ミャンマーを訪れると、強い日差しの下でスイカを売る女性の姿が印象に残る。ミャンマーのスイカは大きくて甘くジューシーで、世界に知られる台湾のスイカの味に劣らない。
実は、ミャンマーのスイカの9割は台湾の品種なのである。現地の貧しい農家に経済的価値の高い果物の栽培を教え、ミャンマーに毎年3000万米ドルの外貨収入をもたらしている背後の立役者は、台湾の農友種苗公司である。
農業人口が全体の7割を超えるミャンマーでは一面の水田の中に茅葺の小さな家が点在する。木材の柱を中心に、枝や茅で建てた質素な家には水道も電気もなく、風にも弱いし雨漏りもするが、これが最も一般的な「国民住宅」であり、ここからも現地の農家の貧しさがうかがえる。
外国企業はミャンマーの安い労働力と巨大な市場に目を向けるが、現地の人々の生活に関心を寄せる人は少ない。そうした中で、長年にわたってミャンマー農家の経済状況改善に力を注いできた台湾の農友種苗公司は極めて例外的な存在だ。

日が傾くと家路に就く農業訓練所の生徒たち。彼らはミャンマー農業の希望の星だ。
農友種苗公司は、台湾で初めて種なしスイカの栽培に成功した「スイカ大王」陳文郁によって1968年に創設された。台湾ではおなじみの聖女プチトマトや天蜜洋メロン、それに数々のスイカの品種は、この会社の種苗栽培チームが生み出してきた。
農友種苗には世界各地の6万種以上の野菜・果物の種子が保存されており、スイカだけで1000以上の野生種がある。味覚の好みによって「オーダーメイドのスイカ」を生み出すこともできる。
同社はすでに300種近いスイカの品種を開発し、その生産量は世界のスイカの種子の4分の1を占め、50数ヶ国へ販売されている。
農友種苗の支社はシンガポール、タイ、大陸福建省、ベトナム、インド、インドネシアなどにあり、1994年にはミャンマーでの栽培を開始した。広大な沖積平野を持つミャンマーの土壌は肥沃で、温暖な上に雨量も多く、瓜類の栽培に適していることがわかり、ここに拠点を置くこととした。
だが、計画経済を実施するミャンマーで経済的価値の高い作物の栽培を推進するのは難しかった。軍事政権は各地で栽培する作物の種類を強制的に決め、主食となる稲や雑穀を主とするため、その他の作物を栽培する場所を探すのが大変だった。
「当時、ミャンマーの農業大臣に、私たちの農地探しに協力してほしいと願い出たことがありますが、『飯を食わなければ餓死するが、果物は食わなくても死なない』と冷ややかに断られました」と話すのは、農友種苗ミャンマー支社の総経理・郭坤石だ。彼はミャンマーで15年、現地の台湾企業の間では「地下の農業大臣」と呼ばれている。
幾度も働きかけて、ようやく政府の管理が及ばない半端な土地を探しだし、まず興味を示した農家に栽培してもらい、少しずつ基礎を作ってきた。
農友種苗は長い年月をかけ、実績を示して軍事政権の信頼を獲得し、ついに稲作が休耕になる乾期にウリ科果物を栽培することが認められた。

農友種苗ミャンマー支社の郭坤石総経理は、ミャンマーのスイカ市場開拓の立役者である。
ようやく土地が見つかったが、農友種苗は新たな難題に直面した。観念も技術も遅れている現地の農家をどう変えるかという問題だ。
郭坤石によると、ミャンマーの人々の果物栽培の方法は、食べた果物の種をそのまま土に埋めて水をやるだけというものだ。品種を選んだり、牛糞や鶏糞を肥しにするという経験もなく、そのため実る果物も小粒で種子が多く、甘くない。
「どんな作物を採りたいかで栽培方法が変わる」と言われる。ミャンマーの農業技術向上のため、農友種苗は1997年に同国農業省と協力し、ヤンゴン近郊に全国初の無料の農業訓練所を開設した。1年2期、1期4ヶ月で、理論と実践を合わせてウリ科の果物の栽培方法や病虫害対策などを教えるもので、すでに800人が受講した。
カリキュラムが終わると、農友種苗は受講者に5000台湾ドル相当の各種種子を贈り、家でそれを栽培し、学んだことを周囲の人に教えるよう促す。
郭坤石によると、この訓練を受けた農家の中には、数年後に利益を出してお礼を言いに来たり、その利益で買った車を運転してくる人もいるという。当時ミャンマーでは中古車でも100万台湾ドルはした。「彼らの経済状況が改善したのを見て、本当にうれしく思いました」と郭坤石は言う。

農友種苗公司が資金を出して建てた農民病院は、ミャンマーで数え切れないほどの患者を救ってきた。写真は院長(左)と医療スタッフ。
気候や技術などの要因もあり、農友種苗がミャンマーで最も力を注ぎ、成功したのはスイカである。中でも大きくて果汁の多い「華峰164」と、糖度が13に達する「華光855」は評判が良い。
だが、現地の人々は高価な果物は買えないので、隣りの広大な中国大陸への輸出を開拓すべきだと郭坤石は考えた。特にミャンマーのスイカの最盛期である11月~3月の乾期は、中国大陸では果物が不足する冬なので、大きな利益が見込める。
そこで2000年、農友種苗は中国大陸との国境の町ムセ(両国の住民が自由に往来できる)でスイカの品評会を開いた。ミャンマー各地からトラック5台分のスイカが集まり、中国側の仲卸100人を審査に招いた。しかし、当時ミャンマーの北の国境地帯では少数民族の内戦があって外国人は入れず、郭坤石は品評会のために、ヤンゴンから雲南省の昆明へ飛び、そこから車でムセまで移動した。
ただ、それまでミャンマーから大陸に輸出されていた果物の質は良くなかったため、大陸の仲卸はなかなか値を付けようとしなかった。
そこで郭坤石は自ら「買い手」を手配して、大陸の小売価格の2倍の値を付けた。「私は彼らに高値を付けるよう頼み、本当に損をしたら賠償するからと言っておいたのです」と話す郭坤石は、絶対にその価格の価値があると信じていた。高値で売れてこそ、ミャンマーの農家の利益が出るのである。
この作戦が功を奏し、高値で売れただけでなく、中国でも大いに評判になり、価格はさらに上った。今では国境貿易で年間3000万米ドルも売れ、毎年10~15%成長、農家の収入増加に役立っている。

種子から育苗、生長、採集まで、農友種苗公司はミャンマー農業の競争力向上に重要な役割を果たしてきた。写真はトマトの苗。
農友種苗は最新の農業技術を教えて市場開拓に協力するだけでなく、無料の病院まで建てた。
郭坤石は、農友がミャンマーに進出した当初から現地農家の貧困の深刻さを感じていた。郭坤石がこの状況を本社に報告すると、もともと世界各地の農家の力になりたいと考えていた農友種苗創設者の陳文郁は、ミャンマーに農民病院を建てるという目標を立てた。
だが、台湾とミャンマーは国交関係もなく、現地政府は台湾に非友好的だった。申請手続は幾度も壁にぶつかり、軍事政権からは、台湾が病院を建てようとするのはミャンマー農民を新薬の実験に使うためではないかと疑われたことさえある。
あきらめた陳文郁は、同じく貧困問題の深刻なインドで病院建設計画を実施することにした。この消息が伝わると、ミャンマーでかつて高い地位にあったネ・ウィン将軍の孫が政府に働きかけ、農民病院建設計画がようやく実現に向かい始めた。
2001年3月、ヤンゴンに近いエーヤワディー管区に1億台湾ドルを投じて敷地4ヘクタールの農民病院が完成した。内科、外科、小児科、歯科、産婦人科と30の病床があり、救急車、レントゲン室、生物化学実験室や手術室も揃っている。台湾の標準から見ると簡素だが、人命を守る機能は十分にある。
設立から11年、農友病院では毒蛇に噛まれた800人の命を救い、また、難産、肺炎、盲腸炎など、以前なら助からなかった症状の患者の命を数え切れないほど救ってきた。
農友種苗公司は注目を浴びている企業ではないが、ミャンマーの農業部門からは尊重され、無数の農家から感謝されている。二国間に正式な外交関係がない中で、同社は最も感動的な「スイカ外交」の物語を綴ってきたのである。