21世紀の台湾で、一部の宗教信者が一般の人々とは違う生活を送っている。
日曜日にミサに行ったり、休日に道場で読経したりするだけではなく、毎日礼拝し、生活の中で常に修行しているのである。
彼らは出家しているわけではなく、三世代同居、あるいは数十人から数百人の大家族を作り、ともに修行しつつ神に仕えている。都会を遠く離れて山間で自給自足をする人々もいれば、田園地帯に家を建てて耕作する人々もいるし、都会の片隅で仲間とともに理想郷を作ろうとしている人々もいる。
世の中の出来事や社会問題は彼らには関係なく、団体生活の束縛も問題ではないようである。彼らの世界は小さいが美しく、競争もなければ現代技術を追求することもなく、現実の世界からマージナル化されることも恐れない。
彼らは現実から宗教の世界へ逃避しているのだろうか。彼らの物語は私たちに何を教えてくれるのだろう。
東洋には桃源郷、西洋にはユートピアがあり、古今東西、人間は常にこの世の浄土を求めてきた。古代の哲人が描いた理想の国とは違い、この200〜300年、欧米では民間による自発的なユートピアコミュニティが次々と出現してきた。例えば19世紀初、社会主義を信奉するイギリスの実業家、ロバート・オウエンはアメリカに移住してニュー・ハーモニーという共同体を作った。19世紀末には、アナーキストがヨーロッパで社会共同体を作り、主流社会による支配に抵抗した。1960年代には、アメリカのヒッピーがさまざまなコミュニティを作った。18世紀にドイツとスイスの国境地帯からアメリカに渡った人々は、ペンシルバニア州にアーミッシュという共同体を作り、以来300年、近代以前の生活様式を守っている。白と黒の衣服しか着ていないのが印象的である。
さまざまな政治的、社会的主義による共同体の中で、宗教共同体は教義を核心としており、それがメンバーの生活に浸透している。そのためアーミッシュでは、一部の人は電話やコンピュータを使用しているが、それ以外の数万に上る人々は現在も電気のない生活を送っている。テレビも新聞もなく、自動車ではなく馬車に乗って移動するなど、あらゆる現代文明を拒んで古来の農業生活を守っている。ここからも、その影響力の大きさがうかがえる。

多くの人は教祖や指導者の偉大な人格にひかれて信仰の道に入るが、非理性的な過度の教祖崇拝は避けなければならない。写真は、台南玉井にあるアナンダ・マルガのコミュニティで、徹夜でスピリチュアルダンスをした後の献身の儀式。
伝統をくつがえす
第二次世界大戦後、資本主義と共産主義の対立や核戦争の不安が世界中を覆い、さまざまな新興宗教が誕生した。伝統宗教の改革を標榜するものもあれば、独立して新たな教義を確立するものもあり、それらは社会的、文化的な伝統の価値観に対抗する傾向を持ち、信者を集めて共に修行生活を送るようになる。
1960年代に始まり、欧米の多くの人をひきつけたインドの「オショウ」を例に挙げると、その思想は禅や道教から、キリスト教、イスラム教、ヨガまであらゆるものを受け入れ、東西のあらゆる哲学の中から現代人にとって最も意義のあるメッセージを導き出したという。門徒には、自分の心に従って、世間に逆らっても勇敢に独立して生きることを教える。
戒律に反対し、絶対的自由を強調するオショウは、従来の宗教が貧に安んじて心穏やかに暮らすべきと教えることに異議を唱える。門徒がインドのプネー市に作ったオショウ・コミューンには、高い学費を支払って瞑想やエネルギー療法を学ぶカリキュラムがあり、西洋から多くの知識人や芸術家が学びに訪れ、何回も通っている人もいる。オショウは1990年に亡くなったが、今も3000人余りがここに暮らしている。
オショウは、修行にあっても性欲を抑える必要はないと説き、また婚姻制度にも反対していた。婚姻は私有財産の観念を育むからである。理想の生活とは、人々が霊性と物質の共産コミュニティにおいて、共同で創造し、資源を共有することだと説く。
この他に、ヨーロッパで始まったゲオルギイ・グルジェフの指導するグループ「第四の道」は、内なる探索と高次の霊性を目標とする。その門徒が1980年にカリフォルニアの高台に設立した「アポロ」コミュニティには600人余りが暮らし、ブドウ畑、ワイナリー、音楽ホール、果樹園や畑、小学校、バラ園などがある。アポロは芸術的色彩が濃いことで知られており、住民はブドウ畑や野菜畑で農作業をすることもできるし、企画や編集などの事務の仕事を選ぶこともでき、またその両者を行き来することもできる。
コミュニティを運営する新興宗教の中には、極端に走って問題を起すものもある。1978年、黒人や貧しい人々を集めたキリスト教系新宗教「人民寺院」では、信者をコミューンに住まわせたために家族の不満を招き、アメリカ政府が調査に入ってから衝突が激化、信者が調査に来た国会議員を銃撃し、ガイアナの農場で900人余りが集団自殺した。

都市部の宗教コミュニティでは田園生活は実現できないが、俗世の中での修養を強調している。写真は台北市象山コミュニティ、現代禅教団を前身とする浄土宗念仏会のメンバーだ。
台湾のユートピア
台湾でも90年代から新興宗教が次々と生まれ、台湾独自の宗教も外来の宗派もあり、共同体を運営するものも多数ある。出家した仏教徒による大規模なものとしては、惟覚長老の率いる南投県埔里の中台禅寺が知られている。信者の寄付によって普台小中学校を建設し、少なからぬ富裕層の子女がここに寄宿している。信者の共同生活と修行のための「居士村」も運営している。社会に対する関心を訴えるものとしては、日常法師が率いる有機農業を行なう教団がある。ここは「慈心有機認証」制度を発展させ、近年は「福智教育学園」も創設、道徳と知識と霊性を兼ね備えた子供を育てようとしている。広大な敷地は信者の心の故郷となっている。
こうした著名宗派ほどの規模はないものの、信者が生活と修行を共にしている団体は少なくない。
例えば、キリスト教会から独立した新約教会は高雄の「錫安山」で自給自足し、教育も行なっている。1955年にインドで始まったアナンダ・マルガが台南の玉井に建設した「モデルコミュニティ」は頓挫したが、最近は別の形で再建中である。また儒教と仏教、道教、キリスト教、イスラム教の五大宗教を一つにした一貫道も、モデルコミュニティから遠からぬところに「弥楽コミュニティ」を運営している。仏教改革を自任する現代禅教団は、台北近郊に「象山修行人コミュニティ」を作っている。台湾のオショウのメンバーは、中国の仲間とともに雲南省に「緑土地健康コミュニティ」を確立し、今は台湾の苗栗県に同様の共同体を作ろうとしている。
これら共同体の組織方法はさまざまだが、いずれも生活における精神修養や信仰の実践を強調しており、一つ屋根の下に大勢で一緒に暮らして切磋琢磨するものだ。中でも信者間の関係が密接な錫安山や弥楽コミュニティでは、皆がともに耕作して一緒に食事をし、財産も共有している。子供たちは大人を、おじさん、おばさんと呼び、年長者をおじいさん、おばあさんと呼んでおり、まるで超大家族のようである。

台湾の少なからぬ宗教コミュニティは、メンバーが共同で農作物を栽培し、一緒に食べるという自給自足の生活方法を採用することで、俗世の干渉を受けず修行に専念できるようにしている。写真は高雄の錫安山の果樹園だ。
なぜすべてを捧げるのか
世の中が急速に変化して価値体系が崩壊する中で、俗世を離れて心の拠り所を求め、信仰に帰依したり、人生の意義を見直したいと思うのは人情であろう。しかし、家庭や仕事や財産を手放してまでして、生活を大きく変えようとするのはなぜなのだろう。
「信仰心の強い人は、このような生活に憧れるものです」と話すのは芸術家で学者であり、修行者でもある仏光大学芸術学研究所の林谷芳所長だ。困難に直面して宗教に慰めを求める人も多いが、一部には順調で恵まれた人生を送りながら現実の世界に満足できず、生命の本質や生死について探究したいと考える人もいる。
宗教が提供する解決方法の中で最もよく見られるのは、大我(人格神)に帰依することで小さな生命の苦境を解決するというものだ。キリスト教のような一神論も、一心に念仏を唱える仏教もそうであり、また「教主崇拝」という特質を持つ新興宗教も、この点では同様だ。
小我を集めて大我となると考えれば、一緒に耕作して一緒に食べるというグループの形でメンバーを俗世から守ることができ、共に修行をする中で互いに信念を強めるともできる。こうした点では従来の仏教寺院やカトリック修道院とも似ている。違うのは、信徒は出家しておらず、俗世と修行の間を行き来できる点だ。
しかし厳格な宗教教育を受けていない信者の場合、プライバシーをさらけ出す集団生活において、集団から受け入れられようとして自己を歪めてしまうおそれもある。特に、俗世の生活の全てを放棄して集団生活に入りながら、何らかの要因で集団から受け入れられなかった場合、その生命は拠り所を失う可能性もある。
タラ・ブラックは「Radical Acceptance : Embracing Your Life with the Heart of a Buddha」の中で、アメリカの精神修養センターでの8年にわたる経験を述べ、こうした生活のリスクを指摘している。
心理療法士でもあるブラックは、同じ修行グループの仲間と結婚したが、学業と仕事と修行を完全に両立させることができず、しばしば道場の指導者から叱責されていた。妊娠した彼女は新たな生命の誕生を心から喜んだが、不幸にも流産してしまう。その心の傷を癒そうと、指導者に相談したところ、信仰心の揺らぎを疑われたのか、彼女は数百人の仲間の前で「開示」されることとなる。指導者は、彼女の世俗的野心と自己中心が胎児の命を奪ったと言い、さらに彼女が性愛だけを貪り、妊娠を望んでいなかったと多くの門徒の前で責め立てた。極度の恐怖と悲しみに押しつぶされそうになった彼女は、同じ団体に属する夫にも、指導者を尊敬するグループにも顔向けできないと感じた。そして最後に彼女はこの集団を離れ、自分自身を受け入れるために同書を著したのである。
彼女は芯が強く、幼い頃から人々に愛されてきた知識人だったから立ち直れたが、指導者から否定され、グループからの保護も失うという打撃にあったら、弱い人はどうすればいいのだろう。

アメリカ・ペンシルバニア州の「アーミッシュ」コミュニティでは、300年にわたってシンプルな宗教生活を守っている。男性は白いシャツに黒いズボン、女性は化粧をせずに質素な服を着て、外出時には服従と純潔を表す白いキャップをかぶる。
薬でもあり毒でもある
集団での修養生活にはリスクが伴うが、教主や指導者に引き寄せられて参加する人は跡を絶たない。林谷芳所長によると、新興宗教の教祖や精神的指導者にはある種の人格的特質があり、同質性の高い信徒が集まるという。信徒はまるで恋でもしたかのように、現世の全てを投げ打って熱狂的にその世界に入っていく。
「教祖に対する信徒の敬慕の念は薬でもあり、毒でもあります」と指摘するのは新興宗教を研究する聯合大学経済・社会研究所の林本ャッ副教授だ。
一般に新興宗教は成立してから日が浅いため、教義や経典も完備しておらず、教祖個人の教えが中心となり、厳格な検証に耐えないものが多い。時には全く間違った方向へ導かれることもある。「現代禅」の指導者、李元松が生前に発表した「仏教界への公開懺悔啓事」によって教団が分裂したのもそうした例である(33ページの記事を参照)。
一歩譲ってすべてが順調だったとしても、教祖や指導者も肉体を持つ人間であり、その人が世を去った時、信者や教団は何を拠り所とすればいいのだろう。
「信仰の核心を失うと、メンバーの気持ちは分散し、分裂の原因になります」と林谷芳所長は言う。信徒が教祖に心身を捧げるのは難しくないが、一緒に修行をしてきた同輩に同じように奉献するのは難しい。そのため、教祖が逝去すると、教義の解釈や性格を異にする信徒の意見が合わなくなることが多いのである。
オショウの場合も、オショウの死後にインドのプネー市にあるコミュニティは修行とビジネスを結びつけたレジャーセンターとなり、昔からの門徒を嘆かせた。オショウが生前に選んだ20人からなる後継グループでも内部闘争が生じ、離れて行く者もいた。「門徒を惹きつけるだけの十分な魅力を持つ者がいなくなり、プネーの神秘性も消失しつつある」と、オショウを研究テーマとしている東海大学社会学研究所の研究生、張芝怡は論文に書いている。

インドのプナーにある敷地40エーカーのオショウ・コミューンには、各地の門徒を始めとして多くの人が訪れる。集団で瞑想する時には全員が赤いローブを着て共同体の雰囲気をかもし出す。
生命の自由を求めて
自分と異なる多くの人とどう向き合うかが、宗教において大きな問題だと林谷芳所長は言う。歴史上の理想郷の大部分が一瞬で消えていったのも、複雑な人間性や社会を単純化して主観的な願望でとらえたためだと考えられる。
仏教の場合、性質の異なる多くの人々を救うためにさまざまな入門方法を設けており、「空」から入る禅宗もあれば、財運や良縁などの「有」から入る方法もある。つまり教義自体に十分な寛容さがあってこそ、信者は自由と解脱を求めることができ、こうした宗教だけが長く伝えられるのである。
これに比べると、多くの新興宗教の視野には限界があり、個人個人の相違を正視できないばかりか、完全に教祖だけを中心とした世界を作り上げようとするものもある。こうした「純化」は保守性や閉鎖性、自己中心をもたらしやすく、内部においても対外的にも膠着化しやすい。「人民寺院」が「迫害」されているという感情から集団自殺の道を選んだように、信者が一般の世の中や規範と完全に離れてしまうこともある。そうした中で、教祖が死去したり、コミュニティが分散したりした時、これらの信者があらためて社会に戻れるかどうかは大きな問題であろう。
この他に、一般に新興宗教は簡略化された、広く応用できる教義をもって現代人の渇望に応え、ある種の修行を通して悟りの境地に入れると強調する。伝統ある宗教は、経典の研究や数十年に渡る修行を経ても悟りが開けるとは限らないとしているのとは大きく異なる。また、短期間精神修養コミュニティなどに参加してエネルギーを得ようとする人もいる。心身のストレス解消にはなるかも知れないが、霊性の向上という点で、どれほどの成果があるのかはわからない。

反進歩の検証
では、広い一般社会にとって、宗教コミュニティはどのような意義を持つのだろう。彼らの生活モデルは、単に世間と一線を画し、己の優位性と純潔を示すものなのだろうか。共同生活は、一部の学者が考えるように「進歩に反する退化運動」なのだろうか。
「私たちが問わなければならないのは、何が彼らを隔絶させているのか、という点です」と中原大学建築学科の喩肇青教授は違う角度から指摘する。自給自足型の宗教コミュニティの多くは有機農法や自然生産を行なっている。もし私たちが相変わらず工業社会のシステムで思考し、彼らを極端な宗教徒ととらえたとしたら、その背景にある、工業化と消費文明への反省と挑戦という積極的な意義を見落としてしまうだろう。
1970年代以前に、人々はすでに工業化と都市化が引き起こすさまざまな危機――人と自然、人と生活、人と仕事、人と人、さらには人と自我など、すべての面で深刻な乖離と断絶が生じることに気付いていた。こうした断絶は、現在のバーチャルテクノロジーとグローバル競走の時代において頂点に達したと言えるだろう。
喩肇青教授は「石油のない時代の到来」や温暖化などを正視しなければならないと指摘する。私たちは今までのように無制限に発展していくことはできず、考え方を切り替える必要がある。今までとは全く違う経済生産モデルと生態環境に対応するという点では「錫安山」のような「スモールシステム」の生活・生産方式は、非常に参考になる。ヨーロッパでも近年は次々とこうした事例が見られるようになり、宗教上の修養コミュニティだけでなく、エコロジー型の共同コミュニティが急速に発展しつつある。
宗教の理想郷は全ての人を悟りの境地に導くことはできないかも知れないが、極端に偏った方向へ走らない限り、心身を浄化させ、人と自然を調和させることはできる。煩わしい生活に疲れた時、こうした浄土を訪れて心身をリフレッシュするのもいいだろう。