1978年12月16日の午前2時、米国のレオナルド・アンガー駐中華民国大使が蒋経国総統に謁見し、米国が翌年1月1日に中国共産党政権を承認することを伝えた。
それから7時間後、米国のカーター大統領はホワイトハウスでテレビ演説を行ない、このことを発表した。
この突然の消息に、台湾のすべての人が言葉にできない堪え難さと憤りを覚え、政府も国民も、さまざまな方法でその怒りを表現し、それと同時に愛国と政府擁護の感情が高まった。
募金をする人、献血をする人もいれば、軍の中には志願して兵営に残る人もいた。世界各地の華僑の間からも、自ら政府の後ろ盾となるという声が上がった。
このことにより、中央民意代表の増員選挙も延期され、候補者の宣伝カーの声も、共産党におもねる米国への非難と、国民に団結を求める内容に変わった。
「光華」もこの列から漏れることはなく、多くの誌面を割いて各地の愛国運動を報じ、我が国の充実した戦備を紹介した。
1979年2月26日、十大建設の一つである桃園中正国際空港(2006年10月に台湾桃園国際空港と名称変更)が開港した。敷地面積は1200ヘクタールで東京の成田空港より135ヘクタール広く、当時では東アジア最大規模の空港だった。近代的な空港の開港で、我が国の民間航空発展の新たな時代がスタートした。
米国との国交断絶は台湾人の団結力と士気を高めることとなった。同じ年、中正国際空港が開港した。
米国との国交断絶は台湾人の団結力と士気を高めることとなった。同じ年、中正国際空港が開港した。
米国との国交断絶は台湾人の団結力と士気を高めることとなった。同じ年、中正国際空港が開港した。