヨーロッパの人々が東方へやってきて海上商業活動を行なうようになった。その目的は香料や絹、磁器などで、台湾にはこれらがなかったため、それまでの航路が台湾を経由することはなかった。1571年、スペインはマニラに拠点を置いた。当時、中国は明朝が長く続く太平の世で、産業経済は発達し、従来の通貨だった銅が大規模な取引には不足するようになっていた。この時、南米から西へ向かってきたスペイン人が持ち込んだ銀が、スペイン人と福建省の閩南人の双方の利益に合致し、マニラで取引が行なわれるようになった。この過程で台湾が歴史の舞台に浮上したのだと李毓中は言う。
海上貿易に従事していた華人は航路を変え、福建からマニラへ行くようになった。毎年12~1月、多数の中国船が福建省を出発し、台湾海峡の澎湖と台湾南部の海岸を経てバシー海峡を渡り、ルソン島へと向かった。一方、スペイン船はマニラから出発してルソン島の北端とバシー海峡を経て、黒潮を利用して台湾東部を北上し、さらに太平洋を越えて南米の植民地へと向かった。李毓中によると、動力のなかった時代は季節と海流を見極め、それによって出航の時期を決めていた。そうした中で、台湾は重要な補給地となっていったのである。
さらに深く見ていくと、1626年、フィリピンを統治していたスペインは北へ進出し、台湾の基隆と淡水などを植民地の一部とした。しかし、1642年に南台湾を統治していたオランダに責められ、北台湾におけるスペインの植民統治は16年で終了したのである。

異郷への移住の歴史
フィリピンには多くの華僑が住んでいる。マニラのイントラムロスには菲華歴史博物館(ババチノイ)があり、ここには華人のフィリピン移住の歴史が展示されている。
スペインがフィリピン群島を征服すると、まず大勢の華人がフィリピンに移住した。その多くは中国東南沿海の福建省の漳州や泉州の出身だった。勤勉な華人が植民地の経済を支え、フィリピンに来たばかりのスペイン人を助けてマニラを建設した。菲華歴史博物館には、華人の工芸が当時の建築物に用いられている様子が展示されている。フィリピンで最も古い建造物の一つ、サン・アグスティン教会の木製の扉には雲や龍を意匠化した渦巻きの装飾が施されており、扉の両側には石獅子が置かれている。華人にとって獅子は魔除けのシンボルであり、ここからも華人の影響の大きさがうかがえる。
さらに展示を見ていくと、華人文化が現地の生活にも浸透していたことがわかる。多くの日用品や食品は閩南語の名称で呼ばれているのである。bithay(米篩/浅いザル)、siyanse(煎匙/フライ返し)、bihon(米粉/ビーフン)、tanghon(冬粉/春雨)、lumpiya(潤餅/春巻き)、batsoy(肉砕/ひき肉)などだ。暮らしの中に浸透したこれらの足跡に、異国にいる私たちは不思議な懐かしさを覚える。

明るく楽天的なフィリピンの人々。年齢中央値は24.7歳で、人口ボーナス期にある。
台湾の中のフィリピン
歴史的な縁が深い一方、今日のフィリピンと台湾の経済交流も盛んだ。
「台湾にはフィリピン人労働者が15万人働いています。家庭内労働の他に、多くはエレクトロニクスやハイテクの工場で働いていて、私たちの国の経済発展に大きく貢献しています」と周民淦は言う。台北市の中山北路三段には「リトル・マニラ」と呼ばれるエリアがあり、週末にはフィリピン人労働者が集まってくる。ここにある聖多福天主堂(聖クリストファー教会)では英語とタガログ語のミサを行なっており、台湾在住フィリピン人の信仰の中心となっている。さらにフィリピン人に故郷に帰ったような気持ちにさせるショッピングビルの金萬萬名店城があり、多くのフィリピン人の日常のニーズを満たしている。
新竹でも大勢のフィリピン人が働いている。『光華』の以前の記事でも紹介したが、初めて大道芸人の許可証を取得したフィリピン人労働者のマリオさんは、新竹サイエンスパークで働きながらサンドアートを独学で学んだ。これをきっかけに台湾在住のフィリピン人が次々とミス・コンテストを開くようになった。インディペンデントメディア「移人」のAsuka Leeディレクターによると、ミス・コンテストはフィリピンでは国民的なイベントで、新竹がその聖地となったのである。週末になると、着飾って自信に満ちたフィリピン人が舞台を歩いて美と情熱を表現する様子が見られ、フィリピンの人々はまるで故郷にいるかのように感じるという。

欧米の植民地だった影響からか、マニラには折衷建築が多く、「アジアで最もヨーロッパ化した都市」と呼ばれている。
台湾企業による投資
台湾とフィリピンの経済関係はますます緊密になっている。周民淦によると、2022年、両国間の貿易総額は107.2億米ドル、台湾はフィリピンにとって第8位の貿易パートナーで、輸出相手国、輸入相手国としても第8位である。
30年前にさかのぼると、1990年代に台湾政府は南向政策を打ち出し、多くの台湾企業がこれに応えてフィリピン投資を開始し、その多くがスービック湾工業団地に拠点を構えた。ただ、それから数年後には中国経済が成長し始めて台湾企業を引き寄せ、フィリピンへの投資は減少した。だが、当時フィリピンに投資した台湾企業は今も安定的に成長を続けている。
哈徳森公司(Hudson Outdoor)の蔡昇霖マネージャーの父親は、台湾政府の南向政策に応えてフィリピンにやってきた。だが、蔡昇霖の勤務先は父親の会社ではない。父親が経営するのは家族経営の従来型産業で、売上は以前ほど良くないため、話し合った末、親と子でそれぞれの道を歩むことにした。そして彼はフィリピンの将来性を見込んでここに残ることにしたのだと言う。
蔡昇霖が働いているのは台湾企業で、その親会社はスポーツ用品を生産している。2000年頃、アメリカのブランドから受託してアウトドア用防水バッグを生産してきた。同社の経営者は2012年にまずベトナムに工場を設けたが、2019年にリスク分散のためにフィリピンにも生産ラインを設けたのである。
同社はスービック湾工業団地を投資先に選んだ。「スービック湾工業団地は、かつては米軍の海軍基地があった場所で、深水港なので入荷する側には便利です。マニラ湾の方が船便は多いのですが、その後の陸上輸送にコストと時間がかかります。マニラからスービック湾まで3~4時間はかかります。またこの工業団地全体が免税区なので、材料を調達して加工する当社の場合も保税の手続きが必要ないので、非常に有利で便利なのです」と蔡昇霖は言う。
張哲嘉はフィリピンに来て11年になる。最初は英語の勉強のために来たのだが、そのままフィリピンに残ることにし、今は台湾企業のコンテナを扱う天際物流を経営している。昨年彼はスービック湾台湾企業協会の会長になり、台湾とフィリピンのつながりを深めるために視察団をもてなすなど、忙しい日々を送っている。スービック湾工業団地には現在台湾企業85社が入っており、その従業員や家族を合わせて500人ほどの台湾人が暮らしている。スービック湾から車で1時間半ほどの距離にあるクラーク工業団地にも40社ほどの台湾企業が入居している。2017年からは米中の貿易戦争が始まり、多くの顧客が生産ラインの移転を求めるようになった。これによってスービック湾への問い合わせも増え、将来的にさらに発展する可能性があるという。

隠れていた遺産
台湾とフィリピンのもう一つの縁は、ある辞書の中に隠されていた。
2017年、李毓中は蒋経国基金会のサポートを得て学術交流団を組織し、スペインが保存している台湾と中国の史料の調査を行なった。その過程で、マニラの聖トマス大学のアーカイブ館でフィリピンの華人による手稿を発見した。目録には「あまり価値はない(Vale muy poco)」と書いてある。ここに彼らは興味を持った。なぜ館員が史料の価値を判断しているのか、と。そこで開いてみると驚くべき内容だった。それは、公用語、スペイン語、閩南語を対照した辞書だったのである。「基隆淡水」の項目を見ると「フォルモサ島でスペイン人が居住している土地(Tierra de Isla Hermosa ado estan los espanoles)」とスペイン語の現在形で書かれている。このことから、李毓中はこれが編纂されたのはスペインが北台湾を領有していた1626~1642年の間であると推測した。
研究チームはここから数年をかけて調査、研究、整理して叢書『閩南―スペイン歴史文献叢刊』シリーズを編纂発行した。スペイン人と閩南人の交流を記した現存する本としては最も古いものである。
李毓中によると、この手稿の中には閩南語の発音で「Ca Goa Ta Tung Lang Oe(唐人語を教えてほしい)」という句が書かれており、当時フィリピンを植民地としていたスペインの宣教師や商人が布教やビジネスのために現地の華人に漢語を習おうとしていたと推測できる。これら手稿の内容は非常に生活に密着したもので、生活関連の語彙の多くは今も使われていて、現在の台湾の用語ともつながっている。
このような閩南とスペインの交流史の研究によって、李毓中の国際研究チームはスペイン王室から表彰された。400年余り前の大航海時代に、スペイン人と閩南人が交流し、相互に言語を学び合ったことを示す重要な文献だからである。大航海時代に残されたタイムカプセルは、日が当たらなかった歴史の一面を示してくれる。台湾とフィリピンのつながりはさらにあるはずで、双方の交流によってより多くの物語が語られるのを待っているのである。

スービック湾台湾企業協会の張哲嘉・会長は、米中貿易戦争が始まったことでフィリピン投資に関する問い合わせが増えたという。

スービック湾はかつて米軍の海軍基地だった深水港で、海運において優位性を持つ。

哈徳森公司の蔡昇霖マネージャーによると、フィリピン人従業員には英語ができるという優位性があるが、専門能力は自社で培う必要がある。

李毓中によると、台湾は閩南(福建省南部)人とスペイン人の交流のプロセスでしだいに浮上してきた。彼が発見したフィリピン華人の手稿は、大航海時代における閩南人とスペイン人の交流を物語っている。


有名なマニラのイントラムロス地域。「壁の中」という意味で、ここにはスペイン植民地時代の多数の建造物が残っている。
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のんびりとした雰囲気のイントラムロスの通り。

1511年に建造されたサンチャゴ要塞はフィリピンの重要な歴史的ランドマークの一つである。

フィリピンの都市は屋台の多さでも知られている。

マニラには私たちにも文化的なつながりを感じさせる痕跡が残っている。サン・アグスティン教会の木製の扉には雲や龍を意匠化した装飾が施されており、その両側には石獅子が置かれている。