4年前、精神科医の許超彦は大志を抱いて中国大陸に渡った。福音を伝えるとともに、精神医学が比較的遅れている中国で人々に専門的なサービスを提供したいと考えたのである。ところが4ヶ月後、彼は救急チャーター機で台湾に搬送されることとなる。
この時から許超彦の人生は変わった。
北京郊外のスキー場で許超彦は急斜面を滑走し、前のめりに転んで肋骨を4本骨折した。勢いはそのまま止まらず滑り続け、傍らの鉄柱にぶつかって第四胸椎が折れてしまった。
医師である彼は、負傷した瞬間に「大変なことになった!」と思った。良くても身体は不自由になる。悪くすれば命も危ないと。一緒にいた仲間たちは慌てて彼を医務室に運び、声を上げて泣いた。

下半身不随となり、初めて妻に子供のように抱きかかえられて起き上がる様子。この後は辛いリハビリが続いた。
医務室で、許超彦は聖書の物語を思い出していた。――中風で歩けない人を4人の人がイエスの前に運ぼうとしたが、人だかりでイエスに近づくことができない。そこで彼らがイエスの近くの屋根から患者をつりさげたところ、イエスは彼らの信仰を見て「子よ、あなたの罪はゆるされた」と言われ、その人はすぐに歩けるようになった。
「私にとって神は今も生きています。御心があれば私はすぐに立ちあがって歩くことができるのです」医務室のベッドで彼は祈っていた。
その後、北京市内の病院に運ばれた。残念なことに彼の怪我は完全型損傷だが、幸い心臓や肺には損傷はなく、命の危険はないことがわかった。
手術前の数日間、彼は身動きできないまま天井を見つめていた。下肢には全く感覚がなく、足を切断した方がいいのかと思った時、天井の蛍光灯と自分の頭と両手が十の字を形作っていることに気付き、「自分の十字架を背負って私に従いなさい」という聖書の言葉を思い出した。自らの十字架を背負う気持ちになれば、今後の道は違うものになるかもしれないと思った。

下半身不随となり、初めて妻に子供のように抱きかかえられて起き上がる様子。この後は辛いリハビリが続いた。
一般に医療関係者は、脊髄損傷患者の初期の治療の時、一生歩けなくなること、トイレをコントロールできないことなどを明白に告知できない。だが、許超彦は自分の身体が多くの重要な機能を失ったことをよく理解していた。
しかし、許超彦は多くの患者とは違う態度を見せた。怪我から間もなく、自分にまだ与えられている祝福を数え始めたのである。なぜ、このようにポジティブに考えられたのだろう。
「この後に続く医療やプロセスはすべて理屈通りではないことを知っていたからです」許超彦は、医療過程において数々の「祝福」があったと言う。スキー場の医務室で救急車を待つ4時間、胸腔内の出血量は2000㏄を超え、まず大量の輸血が必要だった。そこで整形外科で有名な北京第三病院へ行く計画だったが、運転手が道を知らないというので積水潭病院へ向い、大陸の胸椎科の権威である院長に執刀してもらうことになった。その院長は台北の栄民総病院で技術を学んだということだった。
強い生命力と神の祝福があり、手術は順調で台湾へ帰ることができた。だが、成績優秀で順調な道を歩んできた彼は初めて苦しい道を歩むこととなる。
許超彦は台中一中を卒業して台湾大学医学部に入り、大学時代に洗礼を受けて結婚、北京での仕事を選んだ。31歳までの人生は順風満帆だった。
ベッドの上で何もできない時、これまで多くのものを努力せずに得てきたことに気付いた。両親、先生、友人、伴侶など、感謝すべき人が大勢いた。
7~8ヶ月にわたる入院を経て、病院を後にした時から新しい試練が始まった。

「私は自分の十字架を背負って主に従います。どうか道をお開きください」と、事故で重い障害を持つこととなった許超彦は、祈りの中に力を得ている。
帰宅して一週間、許超彦は毎朝おしっこの中で目を覚ました。成人用おむつが合わないのである。リハビリ用バスで病院へ行くだけでまる一日かかり、疲労困憊して帰宅するという状態だった。
自信と愛を頼りに許超彦は一つ一つ解決方法を見出し、克服していく。「なぜ?」と考えるのではなく、「何をするか?」を考えて行動していった。
「自分でできることが一つでも増えれば、妻の負担が軽くなります」事故から9ヶ月後、許超彦は自分のことができるようになり、妻は仕事に戻った。
最も面倒な入浴とトイレに、許超彦は毎日1時間半かけなければならない。大の方は必ず家で済ませて外出し、小の方は3時間半おきに行かなければ、垂れ流してしまう。
トイレの他に彼が楽観的に取り組んでいるのは歩行である。リハビリ科のベテラン教授からは歩行は一生無理と言われたが、彼は奇跡のように第一歩を踏み出した。事故から3~4週間目、妻に抱きかかえられてベッドに身を起こした時、自分が浮いているように感じ、自分の座っている位置を少しずらせるようになった。その後、ひざまずいて移動し、起き上がれるようになり、全身の力を込めて前に一歩踏み出した。1年8ヶ月の後、彼は特製の鉄の靴を履き、少しずつ歩き始めた。今は鉄の靴と歩行補助器具を使って1時間も歩くことができる。
目覚ましいスピードで回復した許超彦だが、突然襲ってくる神経痛には痛くて涙が出たと言う。
脳が下半身の神経信号を受けられないため、身体の感覚信号が不安定で、それを冷熱やしびれなどとして解読してしまう。酷い時には、足の親指を何回も抜き取られるように痛む。気が狂いそうな痛みだが、最初は薬も効かず、神に祈って乗りきるしかなかった。後に医者が薬を見つけてくれ、ようやくこの苦痛を和らげることができた。

許超彦は強い精神力をもって立ちあがり、大きな一歩を踏み出した。担当の医師もこの奇跡に驚嘆している。
生死にかかわる大事故の後、許超彦は生きる意義を積極的に考え始めた。
スキー場での事故は2009年1月1日に起り、その年の12月31日に父親が末期ガンと診断されて3ヶ月後に息を引き取った。
許超彦が半身不随になった後、中医学を専門とする父親は神に怒りをぶつけたが、毎週日曜日に台北へきて息子に鍼灸治療を施した。翌年、父の病状が悪化した時は逆に許超彦が南部へ行って付添い、最後の2ヶ月、父親は神の祝福を受け入れた。
「この事故がなければ、私は北京で仕事を続け、父とともに過ごす時間も得られなかったでしょう」これも主のお導きだと考えている。
事故から1年3ヶ月後、許超彦は台北市立聯合病院松徳院区で仕事を始め、台北コミュニティ心理衛生センターでも診療を行なっている。床ずれを避けるために30分おきに両手で下半身を動かす姿を見なければ、患者はデスクの向こうの医師が車椅子に乗っていることに気付かないだろう。
教会や学校、企業、慈善団体などでの講演活動も始めた。そこで脊髄損傷基金会の林進興理事長やHP元董事長の黄河明らと出会った。基金会の理事も務める黄河明は従兄が脊髄損傷患者であるため、積極的にリハビリや職業訓練に協力している。
同じ信仰を持つ林進興は、許超彦に基金会の執行長を任せたいと考えたが、当時、博士課程へ進むことを考え、国家衛生研究院で依存症予防治療研究計画に参加していた許超彦は悩んだ。
最終的に、この仕事を引き受けることを決めた。「私がこのような障害を持つことになったのには、主の御意志があるはずです。医師であり、患者の苦痛も理解できる私に何かをさせようということだと思いました」と言う。
許超彦によると、台湾では毎年約1200人が事故で脊髄に損傷を負っており、平均年齢は27歳、うち6割がバイクの事故が原因だ。若い盛りの彼らが社会に復帰できず、一生介護を必要とする場合、その医療費は2000万元になり、家族も苦しむこととなる。
友好的な社会を「患者1人の介護に、生産年齢人口が1人必要になると、家庭は一度に2人の生産力を失ってしまいます」だからこそ、家族をサポートする団体の存在が重要になる。基金会では2人のカウンセラーが家族に協力しており、それを半年続けると、家族の無力感は65点から15点まで軽減するのだ。
昨年4月5日に設立された「台北市脊椎損傷社会福祉基金会」は、患者が社会復帰しやすい「友好的な社会」を目指し、一般企業が社会的企業をアドプトしてサポートするよう呼びかけている。
企業が少しだけ作業工程を変えれば患者は職場に入ることができると許超彦は言う。携帯電話のHTCは良い例だ。同社は最初、脊髄損傷患者6人を雇用してそれぞれを「小天使」1人がサポートすることにしていたが、作業場をバリアフリーにして動線を変えた結果、患者8人に小天使2人でできるようになり、今は35人の患者を雇用している。
基金会が設立した社会的企業「新生命情報サービス」では、脊髄損傷患者に情報サービスと設計の訓練をしている。彰化出身の小玲は頸椎損傷のため首に固定具をつけており、ほとんど動かせない。だが、口で吸ったり吐いたりすることでマウスをコントロールしてデザインができるようになった。
脊髄損傷基金会の執行長になって一年、許超彦はこの仕事に全力で取り組んでいるが、忙しすぎてリハビリに必要な30分の歩行と15分のストレッチの時間も取れないという。また、長時間座っているため膝関節の動く範囲が狭くなっている。
だが感謝を忘れない彼は楽観的だ。「どんな境遇にあっても主は必ず道を開いてくださるでしょう」許超彦にはその道が見えているのである。