没落した炭鉱の村だが、九份;への道筋に当るという偶然から始まり、猫の溜り場として必然的に観光客をひきつけるようになった。猫の天国とは、観光客にとってそれほど魅力的なのだろうか。
時代は変ったと、陳伯父さんはため息をつく。
陳伯父さんはこれまで、猴硐;出身と人に言ったことはなかった。猴硐;とか瑞三炭鉱とか言っても、知る人もいなかったからである。そこで名刺に刷った住所は九份;、どうせ猴硐;は九份;の隣で、ちょっと先に過ぎないし、台湾で観光地の九份;を知らない人もいないからだ。
ところが、今では九份;を猴硐;に戻して、人にも言うようになった。観光客の多くが猴硐;まで猫を見に来て、ついでに九份;まで足を伸ばすのである。台北、高雄、屏東から、さらには台湾だけに止まらず、日本、韓国、アメリカからやってくる人もいるという。

猴硐は猫のおかげで活気を取り戻したが、住民の日常生活は観光客にかき乱されることもあり、小さな立て看板が注意を呼び掛ける。
運命は回り、時代は移る。陳伯父さんは、猫博士夫人の簡佩玲にこう語った。
夫人のご主人の林政毅が台北市中山動物病院の院長だったので、ピアノの先生の簡佩玲は猫博士夫人、略して「猫夫人」と自称している。
台湾鉄道侯硐;駅の王駅長も、この運命の移り変りを目の当りにしてきた。2009年以降になると、毎日600人を超える観光客が駅に降り立ち、休日には1000人を超える。以前の10倍の乗降客である。2006年に「猴硐;旅行記」があるブログに載った時、この静かで穏やかな山間の町は忘れられた町と称されていた。2007年の春、猫夫人は偶然にネットで猴硐;の猫集団を知り、猫の写真撮影のために猴硐;を訪れた。これが猴硐;の運命の転換点である。
それから4年、2011年4月中旬になると、北台湾は長い冬からようやく目覚め、固有種のブレッシュネイデラの花が開き始める。猫夫人は手になじんだPentax645D を担いで、また猴硐;にやってきた。
彼女は今ではプロの動物カメラマンで、まずは駅長と鉄道脇の塀に衛生教育の広告を出したいペット用品会社の希望を相談した。それから早足で風車が一杯に設置された長い歩道橋、光復里への唯一の通り道を渡って行った。光復里に入ると、数歩毎に「犬連れはご遠慮ください」「フラッシュは苦手です」「猫が出入りします」などと思わず微笑みたくなる標語が立っている。あちこちに小さな猫小屋が置かれていて、寒く湿った猴硐;の冬を過ごす猫の避難所となっている。
猴硐;の猫人口は約50匹で、オス猫は去勢手術されているものが多いが、それでも漏れがあったのか、妊娠中のメス猫もいる。屋根、階段、窓、花壇、草むら、家の門口の蓑笠の中にさえ、猫が蹲っている。

猫の健康と安全のために、至る所に観光客に注意を呼び掛ける標語が立っている。
かつては繁栄を誇りながら、歴史の流れとともに没落し廃墟と化すのが、炭鉱の町に共通する運命である。
昭和40年、福島県いわき市の炭鉱の社長は、廃鉱を作り変えてハワイアンセンターを作ろうと思いついた。そこで東京から先生を呼んで、町の女性にフラダンスを教えこみ、ハワイアンセンターの呼び物としたのだが、この物語が後に映画「フラガール」となった。
猴硐;がもし映画になるなら、それは夢の実現の物語であろう。基隆河の上流と山に周囲を囲まれた廃鉱の町を舞台に、猫と光復里の住人が主役となって、素のままを演じ、猫夫人と猴硐;の猫愛好家ボランティアたちが監督、助監督を勤めて協力し、観光客は観客兼エキストラとなろう。
林政毅はそんな妻を、大の猫好きが猫好きグループを率いていると評する。
台北から宜蘭行きの鈍行に乗って1時間ほど、瑞芳駅を過ぎると猴硐;駅である。「瑞芳鎮の歴史」によると、侯硐;里は侯硐;庄から名をとったという。侯硐;里第七鄰の後ろの断崖に小さな洞窟があり、サルの群れが住み着いていたので、猴洞の名がついたという。猴洞はかつては台湾屈指の炭鉱で、最盛期には人口が2、3千人に上っていた。炭鉱夫は坑道の出水を嫌うので、洞から「さんずい」を取って硐;に変えた。1961年に、政府は文字の見た目が上品ではないとの理由で、猴の字の「けものへん」を取ってしまった。それが1991年になって地方の文化関係者が地名の起源を探り、旧名回復運動を起した。2005年に当時の台北県議会は侯硐;を猴硐;に戻す決議を可決したが、交通部に属する鉄道の駅は今も侯硐;で通し、わざわざ後ろに括弧で(猴硐;)と注記している。
映画監督の呉念真は猴硐;の大粗坑炭鉱で育ち、毎日父が坑道に入っていく後姿を、父が塵肺となって倒れるまで見続けた。その撮影した映画「多桑(父さん)」のロケ地は、まさに猴硐;であった。
炭鉱が歴史となると、今度は観光の時代が始まる。2010年夏に新北市観光局は猴硐;炭鉱博物パークをオープンし、呉念真が初代観光親善大使に就任し、まずは猴硐;は猫だけではないと、宣伝に努めた。

「なに見てるの?放っといてよ。私に構わずにさっさと行きなさいよ」。猴硐の猫たちの冷ややかな視線が、かえって多くの猫好きを集めている。
しかし、炭鉱博物館や産業遺跡、日本時代の神社、金字碑古道だけで、肝心の猫がいなければ、これほどの観光客は呼べないのである。それは観光局も、駅長も、鉄道の傍で軽食を売る英さんもよく分かっている。観光客はまさに猫を目当てにやって来るのである。
猫夫人が最初に猴硐;に猫を撮りに来たとき、猫は人が近づくと逃げ、尻尾を振って警戒していた。それが二回目になると、猫の大軍に囲まれて、餌を取り合う光景に驚かされた。一般的には多くの猫が自動車事故で命を落とし、野良猫の平均余命は二年に満たない。しかし、光復里は外から自動車が乗り入れられないので、猫にとって自動車に脅かされない安全な場所なのである。
光復里は人口が流出し、長く住んでいる住民は40人ほどである。前里長の周晋億と妻の呉梨花はどちらも猫好きで、毎日食事になると猫の分も用意していた。その後、有名となった「洟垂れ」「黒鼻」「麒麟尾」「大頭」の四天王はその飼い猫であった。他の野良猫たちにも、おじさん、おばさんたちが残り物をやっていた。
天敵はいないし、餌には困らず、光復里の猫は100匹近くまで増加した。増えすぎると、地域に反発が生れだしたのが、猫夫人がやってくる直前の猴硐;の状況だった。
餌やりから病気治療、去勢手術まで、猫夫人は光復里の猫に正しい扱いを取り入れたかったが、それには住民が鍵となることを彼女はよく知っていた。猫、猫と騒いで猫ばかり大事にすれば、住民の感情を重んじない、人より猫が大事なのかと反発されるだけである。第一、猫を好きになれと他人に強要することもできない。
これには時間がかかる。マスコミに猴硐;が取り上げられ、注目を集めるようになる前は、猫夫人は猴硐;に足を運んで住民と世間話に時間を費やした。この女性が住民を批判したり、不備を指摘するのではなく、協力しようとしているという信頼関係を築き、そこから行動に移らなければならない。
作家の朱天心は町猫に餌をやって数十年努力を続け、地域ごとに猫の去勢手術を行うことを提唱している。しかし、この運動を始めてから4年で300万台湾元余りの公的資金を費やしたが、手術できたのは1765匹に過ぎない。台北市だけで1万1千匹の野良猫、町猫がいると言われ、台湾全体では30万匹を超えるというが、猫の数を抑制できると言われる去勢率70%には、まだ程遠い。
国外の研究では、去勢の効果が上がらないのは猫が危険を感じて逃げてしまって繁殖を続けるからとされているが、それも大自然の本能であろう。
こうした運動を続ける朱天心や動物保護運動家はしばしば、猫が大事なのか、人が大事なのか、猫を助けるだけの力があるなら、貧しい人を助けたらどうかと言われる。
そういった問いに「私が一番恐れるのは、日常接触する小動物への同情心を失ったら、さらに抽象的な貧困や飢餓に苦しむ子供たちには感情移入できなくなるだろうということです」と朱天心は答える。

猫夫人(簡佩玲)は猫の写真撮影かきっかけで猫愛護家になった。猴硐の光復里を歩くと、猫たちは逃げることもなく、彼女の足もとにうずくまって親愛の情を示す。
有限の資源を奪い合うというのが、台湾の動物保護運動の現実である。多くの動物保護運動家は野良猫や野良犬の悲惨な運命を目の当りにし、世に怒って過激な行動に走り、時に財産を使い果すこともある。多くの人と共同でプロジェクトを進めて、政府が負うべき責任を求めていける活動ができる人はごく少数なのである。
猫を愛するからといって、人を憎むわけにはいかないと、朱天心は一線を引く。
猫夫人は、そんな朱天心とはまた別の道を行く。怒ったり過激に走ったりせず、真正面から明るく楽しく活動する。猴硐;で撮った猫の写真をブログにアップし、名前をつけて、物語の形式で猫の気持ちを訴えかける。擬人化した猫は、それぞれが芸人となって若い人の気持ちをひきつける。このブログは人気ブログとなって、猫好きも写真好きも呼びこんだ。
ネットの驚くべき影響力は猫夫人の予想をはるかに超えるものであった。猴硐;の猫に会いに行く人、ボランティアを始める人、さらにはフェースブックで猫友クラブが組織され、現在の会員は3000人を超えている。
ボランティアの力とネットとが結びつき、さらに猴硐;の住民の協力があって、2009年9月に「猫と暮らす美しい猴硐;」写真展のイベントが盛大に行われた。写真展と10月31日に行われた猫のクリーンデーに、千人を超えるボランティアが地域の大掃除を行い、台湾観光史上かつてない猫の奇観を作り上げたのであった。
ボランティアたちは資金がなければアイディアで、楽しい活動ができると信じており、2010年3月の猫風車イベント「猫風趣」でも、風車を設置する金がない人たちも、自分で風車を持って参加した。
しかし、それでも経費は必要である。病気の猫の治療費を調達するため、ボランティアの一人は猫の絵を描いて絵葉書やグッズを開発し、また光復里の入り口に募金箱を置いた。
2009年に猫夫人の猫写真が日本の第二回田代島にゃんフォトコンテストで金猫賞を受賞し、新聞一面に掲載された。そのおかげで猴硐;の猫コミュニティの知名度が高まり、海外にも知られるようになった。
その後、猫夫人は『猴硐;猫城物語』を出版し、四大猫を紹介した。しかし、四天王のトップで気のいい黒鼻は魚の骨を詰まらせて、出版を待たずに逝去、猫友クラブと地域住民は人気猫を記念して、その彫像を立てることにした。
猴硐;駅を出ると、大きな駅長の帽子を被った黒鼻の彫像を見ることができる。現在は猴硐;の守護神である。

かつて人気者だった「黒鼻」はもう死んでしまったが、日本の招き猫を模した駅長マスコットとして猴硐の観光と動物保護の大任を担っている。写真は、猫好きの観光客と「黒鼻」マスコット。
猫がどれほどの経済効果を上げるのだろうか。日本の和歌山電鉄が経営する貴志川線では、八歳の三毛猫の「たま」が駅長に就任してからは、ここを訪れる観光客が絶えず、1年の経済効果12億日本円と正真正銘の招き猫となった。
これはすべて愛情の奇跡である。人間は基本的に猫や犬が好きで、そこに繋がりを求める。
「人の態度が変ると、猫も変わります。猫に愛情を伝えると猫からも愛情が返ってきて、幸せな気持ちになります。そこに利益があるから、愛情がある振りをする人もいますが、それが続くと本物の愛情に変ります」と猫夫人は語る。
時が流れ、最初は大きな圧力を感じた猫夫人も、猴硐;の住民の気持ちが少しずつ変るのを感じている。優しくされると、猫も人懐っこくなる。ボランティアが掃除をするようになると、住民も態度が変わる。
無論、誰もが光復里の変化を歓迎しているわけではない。新任の里長は、猫のことは自分とは関係ないと言うし、観光客が多すぎてうるさいと嫌う人もいる。
捨て猫の問題も持ち上がっている。光復里には多くの監視カメラが設置され、子供の飼い猫を捨てに来た父親が突き止められたことがある。
猴硐;の猫友クラブでは、一つの共通認識がある。現地住民を利用せず、地域に不利となることを行わず、猴硐;のイメージを損なわないことである。「猫は蚤を撒き散らすのではなく、吸い寄せてくれると話します。よい面を強調して批判や攻撃をカバーし、地域のために何をするか、行動を見てもらうのです」と言う。
猴硐;の猫村では、猫夫人が代表窓口となり、動物保護団体が随意に進出するのを許さないことにしている。

猫の健康と安全のために、至る所に観光客に注意を呼び掛ける標語が立っている。
「台湾にギリシャのように、猫が自由に暮らせる場所を作りたいと願っていました。一日中逃げ隠れして暮らすのではなく、昼間はのんびり日向ぼっこでき、夜はあちこちに猫が出没できる、そんな場所は難しいと思っていたのに、猴硐;にあっさり実現しました」とブログに記された。
猴硐;が世界でも珍しい、猫を観光にする猫村となったのは、ギリシャのミコノス島や日本の田代島のように自然の成行きからではなかった。猫好きのグループが猫好きを呼び寄せ、住民の寛容と協力があって、一歩ずつ作り上げたものである。
猫夫人の猫観察と猫撮影の経験から言うと、台湾あるいは世界のどこでも、猴硐;の猫のように可愛がられて人懐こい猫はいないそうである。猴硐;の猫は安心しきっており、予防注射も簡単に打てる。冬になると、一匹二匹が観光客に寄り添って暖を取るし、暖かい季節には階段にお腹を出して、ひっくり返って眠っている。
これこそが独自の観光の景観だろう。観光客も猫を介して会話が弾み、打ち解けあう。
ここは生命教育の現場でもある。猫を観察し、語り合い、その病気から死まで見つめることで、弱いものに対する共感が生れる。
インドの聖人ガンジーはかつて「一国の強さとその道徳の水準は、動物に対する態度で判断できる」と語ったことがある。観光客の猫に対する態度を見ると、猫夫人は台湾人もレベルが高く、生き物を大切にしていると安心する。時に耳にする動物虐待事件だけが、台湾を代表するものではない。
猴硐;は小さな町だが、台湾社会の縮図でもある。それでも猴硐;の経験は、どこにでもコピーできるものではない。一つの町にそれぞれの「猴硐;の猫」を見出さなければならない。
その第一歩を踏み出した猴硐;において、猫夫人は猫のアートビレッジの夢を描いている。観光客がお参りに来るような猫神社であるとか、屋台などで売る軽食もよくあるような鳥のから揚げではなく、猫のどら焼きといった猫を思わせる商品にしたいのである。それを現地の人が作り、地産地消を推進したい。よそ者がやってきたら、おしまいである。
一人の人が一つのグループを呼び寄せ、一つの町を変えていく。小さな町でも大きなことを成し遂げられる。それはこの土地を愛し、猴硐;という地域を愛し、猫を愛しているからである。猫夫人という猫好きが、猫好きのグループを率いたこの活動は、一本の映画ではなく、これからもずっと続く連続ドラマでなければならない。

猫の健康と安全のために、至る所に観光客に注意を呼び掛ける標語が立っている。

「なに見てるの?放っといてよ。私に構わずにさっさと行きなさいよ」。猴硐の猫たちの冷ややかな視線が、かえって多くの猫好きを集めている。

「なに見てるの?放っといてよ。私に構わずにさっさと行きなさいよ」。猴硐の猫たちの冷ややかな視線が、かえって多くの猫好きを集めている。

写生をしにきた子供たちに好奇心を抱いた猫は、画用紙の上に寝転んで「私を描いて」とせがむ。

すでに過去のものとなった炭坑の町が、猫のおかげで再び脚光を浴びることとなった。多くの猫好きが誘い合って訪れるようになり、人気の観光地となったのである。

「なに見てるの?放っといてよ。私に構わずにさっさと行きなさいよ」。猴硐の猫たちの冷ややかな視線が、かえって多くの猫好きを集めている。

危なっかしい塀の上で悠然と眠り、その向うを列車が走り抜けていく。猴硐は猫保護政策によって付近の九份や瑞芳と肩を並べる観光地になり、猫のおかげで経済と観光の分野でも市民権を得た。

「なに見てるの?放っといてよ。私に構わずにさっさと行きなさいよ」。猴硐の猫たちの冷ややかな視線が、かえって多くの猫好きを集めている。