どうやら、「古典」は一定期間ごとに話題に上るようだ。
2016年、誠品書店は「ともに古典を読む」という大規模な企画を打ち出し、国内の各出版社に古今東西の古典や名作の推薦を依頼した。その目的が、書籍の価値の再構築であれ、読書人口の増加、出版市場の活性化であれ、一歩進んであらためて考えてみたい。この時代の、この世代にとって、古典とは何を意味するのだろうか。
光華は6人の学者や作家に、古典について考え語っていただき、それぞれ1~2冊の本を推薦していただいた。推薦された本のジャンルは文学から芸術、宗教、社会にまでにわたる。一冊の本が重視されることは、何らかの分野や何らかのグループにとって意義を持つだけではない。また、たった一人の読者が、その本に感動し啓発されれば、その本は一人また一人と読者を増やしていくこととなる。
読書は人生について考えることであり、古典は人々の郷愁でもあるのだ。

中央大学中国文学科の康来新教授は、儒家思想や漢字文化圏の角度から古典をとらえる。
再読の重要性
読書人の立場から見ると、古典の形成は必然的に権力に操られている。それは西洋のノーベル文学賞であれ、マスメディアや教科書が生み出す古典であれ、それぞれに好悪や趣味や偏向があり、イデオロギーに左右されることも免れない。「古典は、ある種の集団の記憶によって形成されるものです」と国立中央大学中国文学科の康来新教授は言う。
「紅学の権威」と呼ばれる康来新は、古典としてまず『紅楼夢』を推薦する。同作品の「個人主義、確実性、家庭への懐疑といった現代的な視点、そして優美な白話文により、紅楼夢は発言権を持つ人々に好まれてきました。それはまた伝統文化の叙情主義や美意識にもかなうものです」という。そのため、多くのエリート層に読まれ解釈され、品格や価値観の形成に影響をおよぼしてきたと言う。
「まずは自分の好きなテーマに関連する古典から入り、文化や時代を越えた思考に触れることを勧めます」と康来新は言う。特に現代では、インターネット上に古典のガイダンスやフォーラムが溢れているため、「古典を読むことは決して孤独な行為ではなく、多くの人と一緒に読んでいるように楽しめます」と言う。

書は人生を変える。読書は人生をより豊かに、より美しいものにする。.
文学は普遍的な価値を備える
台湾文学館館長を退任した李瑞騰教授はキャンパスに戻り、今年8月に国立中央大学文学部の学部長に就任した。長年にわたって芸術文化を推進してきた李瑞騰は、その広範な知識から、古典という古くて新しいテーマについて語る。
「古典」には典範という意味があり、相対的に厳格な概念である。中国文学の祖型と称えられる『詩経』は、民間の作品が古典化したもので、一定の条件の下で民間の作品が代々読まれ続け、それが古典となる可能性があることを示している。古典化に関連して李瑞騰は、白先勇の『台北人』と黄春明の『児子的玩偶(坊やの人形)』を挙げ、これらも多くの人にとって台湾小説の古典となっていると指摘する。
すでに古典の地位にある作品は、あらゆる試練を経ており、社会構造が完全に変わらない限り、それが崩壊することはない。しかし、時代や環境の変化によって古典の軸が移動し、一部の作品の影響力が増すと同時に、一部の作品の影響力が下がり、時には疑問視されることもある。
例えば1999年に行われた活動「経典三十」は、「一つの制度の下で集団で文学の伝統と向き合い、古典を選ぶ」というものだったが、当時選出された30作はすべての人の価値観や美意識にかなうものではなかった。ただ「文学には普遍的な価値があるもので、最終的な判決は歴史に任せるしかありません」と言う。

台湾文学館の元館長で長年文芸推進に尽力してきた李瑞騰教授は、その広い学識をもって古典の意味を語る。
究極の価値、先鋒のポジション
一つの時代にはその時代の文学があり、その時代に属する古典がある。作家の鄭順聡は20数年前を振り返り、当時は胡適の『四十自述』や五四運動に関わった人々の作品が古典として崇められていたのを思い出す。しかし、時代は変わり現在古典として挙げられる作品は当時のそれとは大きく異なる。それは、「社会の変化が速すぎ、古典の選択を通して何らかの価値や方向を確認しているからかも知れません」と語る。
「古典は価値を凝縮した銅像のようなもので、時代によって盛衰があり、ある種の相対性を見せます」と話す鄭順聡は、蒋介石の銅像と画家の陳澄波を例に挙げる。権威政治の時代、蒋介石の銅像は至るところにあったが、後にすべて慈湖に移され、政治リーダーの権威は衰退した。逆に戒厳令下では決して語られることのなかった陳澄波が今では日本統治時代の台湾を代表する芸術家と称えられるようになった。「古典は時代やエスニックによって変わるもので、そこには主観が伴います」だからこそ、核心的価値の有無が古典選択の重点となる。
実際、古典の形成過程には紆余曲折がある。例えば、張愛玲の作品は最初はラブロマンスと位置付けられていたが、夏志清の推挙によって最初にキャンパスで大旋風を巻き起こした。張愛玲の死後、さまざまな条件が重なってこの流れはキャンパスの外へと広がり、大衆に愛されるようになり、そのスタイルは模倣の対象にもなったのである。学者の紹介を経て少しずつ読者を増やし、ブームとなって古典とされるようになったのである。「古典を好きでなくても、認めなくても構いませんが、敬服しないわけにはいきません。その作品はある高みまで上り詰め、価値は極地まで発揮され、しかも先鋒となり、後人に影響を及ぼすのですから」
近年、台湾語文学の推進に力を注ぐ鄭順聡は、許丙丁の『小封神』を高く評価する。神々が台南のモダンな通りを自在に行き交うという鮮明なイメージを持つ生き生きとした作品であり、台湾文学史上、後にも先にも見られないスタイルである。この作品には華語と台湾語のバージョンがあるが、市場ではあまり売れておらず、その原因に鄭順聡は興味を抱いている。
古典とは、鄭順聡が初めてアイスランドのロックグループ、シガー・ロスの音楽を聞いた時のように、民族の違いを越えて共鳴し、一瞬にして好きになるものなのかも知れない。

作家の鄭順聡は、古典は価値を凝縮させた銅像のように時代の変化に連れて栄枯盛衰する、相対性を持つものだと考える。
多様な思考を啓発
インディペンデント・アーティストの鄒永珊は執筆からブックデザインまで一人でやりのける。その小説『鉄道共乗旅遊手冊』もそうして完成した一冊だ。長年ドイツに暮らして異なる国の文化を経験し、文芸出版に関わってきた観点から、その古典観と読書の視野を形成してきた。
彼女は書籍出版のプロセスから語る。作品が完成した時点で、古典としての資質の有無やレベルは決まっているが、その後、市場に出て読者との共鳴などの複雑な経緯を経て、古典が形成されていく。しかし、さまざまな要素が関わるものの、古典の確立は結局「作品そのもの」に回帰すると彼女は考える。そして抽象性や普遍性、開放性などが古典の核心となる。「世界に対する関心を持ち、人々の心が追求するものに触れ、同時に人の多様な思考を刺激し受け入れられるもの。抽象的であるからこそ特定の時や場に制限されず、時空を超越し、しかもさまざまな解釈や理解をもたらすもの」と語る。
鄒永珊が推薦する古典は、潘栢世の『太和鼓鬯:徐青山「二十四琴況」講述』とオスカー・ワイルドの『童話と散文詩』(巴金訳)の二冊である。いずれも、美しい言葉の中に辛辣な批判が込められている作品である。
『太和鼓鬯』は二十四琴況の真の姿について述べているが、それより重要なのは「ジャンルや時代を越えた美学の価値」を示していることだという。「この本は確信をもって明確な道を示しています。創作の道を歩む中で、私は定期的にこの本を読みかえし、自己評価の基準としています。これを読むことで、創作をより深い角度から見つめることができるのです」と言う。一方、ワイルドの童話は「天真爛漫かつ残忍で、心の奥深くまで入り込み、読後に鋭い痛みを感じさせます」と言う。『童話と散文詩』は寓言でも予言でもあり、人生のさまざまな段階で味わい深く読め、現代においても明確に道を示している。
どの時代にも古典が読み継がれるのは、作品が抽象性や普遍性や開放性を持つからだけでなく、常に道を示す灯りとなるからかも知れない。

書架に並ぶすべての本が文章と思想の精髄である。
美と啓示をもたらす作品
「その作品が生まれた時代や環境といった特定の要素を離れても、なお美と啓示をもたらす作品で、なおかつ年齢や心境の変化によって異なる感想をもたらし、また作品の違う部分に目を向けさせられる作品」というのは、学者であり作家・詩人でもある楊佳<_の古典観である。
清華大学の助教をしていた頃、教育現場での研究や教育、教科書選定や試験制度などが、キャンパスにおける古典形成のプロセスに一定の影響をあたえていることに気付いたと言う。彼女は「『オリジナリティ』の検証には時間が必要だ」という村上春樹の言葉を引き、古典形成のプロセスには偶然と必然があると考える。「偶然の面では、たまたま環境の大きな変化に遭遇し、何らかの美意識や価値が延長すること。必然の面では、その作品の質や思想の精髄が関わってくるでしょう」と言う。
だが、楊佳嫻は「偽古典」の可能性をも指摘する。「例えば、表現手法がその時代の潮流とよく調和していたり、あるいは研究や教育において特に操りやすかったりするため、テーマとして扱われる機会が多く、まるで古典でもあるかのような現象が生じるのです」と言う。
内外の古典や名作があふれる現代、楊佳嫻は18世紀の曹雪芹の『紅楼夢』と19世紀のドストエフスキーの『地下生活者の手記』を推薦する。
『紅楼夢』は3世紀前の物語だが、「情の表現や少年少女の成長と幻滅、家庭と体制の束縛などの表現が通俗的ではなく、上流階級の暮らしもきちんと描けています」という。『地下生活者の手記』は、彼女が20歳の時に読んだロシア文学であり、その人間性への探求が今も忘れられないという。「ドストエフスキー特有の奥深い暗さを、まるで地の底に透けて見える淡い光のように感じました。こうした雰囲気は、華人作家の作品にはなかなか感じられないものです」
偶然であれ必然であれ、古典は新たな時代に啓示をもたらすものである。

インディペンデント・アーティストの鄒永珊は長年ドイツに暮らし、異文化を経験して文・芸出版に関わってきたことで、独特の古典観と読書の視野を形成してきた。 (黄仁益撮影)
古典は陳腐なものではない
「古典は長い歳月を乗り越え、読者や特定の分野において非常に重要視され、こうした基礎の下で読み継がれてきたもの」と語る作家の阿溌は『西遊記』を例に挙げる。『西遊記』は通俗小説として古典の地位を確立した珍しい例である。同じように金庸やJK羅琳の作品は大衆文学に分類され、「現代においては高い地位にありますが、後世においてどう扱われるかは私たちが決められることではありません」と言う。
ただ、古典を枠にはめるべきではないと考える。「トップダウン式の古典の定義には個人的な趣味が反映しており、古典に対する他者の認識を指図するものです。古典というのはそうした狭いものではなく、人や時代によって異なるものだと考えます」という。一つのグループにとって意義があり、そこに読者グループが形成されれば、たとえそれが漫画であっても古典になり得る。逆にマルクスの『資本論』は読む人の少ない作品だ。
かつて記者やNGOワーカーだった経験を反映し、阿溌は、小林多喜二の『蟹工船』とリシャルト・カプシチンスキの『帝国—ロシア・辺境への旅』の二冊を推薦する。
『蟹工船』は1930年代の不況を背景に、日本の労働問題を描いている。グローバル化の進んだ今日の世界では労働問題はさらに複雑だ。阿溌は在英の作家・白暁虹にも類似の作品があるという。「台湾ではストライキや労使交渉が大きな話題になりますが、韓国や欧米では日常茶飯事です。この20世紀の作品から、私たちは皆、同じ船に乗っていることを理解できるかもしれません」
カプシチンスキはポーランドの著名ジャーナリストで、『帝国』は人民と国家との衝突や複雑な感情を描いている。「国境がある限り国家権力が存在します。私たちは庶民の目で自分たちの土地に起きている物語を考えなければなりません」
「人」という根本に立ち返って古典について考えると、重要なのはその定義ではなく、阿溌がいうように「古典は陳腐なものであってはならない」のではないだろうか。

知識の海が目の前に広がる。

学者であり作家・詩人でもある楊佳嫻は、古典とは次の世紀への黙示録だと語る。

ジャーナリストで作家の阿溌は、古典は型にはめられるべきではなく、人や時代によって変わるものだと考える。(阿溌提供)

知識の海が目の前に広がる。

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