我が子に先立たれることほど、耐え難い苦しみはない。
作家・黄春明の末っ子である黄国峻が32年足らずの生涯を自らの手で閉じたのは、3年余り前のことだった。
それ以降も、黄春明が講演や執筆、児童劇創作を続ける様子は以前と変わらぬばかりか、さらに打ち込んでいるように周囲の目には映った。だが、すっかり白くなった髪、10数キロもやせた姿が彼の心情を如実に語る。
国峻が自殺した当日、黄春明は花蓮で講義をしていて携帯電話を切っており、家族が躍起になって連絡を取ろうとしていることを知らなかった。
講義が終わり、宿舎に戻ろうとした彼はふと、いつもは歩かない小道を選んで歩き、途中で派手に転んで、なんとなく嫌な感じがしていたという。
知らせを聞いても信じられぬまま、大雨の中、猛スピードで車を走らせた。花蓮から台北までは断崖絶壁に七曲りの道が続く。黄春明の無謀な運転を知る家族は、心配しながら台北で彼の帰宅を待っていた。
追い越し運転を繰り返しながら息子の名を呼び続けた。「息子が生まれてからの30年余りの間に息子の名を呼んだ回数をすべて足しても、あの1日の回数には及びません」と黄春明は言う。

昔も今も、黄春明はペンにインクをつけて執筆する。
「心のやさしい子でした」と、息子を語る黄春明の声もぐっとやさしさを増す。「みんな国峻のことが好きでした」という父の言葉には、32年の親子のふれあいのさまざまな記憶が含まれる。
この末の息子は、黄春明にとって自慢であると同時に、常に気にかけ、守ってやらねばならない子供だった。繊細で傷つきやすい国峻は、社会とうまく折り合いがつけられないまま、独自の思考体系を育んでいった。
幼い頃から国峻は、世間の悲しい話や不正義を耳にすると、よく部屋の隅に隠れて泣いていた。作家の陳映真もこんな光景を思い出す。雇用主のひどい仕打ちに遭った原住民の少年が雇用主を殺害して死刑判決を受けた話をし、ふと気づくと国峻が壁際でこっそり泣いていた。
淡江中学に通っていた頃、一人の上級生の女生徒が、友達の少ない国峻をよく気にかけ、クラシック音楽好きの国峻をよくコンサートにも誘ってくれた。後に結婚した彼女が夫の仕事の都合で香港に移り住み、慣れない環境で不安を抱えていることを知ると、国峻は彼女を励まそうと、手作りの新聞のようなものを作って香港に送った。そこには、台湾のニュースなどがパロディ化されてつづられ、漫画や広告などもすべて手描きで添えられていた。
国峻は自ら進んで人と付き合うこともなく、家に閉じこもりがちだった。「いっしょに出かけないか?」と誘っても「嫌だ」と返事されるのが常だったので、しまいに黄春明夫妻は「いっしょに映画を見に行かないことにしないか」と声をかけるようになった。
国峻は並外れて感受性と正義感の強い子供だった。ある日、家族で外食した時のこと、みなが満腹しかけた頃になっても魚料理だけが来ない。忘れたのなら要らないからと店主に言うと「もうできますから」と再び長く待たされたうえ、勘定を払う段になってその魚料理は1200元もすると告げられた。家へ帰っても国峻はそれを許せず「店の入り口に『悪徳商売』と大きく書いてやる」と言うのを黄春明が制止した。
国峻は清潔好きで、倹約家でもあった。特売セールがあると知れば、どんなに遠くても出かけて行き、米や水でもかついで帰った。買ったまま読まれていない本が家にあると腹を立てた。
「国峻は我が家の家政婦でもありました。床もぴかぴかに掃除してくれたものです」と、息子への褒め言葉はつきない。国峻の書籍やCDもそのまま整然と残されている。壁には彼の描いた絵が掛かり、チェロのケースにはうっすらとほこりが積もっていた。

一家揃っての記念写真。黄春明夫妻を挟んで、左は明るく活発な長男の国珍、右はおとなしく繊細な国峻だ。
1971年生まれの国峻は、自分は社会に適応できないからと言い、高校卒業後は進学しなかった。独学でピアノとチェロ、バイオリンをマスターし、人物像を描くことにも熱中した。壁や封筒など至る所に残されている彼のデッサンや油絵は、大胆なタッチで自信にあふれている。
兵役後、国峻は小説の世界にのめり込んだ。97年、26歳の新鋭として作品「留白(余白)」が聯合文学小説新人賞を受賞する。この新人が黄春明の息子だとは、当時は誰も知らなかった。
「私たちは『おサルさん』と呼んでいました。かわいくもあり、心配をかける困ったやつ、という思いの混じった呼び名でした」と黄春明は言う。「とてもユニークな存在でした」ある日、まだ幼かった国峻が食事中にオナラをした。周りが問いただすと国峻は、「オナラをしたんじゃないよ。お腹のウンチが歌を歌ったんだ」と答えたという。「この30年余り、まるで一輪の花のように、彼の言葉や絵や音楽は私たちに感動を与えてきてくれたのです」

昔も今も、黄春明はペンにインクをつけて執筆する。
子供の教育には自信のある黄春明は「学校より私のほうがうまく教育できます」と言う。
国峻が幼い頃は北投の山のふもとに暮らし、自然にあふれた暮らしだった。近所の子供がカエルの腹にパンパンに水を注ぎ、ゴムまりのように放り上げては落ちるのを楽しんでいたことがあった。
それを知った黄春明は国峻に手紙を書いた。「一匹のカエルが食べてくれる害虫の分で、農家の人は50米ドルの農薬代を節約できるんだ。だからカエルは人間の友達で、父さんの友達なんだ。父さんの友達は、国峻、おまえの友達でもあるんだよ」と。
大雨の降ったある夕方、街灯の下で1匹のヒキガエルが、空中を飛び交うシロアリをしきりに捕らえていた。しまいには腹が膨れ、頭上にシロアリが止まっても動かなくなった。
黄春明はこのカエルを持って帰って解剖することにした。すぐさま国峻が「父さん、カエルは友達だって言ったのに、なぜ解剖するの?」と聞くので、黄春明は「カエルがどんなに役立っているかがわかれば、もっと大切にしようと思うだろう」と答えた。
解剖しながら二人の息子に、内臓の構造を教え、腹の中のシロアリや昆虫類をすべて出して分類した。数えてみるとこのカエルは、70匹以上のシロアリを呑み込んでおり、国峻と兄の国珍の胸にはカエルの貢献が深く刻まれることになった。
解剖が終わると、黄春明は紙の箱にカエルの遺体を納め、息子たちを連れて山に埋葬した。当時、色白でやせていた国峻が真剣な顔をして「父さん、カエルは犠牲になり、僕は進歩したんだね」と言ったのを、黄春明ははっきりと覚えている。
国峻に手紙を書くのには、こんな事情がある。黄春明が広告代理店に勤めていた頃、よく国峻は小さな郵便屋さんを演じ「黄春明さん、手紙ですよ」とかわいい声で手紙を手渡してくれた。ところがある日、国峻は手紙を机の上に放り投げて「いつも父さんの手紙ばかりで、僕のはないよ」とすねてしまった。
そこで黄春明は息子に手紙を書き、切手を貼ってポストに入れた。手紙を受け取った国峻は誇らしげに「これは父さんへの手紙、これは僕への手紙」と言ったという。その後も長い間、出張しても海外にいても、黄春明は息子に手紙を書き続けた。

小学3年の時、国峻はとても厳しい先生に当たった。生徒に与える罰として、習った漢字を1字につき20行書いてこさせるのである。もし17字習ったら、340行も書かなくてはいけない。
国峻は字を書くのが遅く、いつも夜中まで泣き泣き書く羽目になった。そこで黄春明は教師に「まじめに書いているのだから、もし夜10時になっても書き終わらない時は、そこまででいいことにしてもらえないだろうか。睡眠は大切だから」と頼んでみた。すると「作家の息子なんて教えられません」と返事されたうえ、その後は学校で教師からも同級生からも冷たくされるようになった。まして息子が涙の跡まで残しながら一字一字苦労して書いたノートを、教師は見ようともせず、班長にチェックさせるだけだった。当時を思い出すと、黄春明の口調は今でもやや怒りを帯びる。
次第に登校を嫌がるようになった国峻に、黄春明は言った。「バイクで旅行に行こうか」「夏休みにならないとだめだよ」「かまうものか。病気だからって父さんが欠席届を出してやるよ」「先生を騙しちゃだめだよ」「悪いことをするのに人を騙すのはよくないけど、これはいいことをするんだから騙してもいいんだ」
バイク旅行では台北から海へ山へと走った。父と子は農家の収穫を見物したり、豚の出産に立ち会わせてもらったりした。旗山ではバナナが豊かに実るのを目にし、高雄では「日本へ輸出されたバナナは返品され、売れ残ったら川にどっさり捨てられる」という話を父は息子に語った。
バイクで風を受けながら、父と子はよく歌った。あらゆる曲を歌いまくり「国歌だって二回歌った」という。後ろから回された国峻の両手のぬくもりが、黄春明はまだ腰の辺りに残るような気がする。閉ざされた心の中から、息子を連れ出すことができていればとどれほど願ったことだろう。

国峻を抱き、国峻に手紙を書き、国峻を連れてバイクで旅をした。黄春明は二人の息子にとってユーモラスな友達だった。
進学しない国峻に対し、学歴無用主義の黄春明は何も言わなかったが、母親は将来を心配した。それで黄春明が「じゃ、黄春明大学の卒業証書をやろう」と言うと、国峻は「そんな証書、誰も欲しがらないよ」と大声で笑った。
「外の世界が狭い人間は、自ずと内的世界が広くなるものです」と黄春明は言う。人間関係を広げたり、旅行したりしようとはしなかった国峻だが、家庭環境の影響を受け、クラシックやジャズ、文学を愛した。黄春明が家で20数名の大学生にチェーホフの小説について説明していた時、まだ高校2年だった国峻が、帝国ロシア時代の階級差別や一般市民の憐れな境遇について語り、聞いていた女学生が胸を打たれ泣いたことがあったという。
彼の世界は一般と異なり、好みも高尚だったため、さらに孤独を深めた。ある日、帰宅した国峻が黄春明に怒って言ったことがある。「父さんに騙されたよ。父さんの本棚の本を読んで、父さんの音楽を聞いてたら、結局一人も友達ができなくなったじゃないか」これには黄春明も腹を立て「嫌ならもう読むな」と言い返した。この後まるまる半年間、父と子は強情を張って口をきかなかった。
半年後のある日、黄春明が書斎で昼寝をしていると、妻の林美音に揺り起こされた。「息子がこんなに泣いているのに、よく寝ていられるわね」傍らには目を泣き腫らした国峻が座っており「ごめん」と一言つぶやいた。この半年の冷戦の後、父子の情はぐっと深まったという。

誰に習うでもなく大胆なデッサンを描いた国峻、油絵には奥深い境地が感じられる。才気にあふれ感受性が豊かな国峻は、黄春明夫妻にとっては誇らしくも気がかりな息子だったが、ついには人生最大の痛みとなった。
傷つきやすい国峻が自殺でもしやしないかと、黄春明夫妻が心配したことは一度だけではない。とりわけ兵役中は心配で、黄春明は毎週車を走らせて面会に行った。腕を骨折した時も、片手で運転して会いに行ったほどである。おかげで無事に兵役をすませたが、たった一度だけ、休暇で家に帰った国峻が部屋にこもって泣いていることがあった。夜になっても出て来ようとしないので、もしやと思った黄春明は体当たりしてドアを開けた。
当時、国峻は桃園の軍用飛行場で警備小隊の班長を務めていた。隊員の一人に日頃からぼうっとしている兵士がおり、警備が終わるとどこかへ隠れてしまうということが幾晩も続いたため、一度などは他の兵士たちに殴られ蹴られるという目に遭っていた。
まもなくこの兵士は休暇を取って、泊まった宿で自殺してしまった。後でわかったのは、彼は父を亡くし、母は癌の末期、兄は刑期中、妹は出奔してしまっていたということだった。仲間の自殺を救えなかった自分の無力さに、国峻は耐え難いほど傷ついた。
「心が痛くて痛くて、国峻は泣いていたのです」この兵士の名前は、後に黄春明の児童劇『小さなせむし』の主人公の名「金豆」として登場する。
黄春明が最も腹立たしく感じるのは「自殺なんかする必要などないのに」と、わかったようなことを言う人間だ。「自殺者が抱えている絶望がどれほどのものか、わかっていないのです」国峻の自殺について黄春明夫妻は怨みがましいことは言わない。ただ「国峻はきっと私たちより苦しかったに違いない」と言うだけである。

自宅屋上にたくさんの草花を植えている。老夫妻は小言を言い合いながらも互いを気遣い、思いやっている。
自殺の半年前、あんなに外出を嫌っていた国峻が急に一人で花蓮へ旅行すると言い出した。黄春明夫妻は内心の喜びを抑えて平静を装い「いいよ。気をつけてね」と送り出した。
「あれが国峻にとって、生まれて初めて自分で出かけた旅行であり、たった一度のものとなりました」と妻の林美音が言うように、喜びは長く続かなかった。
ある女性作家に恋した国峻は、花蓮へ彼女に会いに行ったのである。初恋だった。当時、彼は髪も染め、まるで新たな出口を求めるかのように手探りをしていた。そして恋愛の挫折が、彼には越えられない壁となってしまった。
「全身全霊をかけて愛そうと、彼は決めたのです。それに対して私たちが『俗世間の価値観で生きろ』と言えますか」と、黄春明は国峻を偲ぶ茶会で語っている。
国峻が逝って一年ほどは、黄春明はいつも国峻が家の中にいるような気がしていた。二階の書斎に国峻がいるのだが、上がっていくと、さっと隠れてしまう、そんな感じだった。
母親のほうは、悲嘆のどん底にあった。国峻をこの世に生み出したのが彼女なら、その子の首の縄をほどいたのも彼女だった。彼女は何も食べられず、毎日泣いて暮らした。仕事もできなくなり、3年間、黄春明が家にいない時は長男の国珍の家に泊まった。息子の自殺した家に一人でいることが耐えられなかったからだ。

誰に習うでもなく大胆なデッサンを描いた国峻、油絵には奥深い境地が感じられる。才気にあふれ感受性が豊かな国峻は、黄春明夫妻にとっては誇らしくも気がかりな息子だったが、ついには人生最大の痛みとなった。
黄春明が創設した黄大魚児童劇団の団員たちは、国峻の自殺で黄春明が演劇をやめてしまうのではと心配した。芝居のたびに役者とともに涙を流すほど、黄春明の心はもろかったからだ。
ところが「先生は休むことなく小説も芝居も書かれて、むしろ以前よりパワフルに動いていらっしゃいました」と劇団演出家の涂;淑珍さんは言う。国峻の亡くなったその週にも、黄春明は予定通り総統府に赴き、台湾の母語教育について講演をしている。家族がまだ涙にくれていた頃である。
だが、以前のように黄家でにぎやかな集まりが持たれることはなくなった。友人たちも外で黄春明と会うようにし、話をしてもぎこちなかった。作家の尉天聡は次のように書いている。「食事しても盛り上がらず、みな腫れ物に触るかのように何かを避けていた」
30年余り黄春明とともに児童劇に打ち込んできた仲間は、彼が感情的に制御できなくなり、取り乱す姿を一度も見たことがない。ただ、ほんの些細な出来事に、子を思う父の姿を垣間見ることがあるだけである。
10数年、劇団で黄春明の手助けをしてきた李幸娟さんが思い出すのはこんな話だ。国峻が逝って1年後、劇団が花蓮で公演を行なっていたある日、黄春明が団員数名を鯉魚潭へ連れて行ったことがあった。その時の黄の様子がいつもと違い、何かを探しているようだった。後でわかったのは、国峻が最後に花蓮旅行をした際に残した写真の背景から、黄春明は当時の国峻の足取りを追い、シャッターを押した刹那の心情をたどろうとしていたということだった。

近年、黄春明は児童劇の脚本演出に力を注いでいる。黄大魚児童劇団の仲間たちは皆、黄春明をおじいちゃんと呼ぶ。
悲しみが仕事の忙しさでまぎれるわけではない。半年前『小さなせむし』を黄大魚児童劇団は再演した。物語の終りの方で、人にいじめられ続けた「小さなせむし」金豆が死に、親友がこう言う。「金豆はせむし村に帰ってしまったよ。もう戻っては来ないよ」この台詞が黄春明には「国峻は逝ってしまったよ。もう戻っては来ないよ」と聞こえ、ひどくうろたえたという。
黄春明の演劇に「感動」を得てきた宜蘭の人々は、少額ずつ寄付をし合って黄大魚基金会を成立させ、黄春明のかねてからの念願であった文学雑誌刊行の実現を手助けしようとした。
ついに2006年夏、台北と宜蘭を結ぶ北宜高速道路の開通とほぼ同時期に、雑誌「九弯十八拐」は創刊され、現在2000人以上の定期購読者を集めている。北宜高速を走るのは絶対に嫌だという黄春明は、毎週電車に揺られて宜蘭まで足を運ぶ。劇団や雑誌のために徹夜で執筆したり、表紙を作成したりと忙しい毎日だ。
「現代人には激情だけで感動がありません。心の桃源郷を作るには、最も原始的な感動を呼び覚ます必要があります」これが、黄春明が児童劇や文学雑誌に打ち込む理由だ。
記者が最後に黄春明の台北宅を訪れた際、夫人は幾度も階段を行き来して国峻の作品や幼い頃の写真を出してきてくれた。話の途中でこみ上げてくるものがあると、黄春明は決まって何か理由を作り立ち上がるのだった。「さ、柿をむいてあげましょう。とても甘いですよ」「ほら、あれが国峻のデッサンです。上手でしょう」
黄春明が席をはずすと、夫人の林美音が「ああやって逃げてばかりで、直視できないのです」と心配そうに言った。息子を失って3年、黄が大声で泣いたのはたったの2度だけだったという。最初の2年は墓参りにも行けなかった。今年になって友人・尉天聡の夫人が亡くなり、その霊園を訪れた際、ちょうど国峻の霊園が近かったため初めて国峻の納骨堂に足を踏み入れた。
国峻が逝ってしまってからの黄春明の最も大きな変化は、薬をきちんと服用し、自分の体を大切にするようになったことだ。これはむしろ妻のために自分の健康を気遣っていると言っていい。一方、宗教の力を借りて徐々に回復しつつある夫人が心配しているのは、黄春明が悲しみを抑え続けていることである。
老いて子を失うのは何よりもつらい。この3年余り黄春明は、涙にくれることもなく、宗教や心理療法にも決して頼らなかった。悲しみのどん底に沈む夫人を尻目に、心の痛みを忘れさせてくれるようなことは一切しようとせず、友人たちの慰めさえも遠ざけてきた。そんな思いを黄春明はこう語る。「親には自殺する権利などはなく、歯を食いしばって生きていくしかないのだ」と。
黄春明プロフィール生い立ち
1935年宜蘭の羅東に生まれる。8歳の時、5人の子供を残して母が亡くなる。1958年に屏東師範学校を卒業、その後は小学校教師、電気修理工見習い、通信兵、ラジオ番組編集、ドキュメンタリー制作、広告企画、アディダス社勤務など様々な職業を経る。林美音と結婚し、国珍、国峻の二児をもうける。
小説
1956年に小説第一作「清道夫的孩子(道路清掃員の子供)」を発表、1969年には初の小説集『坊やの人形』を刊行し、その後も『鑼』『さよなら・再見』『小寡婦』『我愛瑪莉(マリーが好きだ)』と発表し続け、1980年に呉三連文芸賞を受賞する。
1990年代には、『等待一朶花的名字(花の名を待って)』、文学漫画『王善壽與牛進』を出版する。
1998年には久しぶりの短編小説「死去活来(逝ったり来たり)」「銀鬚上的春天(白ひげの春)」「呷鬼的来了(化け物食いが来た)」などの「老人シリーズ」を発表し、それらを集めた『放生』は第二回国家文化芸術基金会文芸賞に輝き、現代台湾郷土文学を代表する作家として不動の地位にある。
2006年からは文学雑誌「九弯十八拐」を刊行している。
映像
1973年、ドキュメンタリー「芬芳宝島(麗しの台湾)」シリーズを発表し、台湾におけるドキュメンタリーフィルムや報道文学の先駆けとなった。
1980年代には台湾ニューシネマの監督たちによって黄春明の作品が多く映画化された。「坊やの人形」「小h的那頂帽子(小hのあの帽子)」「りんごの味」「さよなら・再見」「海を見つめる日」「我愛瑪莉」などである。
演劇
近年、黄春明は児童文学や児童劇創作に重きを置いている。1993年に「黄春明童話」シリーズを出版、『小麻雀・稲草人(スズメ・カカシ)』『愛吃糖的皇帝(飴好きの皇帝)』『短鼻象(鼻の短い象)』『小駝背(小さなせむし)』『我是猫也(僕は猫だ)』の5冊がちぎり絵絵本となっている。
1994年、黄大魚児童劇団を創設、『土龍愛吃餅』『稻草人和小麻雀』『掛鈴噹;』『小駝背』『小李子不是大騙子』などの劇作を執筆した。
2003年にも児童劇や歌仔戯を手がけた。歌仔戯では『杜子春』と『愛吃糖的皇帝』を演出し、歌仔戯改革を実践している。