台湾海峡両岸の交流が開放されて以来、文化関係者の間では故郷に戻ってルーツを探る動きが盛んになった。中国大陸には今も300に上る伝統演劇が残されているが、歴史の浅い伝統演劇の一つは、逆に大陸から台湾にルーツを探りに戻る必要があるという。20世紀初頭に台湾の宜蘭に始まった歌仔戯がそれである。
歌仔戯百年の歴史が始ったばかりの20世紀初め、台湾海峡を行き来する歌仔戯の一座に伴って芝居そのものが対岸の福建に伝わり、
州一帯では
劇、厦門(アモイ)では歌仔戯と呼ばれるようになった。戦後の中国大陸は演劇改革や文化大革命の波を被り続けてきたために、大陸と台湾との異なる文化的背景の中で別々の発展をたどってきた歌仔戯だが、半世紀を経た今、それが同じ舞台に乗ることになった。それぞれが見せる独自の風貌が、舞台上に展開する。
台湾の国立伝統芸術センター準備事務所が主催し、寥瓊枝歌仔戯文教基金会が実施した「歌仔戯百年、2001年台湾海峡両岸の歌仔戯発展交流セミナー」は、この初秋、台湾海峡両岸に位置し、歌仔戯発展に重要な役割を果した台北、宜蘭、漳州、厦門の四都市で次々と開催された。
セミナーでは、学術交流の合間を見ながら、歌仔戯研究者と役者たちが宜蘭県員山郷を訪れ、歌仔戯の鼻祖と言われる「歌仔助」がその下で芝居を教えたという古木を訪ねることにした。また員山郷戯曲公園では、台湾でも一番古い面影を残すという本場の歌仔戯を観賞した。舞台で演じられた演目は「山伯、王婆の店に」であり、山伯役のアマチュア役者は簡単な中国服、道化の四九役は肌着姿という衣裳で、次々に駄洒落を飛ばす。本来は二枚目と娘役が演じる悲恋物の梁山伯と祝英台の芝居なのだが「道化の芝居が中心になり、田舎言葉の台詞、簡単な衣裳と、自分も一緒に楽しむ百年前の歌仔戯本来の姿が見られます」と、宜蘭の歌仔戯を研究している静宜大学中文学科の林茂賢講師は話す。
舞台を競う両岸の花形役者
昼間は歌仔戯の故郷を尋ねたが、夜は大陸と台湾の名優が舞台で競い合う華やかさである。台湾の国家文芸賞を受賞し、台湾一の苦旦(泣き役)として知られる寥瓊枝が、黒一色の質素な衣裳で、太鼓の響きに合せながら「薛平貴と王宝釧、窯の別れ」の王宝釧の夫との別れを、纏綿とした思いを込めて悲痛に演じた。大陸の歌仔戯役者では唯一の一級俳優である鄭秀琴は「李妙恵の哀哭」の場で、ただ一人、夫の霊前に一夜を泣き明かす絶唱を繰り広げた。
大陸と台湾の歌仔戯の花形が同じ舞台で哀切に歌い上げたのだから、観客は気持が移り、身につまされ胸つぶれる思いをする。その一方では、それぞれよく知っている歌仔戯でありながら、歌の調子も衣裳も、役者のこれまでの生涯も、それぞれの場で異なる花を開かせてきたことに気づかされる。
「よく知っているのは身近な歌仔戯の言葉であり演目なのですが、それでも演じるスタイルや節回しが違ってきています」と寥瓊枝歌仔戯文教基金会の事務長蔡欣欣さんは話す。大陸の役者は裏声を多用し、音域も高低を交互に使って幅が広いし、京劇やオペラの歌唱テクニックを取り入れていて、表現や歌の手法はかなり様式化されている。台湾の役者は裏声を用いない「吃肉声」と言われる歌唱法で、表現手法も自然で普段の生活に近いスタイルである。
大陸と台湾の歌仔戯が似ていながら異なる発展をたどってきたように、花形女優二人の芝居人生を振り返って見ると、歌仔戯が両岸に別れてからの半世紀の、二つの社会の歴史が見て取れるようである。
台湾で一番泣かせる役者と言われる寥瓊枝は、小さい頃に騙されて一座に入れられて役者となり、野外芝居から舞台、テレビまで歌仔戯の多様な発展を経験してきた。最初は人に軽んじられる田舎芝居の役者と言われながら、今では文化的功労を認める国家文芸賞の受賞者である。人生の辛酸を嘗め尽くした彼女は、その中から芝居と歌のテクニックを練り上げていき、中でも看板の泣き役は内からほとばしり出る情感が肩を震わせ、声涙共に下る中で、観客の女性たちの涙を絞らせる。
一方、大陸一の喉を誇る鄭秀琴は、小さい頃から福建省龍海の歌仔戯の本拠地に育った。数え年13歳で、木製のサンダルをつっかけて家を出て、公立の漳州市実験薌劇団に合格した。それからの一生は全て公立のプロ劇団で過し、伝統歌仔戯から文革時代の様板歌仔戯、現代風の改良歌仔戯までをこなしてきた。その中の一つである歌仔戯の現代劇「芝居魂」で国家一級俳優の栄誉を受け、さらには全国人民大会代表にも選出された。鐘のように響く声を持つと称される鄭秀琴は「海底まで届く低音、天上まで届く高音と、どの音域でも歌えます」と話し、泣き役の歌唱法は芸術的表現の一つなのだから、優雅に歌うべきで、泣きが入ってはならないのだという。
七字調と都馬調
福建省で行われている芝居の種類は30種近いが、中でも一番歴史の浅い歌仔戯が一番観客に好まれているようである。閩劇、潮劇、高甲戯、梨園戯と並んで、福建五大伝統演劇に数えられる。主に漳州と厦門一帯の漳南で行われており、中でも閩州はその本拠地である。
福建の漳州と厦門一帯には10の公立薌劇団があったが、最近では合併し減少傾向にある。薌劇団の編成は大きいもので120人、小さいものでも60人と規模が整っていて、公立劇団なので専門の人材を揃えることができ、大陸の歌仔戯発展をリードしてきた。その一方、改革開放政策により、民営のプロ劇団が輩出して、今では300とも400とも言われる。
「歌仔戯の百年セミナー」が台湾から大陸の漳州に場を移したので、その街並に目を向けてみると、バナナや龍眼、それに台湾のパイナップルが屋台の店先に並び、夜店には台湾でもお馴染みのかき氷や豚の腸の料理が出されるし、耳にするのは台湾語の歌謡曲である。どれをとっても、台湾の街角に見なれたものばかりではないか。街中を走る三輪車の小父さんは閩南語で「台湾では歌仔戯、わしらは薌劇と言うが、なに違いはありゃせん」と話す。同じ根を持つ文化的背景の中で、歌仔戯は1920年代に台湾の宜蘭から漳州と厦門一帯に広く流行した。さらには東南アジア一帯の閩南移民の居住地域にまで芝居は伝わっていき、誰もが歌仔戯の一段を口づさめるまでになったのである。
歌仔戯の起源を尋ねると、清朝末期の頃に遡る、祖先は福建省漳浦出身の歌仔助という人で、宜蘭県員山郷で閩南の錦歌に南管戯、北管戯、京劇、福州戯などの要素を加えながら、地元の方言を元にして、地方色豊かで身近な親しみやすい趣きの歌仔戯を作り出したのに始まる。通俗的ながらも馴染みやすいのを武器にして、わずか20年足らずの間に歌仔戯は閩南語地域で一番人気のある芝居に発展していき、元からあった台湾の北管戯や高甲戯、南管戯の一座は次々に歌仔戯に模様替えしていったという。1920年代から30年代は、台湾と福建との往来が盛んであったために、この台湾の芝居があっという間に福建をも席捲していったのである。
1920年代、台湾海峡の交通は盛んで当時の日本の厦門駐在領事の報告によると、厦門に正式に居住している台湾人が6000人余り、しばしば出入しているものは2万人余りに上ったと言う。閩南から台湾、東南アジアへの対外的な港町であった厦門は、自然と歌仔戯が台湾から伝わる最初の都市になったのである。
台湾歌仔戯が福建に伝わった記録としては、1928年に台湾の歌仔戯一座の三楽軒が大陸の白礁に参拝に出かけて行ったが、その途中に厦門で3日間公演を行ったのが最初であるというのが、これまでの定説になっていた。ところが史料の発掘が進むにつれて、この定説はすでに引っくり返されている。現在知られている限りでは、1925年に厦門一帯ですでに梨園戯の双珠鳳一座が歌仔戯に衣替えしていたとされ、台湾の歌仔戯の大陸上演の例としては、三楽軒より早かったことは確実である。
その当時、双珠鳳が厦門の鼓浪嶼で演じた歌仔戯は「梁山伯と祝英台」だったが、それが大変な評判となった。あまり人気が出たので一座では歌仔戯の役者を広く集めることにし、30人余りの規模から50人余りに膨れ上がったと言う。翌年、台湾の歌仔戯一座の玉蘭社も厦門の新世界劇場で4ヶ月の長期興行を打ち、厦門一帯には次々と歌仔戯の芝居小屋が立ち並んだという。大陸の歌仔戯改革者として知られる邵江海も、この時に歌仔戯に魅せられた一人であった。
1932年、共産党の軍が漳州に進出したため一旦は厦門に逃げた商人たちが、軍の撤退後に厦門の歌仔戯を携えて漳州に戻っていった。その後、台湾の歌仔戯一座の霓生社が漳州公演を行った。ここから歌仔戯の流行はその範囲を広げていき、漳州では町を流す行商人でさえ、歌仔戯の節回しを使って商品を売り歩いたという。果ては、山に立てこもった匪賊が、子分に命じて芝居の一座を山に連れてきたという話まである。
台湾と大陸、多難の歴史
歌仔戯の運命も、時代と同じく多難であった。1937年、日中戦争が勃発してからは、日本の植民地であった台湾に発した歌仔戯は福建において国民党から亡国の調べとして禁止され、役者の中には売国奴として獄に入れられた者まで出た。同じく発祥の地の台湾でも、日本の皇民化運動の弾圧を受けて禁止され、繁栄して間もない歌仔戯は台湾海峡の両岸で同じように泣き役を演じなければならなくなった。幸いなことに、歌仔戯は踏まれても生き延びる野菊の花で、厳しい環境の中でそれぞれに新しい音楽や演出を生み出しながら弾圧に耐え、生き残っていったのである。
大陸の歌仔戯役者邵江海は、以前から考えていた新しい曲調の雑砕調を歌仔戯の七字調に替えて用いることにして、新しい曲を使った歌仔戯を改良戯と銘打って当局の禁止を逃れることができた。同じく台湾でも、歌仔戯一座は生き延びる策を講じていた。歌仔戯の脚本を、日本向けに日本の浪人が刀を持って活躍する皇民劇に変えてしまったのである。時事に即して演目を弾力的に変えていくという演出方法が、その後の台湾の歌仔戯の特色ともなっていった。
1949年、大陸は共産化した。その前年から、厦門の都馬歌仔戯一座が台湾で公演を打っていて、台湾全域を回ってから翌年の七月には厦門に帰ることになっていた。それが思いがけないことに、公演を始めて数ヵ月で台湾海峡は封鎖され、厦門に帰りたくとも帰れなくなったのである。台湾に留まらざるを得なくなった一座だが、幸いなことに、台湾の観客は都馬一座の改良芝居を好み、邵江海の作った雑砕調を都馬調と呼んで、元からある七字調と共に歌仔戯の二大曲調として台湾で大いに流行したのである。台湾海峡が封鎖されたために、これ以降の歌仔戯は台湾では民間で自由に発展し変化していって、政府主導の大陸の薌劇との差が次第に広がっていった。
演劇、人、制度の改革
文化が政治に奉仕する時代にあって「中央政府は1950年代から演劇を重視するようになり、演劇学校を各地に開設し、多くの公立劇団を設立すると共に、多くの文化関係者を動員して伝統演劇に対する演劇改革を開始したのです」と、国家一級脚本家で現在は厦門市台湾芸術研究所の所長である陳耕氏は、台湾海峡両岸の異なる文化的環境を説明する。
標語を多用する大陸では、演劇改革においても「演劇、人、制度の改革」の標語が叫ばれた。その運動の重点は「一つの優先、二本の足、三つの重点」と言われる。最初の優先は芸術教育優先を意味し、二本の足とは公立の専門劇団を重視しながら民間の劇団を奨励するもので、三つの重点とは伝統芝居、現代劇、新作歴史劇の三つの脚本を並行して用いるということである。
まず演劇改革では殺人や怪奇物、鬼神迷信、色情物などの好ましからぬ伝統的演目が一切禁止された。こういった「悪い芝居」を禁止すると共に、教育的意義のある現代劇が創作されたのである。川を堰き止めて干害に備えた「碧水賛」や、台湾の二二八事件を描いた「台湾人民の涙」、それに「魚島の民兵」「蓮を追う」など、この時の創作劇は数多い。
次いで人の改革である。学者や専門家を総動員して劇団の実務改革に当らせ、演劇学校でレベルの揃った俳優を育成したために、その当時は政府の保護を受けず、自分たちの力だけで方向を模索していた台湾の歌仔戯と比べると、環境はずっと整っていたと言えるだろう。福建省国立音楽学校を卒業した林鏡泉は、多くの歌仔戯の脚本にあった文語の台詞を分りやすく、しかも文雅に改めて、新しい節回しや舞台演出を考え出し、それに緊迫感のあるストーリーを加えていった。こういった努力が歌仔戯の全体的なレベルアップにつながって、その後の1960年代の歌仔戯隆盛期を迎えることとなったのである。
一番重要だったのは制度改革で、これは、大陸の芝居の伝統であった看板俳優による一座システムを完全に変えた。それまでであれば「貴妃酔酒」など、台詞もなければストーリーもない演目でも上演が可能で、京劇の名女形、梅蘭芳がこれを演じれば、それだけで代表的な名舞台となった。それが現在では「演劇というのは総合芸術の一つなのです。大陸では名優を中心とした舞台は存在しません。俳優は全体の構想の一部なのです」と、漳州薌劇団の芸術総監督呉茲明氏は話す。大陸の歌仔戯では名舞台はあっても、名優はいないという。楊麗花、葉青、唐美雲などの看板女優を中心として一座が成立する台湾とは、全く異なっているのである。またそれまでは「説戯先生」という脚本担当の書生が口伝えで役者に説明していた芝居の筋書が、書面化して脚本となった。こうすることで戯曲文学としての歌仔戯の地位が向上し、それに伴って芝居の中心人物は看板俳優や主役ではなく、脚本家であり演出家であるということになっていった。
全国規模の様板戯
1966年、文化大革命の嵐が巻き起こり、300種余りを数えた地方の伝統演劇は一つ残らず新しい様板戯、政治的思想を中心とした現代化した演劇の形式に改められていった。閩南の歌仔戯でも「脚本はどれも似たり寄ったり、演出は新劇調で、衣裳は越劇、表現手法は京劇」になったと陳耕所長は話す。
伝統的な演目は一切上演禁止となり、脚本、書籍、衣裳、道具は全て焼かれてしまった。
その頃の様板戯の時代を振り返り、大陸の専門家はその欠点として脚本が千篇一律の模範を示すものとなり、階級闘争を主題にした思想内容に偏っていたし、しかも、これであらゆる伝統演劇を統一しようとした点が問題だったと話す。そう言いながらも、演劇としての芸術的価値は評価する。「様板戯のレベルはかなり高く、特に音楽的に優れていました」と、厦門市歌仔戯劇団のベテラン俳優で63歳になる黄港河は言う。様板戯の音楽では、全ての動作が必ず一つの音符に振られていて、アクセントがはっきりしていた。それで生き生きとしてメリハリがつき、聞いているだけで楽しい気分になったという。
その当時、全国の一流芸術家を集めて何回も修正を加え、稽古を繰り返してでき上がったのが8作品の欽定様板京劇である。そしてこれが、全国に散らばる数多い地方の伝統演劇に最高のお手本とされたのであった。表現や動作の一つ一つ、照明の角度、舞台美術、舞台での位置、リズムやテンポなど、どれを取っても京劇の様板戯が基準とされて、うっかりそれから外れると、すぐに様板戯破壊者のレッテルを貼られた。
歌唱表現をドラマチックにするために、京劇で用いる裏声でオクターブ高い音を出すテクニックが採用されたし、浙江省の地方演劇である越劇の華やかな衣裳や化粧が加えられ、歌仔戯本来の独自性が次第に失われていった。京劇や越劇に近くなると共に、南の芝居を北で演ずるところから来る問題も出てきたという。福建省芸術学院音楽学科を卒業し、現在は歌仔戯の音楽を担当する陳彬は、自分が創作する現代歌仔戯の音楽の中に、無意識のうちに西洋のシンフォニーやマーチのような壮大な調べが出てしまっているのに気づいている。こういった壮大な音楽と伝統的に家族の情愛を綿々と綴っていく歌仔戯の様式とは、相容れないものがある。
文化大革命の影響は、革命が終ったからといって終りになるようなものではなかった。「台閩歌仔戯の比較研究」を博士論文のテーマに選んだ、台湾の慈済大学の楊馥菱助教授は「音楽学校出身で文化大革命時代に様板戯の創作に参加した多くの演出家たちは、開放政策が実施された後も、あの様板戯の影響を深く受けた演出をしています」と指摘する。
1980年代の改革開放以降は、古典的な芝居の上演も可能になったが、文化大革命の洗礼を受けた演出家たちは、伝統演劇に改革の大鉈を揮ったのである。現在は福建芸術学校漳州分校の校長で、文化大革命の期間は上海で勉強していた歌仔戯の演出家郭志賢は、映画のモンタージュの手法を取り入れ、テンポを上げて一幕の時間を短縮し、照明の変化を大きくつけている。こういった上海派演出家は、伝統的な歌仔戯の味わいを現代的に変えたと言える。
二つの「出ていけ」
改革開放が実施された当初は、歌仔戯の輝ける時代であった。その当時、漳州薌劇団で編曲を担当していた陳彬は、劇団がきわめて儲かる部門であったと回想し、「梁山伯と祝英台を上演すると、都会で一年のロングランになり、田舎回りをする暇などありませんでした」と話す。
新作の脚本家は、文化大革命の闘争をくぐりぬけ、農村での下放経験を積んできた世代であったために、歌仔戯においても深みのあるテーマを扱った創作が見られた。旧世代に属する陳志亮は、ユーモラスな筆致で「粽売りと豆乳売り」を創作して、閩南地方の温かみある人情を描き出し、新世代の楊聯源と方朝暉は台湾の小説『散戯』(芝居の後)を原作として、社会が大きく転換する時代に歌仔戯の役者が直面した問題を描いて、全国現代演劇共同公演で大きな反響を呼んだ。この芝居が歌仔戯としては唯一の国家文華賞を受賞した作品となり、ヒロインを演じた鄭秀琴はこの作品のおかげで国家一級俳優の栄誉を受けることになったのである。
改革開放により政治的な圧力や強力な指導はなくなったが、現代の歌仔戯は今度は、新しい社会で多様化した娯楽との競争に向き合わなければならなくなった。これまでは舞台を独占できた芝居だが、新しいエンターテインメントの挑戦を受けて、急速に繁栄から衰退の坂を転がり落ちていったのである。1990年代になると、国立の歌仔戯劇団は都市を明け渡し、観客を失っていった上に、農村の祭りという公演の場も、民間に設立されたプロの劇団に奪われていった。
「歌仔戯は台湾では伝統演劇として高い地位を誇っていますが、大陸では300種余りある多くの地方演劇の一つに過ぎません。そもそも他の演劇の影響を受けやすいものなのです」と、仏光大学芸術学研究所の林谷芳所長は、大陸と台湾における歌仔戯の地位の相違を大局的な視野から説明する。楊馥菱助教授は大陸における実態調査の結果から、大陸の歌仔戯にとっては都市での生存を図りながら、中央に進出するのが唯一の選択肢なのだと言う。楊助教授はこれをさらに解説し、国家が80パーセントの経費を負担する公立の劇団にとっては、各種のコンテストに参加して審査員から高い評価を受けられるかどうかが、翌年の経費に関係してくるのだと言葉を続ける。そのために、歌仔戯の劇団も少なくとも数年に一度は、全力を挙げて、受賞できるような作品を制作しなければならない。演劇界で一番重要な文華賞を受賞すれば、劇団の地位は直ちに大きく向上するのである。
しかし、コンテストに参加しても、審査員は中央から派遣されてくる人たちである。閩南の方言が分らない審査員のために、コンテストに参加する脚本は北京語に近い閩南語に変えざるを得ないのだと、ある脚本家は告白する。北京語化した閩南語に加えて、裏声を多用する京劇のような歌唱法を用いる結果として「台湾では口語の方言で死出去(出ていけの意)と言うところを、北京語の出ていけという言い方をそのまま台湾語の発音に直して滾滾滾、滾出去となってしまうのです。こんな言い方は台湾語にはないので、耳で聞いても何を言っているのかわかりません。字幕を見ないと意味が分らないなんて、同じ方言の芝居なのにずいぶん違うなと距離を感じます」と、歌仔戯百年セミナーに参加した台湾の歌仔戯役者、石恵君は話す。現在の公立劇団の公演は、すべて中央の少数の専門家向けにアレンジされたもので、伝統的に一般民衆の中にあった生活に密着した舞台表現とは違っていると民間の芝居一座でも感じている。
ブロードウェー式歌仔戯
2001年台湾海峡両岸歌仔戯発展交流セミナーは、厦門における創作神話劇「白鷺の女神」の上演で閉幕した。1998年に初演された重要演目指定のこの劇は、その後も8回に及ぶ修正を経て、上海京劇院の一級演出家董紹兪と四川劇の演出家謝平安を招いて公演に備えた。
物語は、厦門が鷺島という美しい別名を持つことから着想された。白鷺の女神の七彩の羽根と書生万石の琴の音が人々を助け、それが縁となって二人は夫婦となるというのが前半の展開である。ところがその後、蛇王が厦門を襲い、村娘に化けて頼みの綱の七彩の羽根を奪ってしまう。最後には万石が巨石と化して蛇王を押えつけ、白鷺は七彩の羽根を捧げて荒れた島を救うのである。二人の犠牲のおかげで、民は再び安らかな生活を取り戻すことができる。
舞台の下ではオーケストラが新たに編曲された曲を奏で、舞踊学校出身のダンサーが白鷺の舞、結婚、蛇王との戦いなどの場面で華やかに舞い踊る。華麗な揃いの衣裳をまとった若く美しい肢体には、台湾大学客員教授で、中華民族芸術基金会理事長の曾永義氏も思わず「目を楽しませる美しさ」と溜息をつく。しかし、こういった改革では、地方演劇の本当の美しさを味わうことはできない、とも語る。歌仔戯の特色は機知に富んだ台詞と、車鼓や梨園戯などの伝統演劇から引き継いだ身のこなしにある。ベルカント歌唱法と華麗な身体表現を用いる現在の大陸の歌仔戯は、血液型の違う血を輸血したようなもので、致命的な欠陥になりかねない。
台湾の観客だけでなく、大陸の地元の観客も同じ疑問を持ち、「ミュージカルを見ているようで、どう見ても歌仔戯には見えません」と話す。台湾のテレビを受信できる厦門の人々は、テレビによく出演する石恵君にサインを求めながら「私たちのこの港町では、台湾の歌仔戯を見てますよ。新しいのは年寄りの好みに合いませんでね」と口々に言う。台湾のベテラン俳優杜玉琴は、大陸の俳優の動作や身のこなしはそれは美しいが、どこか心に響くものがなく、表面的なものに見えると言う。これでは観客を泣いたり笑ったりさせられないだろうと手厳しい。
動物園に入った野生動物
ミュージカルと化した歌仔戯は、民衆から離れてしまったのだろうか。これも歌仔戯なのだろうか。手探りで過した改革の時代を通りすぎてきた大陸の歌仔戯は、いとも簡単に伝統の重荷を振り捨てたかのように見える。その証拠に漳州であれ厦門であれ、公立劇団の演出家は口を揃えて、このような改革を賛美しているのである。
「歌仔戯の精神は、本来時代と共に変化し新しい芝居の要素を吸収することにあります。ミュージカルで物語を演じるのは世界の流れではないですか。ニューヨークのミュージカルは都市に根ざしながら、広く国際的に受入れられているのですから」と、文化大革命を経験した演出家の呉茲明氏は言う。都市文化の様式が歌仔戯の新しい隆盛をもたらし、若い世代を劇場に呼び込めるという。
歌仔戯は衰退に向っているのか、という点について、厦門市台湾芸術研究所の陳耕所長は余り心配していない。「中国の歴史を彩った元の雑劇も、明の伝奇も消失してしまいました。この時代にはこの時代の新しい演劇が必要で、それでこそ滅びることはないのです。私たちが期待するのは、次の世代を生み出す歌仔戯なのです」と言う。
ただ、大陸の歌仔戯をリードすべき公立劇団の将来について、陳耕所長には心配がある。公立劇団は一定の給料を支給され、決った脚本により、決った旋律で演じるために、役者には即興のアドリブ能力が減退し、音楽の節回しでも異なる流派が生れる余地がないのである。台湾を何回も訪れたことがある陳所長は「大陸の歌仔戯は動物園に入れられた野生動物のようなもので、本来の創造力や競争力を失っています」と言う。台湾の歌仔戯は生命力が旺盛で、野外の芝居から劇場、テレビなど様々な上演の場を持ち、小劇場や流行の歌謡曲、バラエティ番組でさえ歌仔戯の曲調を使っている。
ライチの果樹園と港町
大陸の公立歌仔戯劇団が衰退に向っていると言っても、数多い演劇学校が無数の俳優を育成し、広く存在する農村が数百に上る民間の芝居一座を養っている。民間の劇団では公立劇団の長所を取り入れながら、最近では台湾のテレビ歌仔戯の美しい調べを吸収しているそうである。「台湾の七字調の歌は流れるように美しいですね」と、漳州地区では屈指の芝居一座、芳苑劇団の女座長、張麗君は話す。二枚目役が中心となる芝居が主流の公立劇団に対し、芳苑劇団では最近娘役に力を入れている。娘役は感情移入がしやすくて、観客を感動させやすいからだという。
市街地から郊外に車を走らせ、うねうねとした山道を登っていくと、一面に緑のライチの果樹園が広がる中に福建芸術学校漳州分校がある。芸術学校の演劇科で唯一の専門科目が薌劇だ。ここでは娘役が翻す長い袖が、煙のように大きく輪を描いていた。学生たちが演じているのは「白蛇伝、仙草盗み」の段で、それを見ると、それぞれの武術の基礎がしっかりしていて、荒事役の男優、女優たちが刀剣や槍を交えながら、次々と身軽にトンボ返りをしていく。
その昔、最初に歌仔戯が大陸に伝えられた場所は、厦門市の渡し場の辺りだろうと思われる。毎日午後4時ごろになると、この辺りには老人からなる二組の歌仔戯のグループがやってきて、雨風の日でも、これを目当に楽しみにして来る観客を相手に芝居を演じている。退職した元役者の紀招治は自分が組織したこのグループの舞台で、文武両方の役柄をこなしているし、さらにチェロまで呼んできて伴奏をさせていた。メンバーは自分たちで金を集めて衣裳や椅子、テーブルを揃え、毎日一人1人民元ずつを出しあってパンや肉マンを買ってきて、これで夕方から夜10時ごろまで歌いつづけるのである。
梨園の出身で、歌仔戯を研究して長年になる台北大学の辛晩教教授は、こういった歌仔戯のあり方に深く感動すると言う。百年前、宜蘭県員山郷の大木の下で、腰掛に座って胡弓の弓を引きながら、田舎の隣近所の人たちと歌仔助が、歌仔戯の最初の一段を歌い出したのは、こんな光景だったに違いないと思うのである

中国大陸の国家一級俳優である鄭秀琴(上)と台湾随一の苦旦(泣き役)廖瓊枝が、同じ舞台で演技と喉を競った。それぞれに素晴らしい演技で、観客を大いに感動させた。

数々の演劇改革を経てきた大陸の
劇は、特に現代劇と歴史劇に重きを置いている。写真は
州
劇団による「月食」である。(
州
劇団提供)

中国大陸の国家一級俳優である鄭秀琴(上)と台湾随一の苦旦(泣き役)廖瓊枝が、同じ舞台で演技と喉を競った。それぞれに素晴らしい演技で、観客を大いに感動させた。

文化大革命の時代、大陸全土の300種余りの演劇は、すべて「様板戯」と呼ばれる模範劇に変り、歌仔戯もその運命を免れることはなかった。写真は当時の様板歌仔戯「瓊花」の舞台写真だ。(厦門市台湾芸術研究所提供)

厦門市歌仔戯劇団のベテラン役者、黄港河(上)が演じる「陳三五娘」の宋老人は、演技も身のこなしも堂に入っている。台湾宜蘭の古い面影を残す歌仔戯は、暮らしに根差した田舎言葉の台詞と簡単な衣裳で、歌仔戯の本来の姿を際立たせた。

厦門市歌仔戯劇団のベテラン役者、黄港河(上)が演じる「陳三五娘」の宋老人は、演技も身のこなしも堂に入っている。台湾宜蘭の古い面影を残す歌仔戯は、暮らしに根差した田舎言葉の台詞と簡単な衣裳で、歌仔戯の本来の姿を際立たせた。

大陸の福建省南部の田舎では、祭りや祝い事の出し物と言えば今でも歌仔戯が最も人気があり、各劇団の上演スケジュールは半年先まで埋まっている。

厦門市歌仔戯劇団の「白鷺の女神」は照明も舞台も美しく、まるでブロードウェーのミュージカルを見ているようだ。近年、中国大陸の公立の歌仔戯劇団は改革に力を注ぎ、若い世代に伝統の芝居に親しんでもらおうとしているが、これにより歌仔戯が一般民衆から離れていくのではないかという疑問の声も上がっている。(蔡文
撮影)