台湾東海岸を走る省道「台九線」ではなく、台湾と日本の九州を結ぶ「台-九線」である。
台湾と九州の距離は約1000キロ、飛行機でわずか2時間と近い。二つの島は、経済活動では同じく中小企業を中心としており、歴史的にも深い結びつきがある。
日本の西南に位置する九州は、日本の古代文明発祥の地であり、また日本の近代化改革を推進した志士の多くも九州の出身だ。かつて台北福岡経済文化弁事処(駐福岡弁事処)処長を務めた戎義俊は、退官後に宮崎県の観光大使に任命された。その話によると、日本では昔から、九州は関門海峡を挟んだ山口県と一つの経済圏を成しており、しばしば九州‧山口地方と呼ばれるそうだ。
九州最北端の門司から関門橋を渡ると山口県の下関市(古くは馬関と呼ばれた)に着く。1895年、その下関のふぐ料亭「春帆楼」で馬関条約(下関条約)が締結された。今でも春帆楼の隣接地にある「日清講和記念館」に、当時の場面や文書が再現されている。ここから台湾の歴史は大きく動き始めた。

下関にある日清講和記念館には、馬関(下関)条約が交わされた当時の模様が再現されている。台湾と日本の物語はここから始まった。
物語発祥の地
歴史に新たなページが開かれ、人と人との交流の物語も始まり、台湾と九州の関係はしだいに緊密なものとなっていく。
門司港は1889年に開港、1903年から台湾バナナの輸入が始まり、その頃から熟しすぎたバナナを処理するための「たたき売り」が始まったが、これは大道芸として今も伝わっていて、週末になると街頭で披露される。
日本統治時代、台湾を統治した19人の総督のうち7人は九州‧山口の出身だ。その地の利から、日本政府の政策推進のために台湾に渡ってきた公務員や技術者、教員、警察官などの多くも九州の出身であった。
かつて孫文は、九州の多くの企業家から革命資金の援助を受けた。辛亥革命後の1913年には再び九州を訪れて支援者たちに革命の成功を報告し、当時の九州帝国大学(今の九州大学)で講演を行なっており、その筆になる「学道愛人」の墨宝が保存されている。
多くの日本人から敬愛されている西郷隆盛だが、その長男である西郷菊次郎はかつて台湾で宜蘭庁長を務め、宜蘭川の堤防を整備して民衆の暮らしを改善した。現在の「宜蘭設治紀念館」はその旧宅であり、宜蘭では今もその勤勉さと親しみやすさが語り継がれている。
政治だけではない。「蓬莱米の母」と称えられる末永仁も福岡出身であり、また台南に「ハヤシ百貨店(今の林百貨)」を創設した林芳一と、台北に「菊元百貨店」を創設した重田栄治も山口県の出身だった。
このように台湾と九州は昔から特別な縁で結ばれており、この海を越えた「台-九線」は点から線へとつながっていった。

笑いを誘うバナナのキャラクター。
台湾への永遠の想い
日本統治時代に台湾で生まれた日本人は「湾生」と呼ばれた。戦後彼らは続々と帰国していったが、自分が生まれ育ち、あるいは働き、恋愛をした台湾は、彼らにとって常に気がかりな忘れられない存在である。
2015年、かつて台湾代表として甲子園に出場した台南州立嘉義農林学校の物語を描いた映画『KANO 1931海の向こうの甲子園』が日本で上映された。熊本在住で100歳を超える高木波恵さんは、以前台中の烏日公学校で教えていた頃、ラジオを聞きながら嘉義農林を応援したことを思い出したという。そして当時の教え子たちを思い、孫娘に台湾へ手紙を書かせた。すると、まるで映画『海角七号 君想う、国境の南』のように、台中の郵便局員が熱心に当時の生徒を探し出したのである。当時の生徒たちは、すでに106歳になっていた高木波恵さんとテレビ電話を通して80年ぶりの再開を果たし、「先生」と呼びかけた。
駐福岡弁事処の現処長である陳忠正は、すでに物故した小菅亥三郎氏の物語を語ってくれた。企業経営者だった小菅氏は、台湾に社員旅行に行った際、花蓮‧台東で戦争中に日本のために南洋で亡くなった先住民族の高砂義勇隊の物語を知った。さらに、かつて小菅氏の父親と一緒にフィリピンで捕虜になったという台湾人とたまたま出会い、以来、小菅氏は社員旅行を慰霊の旅と位置付け、20年にわたって毎年必ず台湾を訪れて高砂義勇隊の遺族を訪ね、死者を弔ってきた。
現在、山口県日台親善協会の会長を務める中治宣光氏は今年83歳になる。氏は台北菊元百貨の創設者‧重田栄治の孫で、台湾で生まれ、10歳の時に日本へ帰った。サトウキビを運搬するトロッコで基隆港まで出て、貨物船に乗って日本へ向かったという。彼の家は建成小学校(現在の台北市建成中学)の隣りにあった。かつて菊元百貨店から帰宅する途中で道に迷った時には、優しい台湾人が家まで送ってくれたことを覚えている。また、台北大空襲の時には、天母から総督府(今の総統府)が燃える様子も見た。「台湾のことは今もよく覚えていますよ」と、中治宣光氏は私たちに話してくれた。
今年4月、山口県の錦帯橋まつりでは山口県日台親善協会がブースを出し、台湾から取り寄せた果物や菓子のチャリティセールを行なった。そしてその場で、駐福岡弁事処が管轄する華僑コミュニティが呼びかける台湾のWHA(WHOの年次総会)参加を支持する署名活動も行なった。駐福岡弁事処秘書の李杰宏によると、その時の署名活動では全体の4分の3が山口県で集められ、すでに70~80歳の高齢者が街頭で声をかけて署名を集めてくれたことに胸が熱くなったという。しかし中治宣光氏は淡々と「少しでも台湾の役に立ちたかっただけです」と語る。
年齢を重ねるにつれ、中治氏の台湾への思いは強くなり、「自分のルーツは台湾にあると感じています。一生台湾のことは忘れません」と言う。氏は「台湾が永遠に台湾であることを願う」という内容の文章も書いている。台湾と日本が主権在民の制度の下で、永遠に友好関係を保ってこそ太平洋地域の平和と繁栄に貢献できると考えているからだ。

異国情緒あふれる門司港は、台湾バナナが初めて日本に上陸した場所でもある。
互恵関係の新たな契機
九州の面積は日本全土の約10分の1、経済規模も全国の10分の1であることから、九州経済圏は「10分の1経済圏」とも呼ばれる。主な産業は、自動車、鉄鋼、バイオ、半導体などだ。福岡台湾貿易センターの駱慧娟処長によると、台湾は九州経済圏にとって第4の輸出先であり、また九州は台湾にとって第8の輸入先だ。2017年の統計によると、台湾から九州へ輸出された製品の65%は半導体関連である。九州の半導体産業は特に台湾との関係が密接で、相互補完の関係にある。台湾は九州から半導体関連設備や原材料を輸入し、それを半製品に加工して日本へ輸出する。一般の消費者が目にすることのない製品のため、あまり馴染みはないが、両者の貿易が盛んなことは数字から見て取れる。
このほかに、国境を越えた起業交流も行われている。2017年に福岡にゴルフェイス社を立ち上げたのは台湾のスタートアップ企業だ。創設者の廖聡哲氏は趣味のゴルフの分野で起業した。従来のゴルフ場経営はハイテク化が進んでおらず、人件費がかかる。そこで彼はゴルフ場管理にテクノロジーを導入し、ビッグデータ分析を通してマーケティングを行ない、収益を高めるというゴルフ場のソリューションを提供している。
世界へ出ていくには、まずアジア最大のゴルフ市場を持つ日本への進出が欠かせないと彼は考えた。だが、日本での起業は容易なことではないため、まずスタートアップ‧コンペに参加して日本での知名度を高め、九州最大の私鉄である西鉄グループから協力を持ちかけられた。
福岡を選んだのは、台湾とリズムが似ていること、そして東京や大阪で起業するよりコストが抑えられることを上げる。もちろん台湾との文化の違いはある。「例えば日本人は手順を重視し、一歩ずつ進めます。顧客を訪問するにも、紹介がなければなりません」と言う。だが福岡市も善意を示し、スタートアップ‧ビザを提供するほか、ワンストップの相談窓口もあり、専門性の高いサービスが得られて助かると廖聡哲氏は言う。

台北菊元百貨店の創設者である重田栄治の孫であり、台湾で生まれた中治宣光氏(右)は、「私のルーツは台湾にあり、一生忘れることはありません」と語る。
次世代へつなぐ
福岡に到着した日の夜、ちょうど駐福岡弁事処の処長公邸で音楽会が開かれていた。
音楽会を企画し準備したのは九州台日文化交流会の本郷啓成(呉啓成)氏である。基隆鉱工病院の院長で声楽家の劉立仁氏、在日声楽家の吉川千巧(林千巧)氏、そして福岡の歓喜合唱団が招かれていた。音楽会には株式会社大島組の大島英二会長や新聞記者も集まっていた。この音楽の宴では、日本語、中国語、閩南語、イタリア語などが飛び交い、最後は全員でテレサ‧テンの「時の流れに身をまかせ」の大合唱となった。
本郷啓成氏は台中出身、家族の多くは歯科医である。30余年前に日本へ移住して福岡に居を構えた。夫人の本郷みどり氏も歯科医で、夫婦は一緒に早良区で開業。早くに日本で「予防歯科」に触れ、治療より予防という考えを重視してきた。本郷啓成氏は妊婦を対象にした子供の歯科指導も行なう。「妊娠4~8週間で乳歯が発達し始め、4ヶ月で永久歯の基礎が形成されるので、母体は最良の状態を保たなければなりません」と言う。町の歯科医であり、親子四世代にわたる患者も多い。専門分野を活かして日本の地域社会との親睦を深めている典型的な事例と言えるだろう。
本郷氏は音楽愛好家でもある。敷地百坪の日本家屋の別荘には、夫婦で集めたアンティークが収められており、その空間を台日交流活動の使用に提供し、国境のない音楽を通して文化交流を推進している。さらに刊行物『台日草の根』を発行して活動を記録し、日本の人々に台湾をもっと知ってもらおうとしている。
「台湾と日本との間にはこのように良好な関係があるのは、年配の方々の努力によるところが大きいのです」と戎義俊は言う。日本の若い世代は台湾のことをあまり理解していないと感じ、戎義俊は国立九州大学に「台湾研究講座」を開いた。さまざまな分野の学者を通して台湾を紹介し、日本の若い世代に台湾への理解を深めてもらいたいと考えている。
陳忠正も駐福岡弁事処の処長に就任した後、若い世代の台湾に対するイメージ確立と相互交流の強化に努めている。近年は、日本の高校生の海外修学旅行の目的地として台湾が選ばれることが多く、アメリカを抜いてトップになっている。陳忠正によると、2017年の日本の統計では、325校の約5万4000人の生徒が台湾に修学旅行に来ている。駐福岡弁事処は早くからこの趨勢に気づき、台湾修学旅行説明会を積極的に開いてきた。今年、熊本で開いた説明会はすでに5回目となり、李杰宏秘書は、日本の多くの若者が台湾を旅することで、青春の日々の記憶に台湾を残してほしいと考えている。
台湾と日本の間には歴史的な縁があるが、困難に直面した時こそ真の友情の価値がわかる。2016年の熊本地震の際、台湾はさまざまな支援をした。2018年4月18日の花蓮の地震の翌日には、駱慧娟は同じビルのオフィスに勤める日本人から地震被害を聞かれ、どこへ行けば寄付ができるか訊ねられた。東日本大震災からすでに8年になるが、当時の台湾からの支援に対して今でも多くの日本人から感謝され、かえって恐縮してしまうほどだ。本郷啓成氏は「あなたが片手を差し出すと、相手は両手でそれを握ってくれます」と語ってくれた。このような友情が永遠に続くことを心から願いたい。

駐福岡弁事処の陳忠正処長は日本の若い世代と台湾との交流を推進している。

福岡で起業した廖聡哲さんは、ゴルフ場経営にテクノロジーを導入するビジネスを展開している。

南廻線と姉妹鉄道の関係にある肥薩おれんじ鉄道。両者ともに海沿いの美しい景色の中を走る。

本郷啓成氏は歯科医として日本で地域住民と良好な関係を築き、音楽を通した台日交流を推進している。

処長公邸音楽会では、国籍や言語を越えてともに音楽を楽しむ。左から5人目は、基隆鉱工病院院長で声楽家でもある劉立仁氏。

海を越えて結ばれた台湾と九州の絆。写真は保存修理工事が完了したばかりのJR門司港駅。