1995年、大学生にとってインターネットのイメージと言えば掲示板やモザイクなどに留まっていたとき、政治大学ビジネス学科大学院に在籍していた薛暁嵐さんは台湾大学商学部大学院生の賀元さんと50万台湾ドルを投資し、資迅人社を設立した。
資迅人の副総裁薛暁嵐さんは、何でも知っているといった自信たっぷりな口調で起業の過程を語る。彼女はインターネットが人間の生活に巨大な影響を与える産業に育つと、早いうちから予測していたそうである。「最初のネットブームに乗ることができました」と、薛暁嵐さんは起業のタイミングを掴めたことが成功の第一歩だったことを認める。
起業当初は、既存ソフトの解説本やその中国語化で会社の経費を稼いでいなければならなかった。この会社草創期に、事務所で何回夜を過したか分らないと薛暁嵐さんは言う。こういった本の取次ぎ代理店からの支払いが焦付いてしまい、2カ月間会社に一銭の収入もないという挫折も経験した。「起業を計画するに当って、こういった問題も真剣に考慮しておくべきです」と、起業ブームに後れまいと焦る若い人に、ネット起業の先輩薛暁嵐さんは警告する。
資迅人ネットグループは、設立のときから業務分担が明確だった。賀元さんがソフト開発を担当し、薛暁嵐さんは会社の運営とマーケティング戦略を練ったのである。そして起業2年目に最初のヒットソフト、「IQ97ネット・サーチ」が生れた。
賀元さんが開発したサーチ機能に優れたこのソフト、IQ97を薛暁嵐さんが早速アメリカのソフト評価サイトZDnetに評価のために送り出した。その結果は、ファイブスターの最高評価だったのである。この評価を武器にして、薛暁嵐さんはネットを通じて世界各国の代理店と連絡し、IQ97を7カ国語に翻訳させて、国際市場に売り込んだ。このソフトは1997年10月に正式に発売してから、一年の間に300万本を売り上げた。
その後、通信ソフトの8d callを売り出し、世界中で百万人の会員を集めた。1998年には電子商取引の普及に対応して、リアルタイムのオークション・サイトCoolBidを開設したが、ここでも四半期毎の売上が6000万台湾ドル、会員数は10万人に達するという成功を収めたのである。
薛暁嵐さんはさらに世界的な著名企業との提携を考え、会社を世界に売り出そうとした。1998年、彼女が準備した提携企画案を見たインテル社は、ただちに提携プロジェクトを投資プロジェクトに格上することを決定したという。資迅人ネットは、インテルがアジアで投資する最初のインターネット会社になった。今日、資迅人の社員数は当初の4人から100人に成長し、アメリカ、台湾、中国大陸に跨る多国籍企業となった。
「資迅人が提唱するのはネットがハイテクのアートで、よりよい生活様式を提案できる言うことです。このアート作品は、独創的でなければなりません。ネットとはソフト、メディア、データバンク、コミュニケーションのツールで、想像力を発揮できる場です」と薛暁嵐さんは話す。
資迅人のオフィスにはダビンチやアインシュタインの肖像と、会社のロゴが並ぶ。こう言った人々の努力と創造が一般の生活様式を変革してきたのだが、それこそが資迅人の伝えたい精神なのだと彼女は話す。薛暁嵐さんにとってホームページはツールであり、コミュニケーションのプラットホームでもある。それはネット会社も同じことでなのだ。新しい世代の会社は弾力的で効率的、そして着実に実践していくと言える。資迅人のイントラネットにはチャットあり、休暇届、勤務規定、出張伝票、社員同士の不用品交流広場まで揃っている。資迅人の事務所に採用された蛍光灯の色彩はあたかもファッションショーの舞台のようで、現代のハイテクを思わせる。
今年4月、アメリカのハイテク株を代表するナスダックが暴落し、ネット経済のバブルがしぼんだ。資迅人に対しても資金の調達難、経営陣の異動、株式公開申請の却下などの噂が流れたが、薛暁嵐さんはきっぱりと資迅人社は会社の位置付けが明確で、景気低迷の影響をそうは受けないと否定する。
その若々しい表情とはっきりした行動基準を見ていると、ネットの新時代が生活やビジネスを革新していくのが分る気がするだろう。
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薛暁嵐さんのオフィスはネット起業家らしい創意にあふれている。(林格立撮影)