ステージにザ・クランベリーズの物憂い曲と声が柔らかに響く。不思議な服を身に纏ったモデルが緩やかに歩いてくると、会場は形容し難いファンタジックな世界に入り込んだ。新進気鋭のファッションデザイナー高勝忠(アンドレ・カオ)の2009年実践大学ファッションデザイン学科の卒業制作である。インスタレーション、ゴシック、そして最も重要な台湾原住民の要素を融合して生まれた強烈な風格が、観衆の目を奪い、卒業展1位を獲得した。「ショーが終ると、業界のデザイナーとバイヤーが何人も来て、一緒に仕事をさせてほしいと声をかけてきました」この時、アンドレは将来の道を確信したのだった。
「ファッション業界に進むとは思いませんでした」台東パイワン族のアンドレは「何もかも不作為でした」という。家が貧しく、長男のアンドレは中学1年の前期を終えると休学し、台北で映画の看板描きのアルバイトをした。「勉強はしなかったけど、映画はたくさん見ました」見習いから始め、6000元の月給から4000元を家に仕送りした。その後めきめき腕を上げて専門の看板職人になり収入も増えた。だがアンドレは青春期の子どもだった。毎日流行の最先端・西門町にいて、鋭敏な色彩感覚と視覚が鍛えられた。知らぬ間に、ファッション界に進む基礎が作られた。
手描き看板が廃れると共に、アンドレに夢が芽生えた。きちんと専門の訓練を受けたいと思った。苦学して中卒同等資格を取り、復興高校美術科を受験し、後に絵画組を首席で卒業する。その間の作品はほぼすべてコレクションされている。
復興美術科で勉強中、アンドレはデパートでショーウィンドウのディスプレイを担当していた。「美術とビジネス両方のトレーニングになりました。ショーウィンドウはインスタレーションであると共に、購買意欲を刺激するマーケティング機能も果たさねばなりません」この間のトレーニングが後にオリジナルブランドを立ち上げる上で大きく役立ったと彼は考えている。
ファッションデザインの世界へ
兵役を終えると、自分の将来を真剣に考えるようになった。「人生に他の可能性はないのか、問い続けました」もっと自分を充実させたいと思った。復興高校美術科で学んだ基礎をもとにメディアデザイン学科を受験しようとしたが、いざ申し込もうとすると多くのメディア関係学科には夜間部がなく、昼は金を稼がねばならないアンドレは少し失望した。だが、申込の担当者は、ファッションデザイン科を受験したらどうかと勧めてくれた。夜間部があるからである。
勉強できるなら何でもよかった。こうしてファッションデザインの分野に足を踏み入れたのである。最初は続くか心配だったが、間もなく全国Tシャツデザインコンクールに出品するよう先生が皆に呼びかける。思いがけず1位になった。この分野でやってみようと思えた。
復興高校でやっと系統だった美術の勉強を始めたアンドレには、確かにデザインの才能があったようだ。自身はこう解釈していた。「原住民の血の中の何かかもしれません。大自然と集落の生活が、都会の子どもにない視覚と感受性の経験をくれたんです」実践大学での歳月において、アンドレはコンクールを重ねるごとに自己を肯定し、頭角を現わしていった。学生時代にすでに大胆にも商業デザインの依頼を受けている。ビジネスだから報酬があり、クライアントの要求も非常に細かい。「試されるのは本当の力」だという。
オリジナルブランド創設2009年、紡織業拓展会の全国ファッションデザインコンクールで優勝すると、自分の名前「アンドレ(ANDRE)」でオリジナルブランドを創る決心をする。その後、紡織業拓展会は既製服産業の転換を支援し、オリジナルデザインとブランド確立、そしてビジネスチャンス拡大を目的に西園29ファッションインスティテュート・台北(FIT)を設置するとともに、第1回「西園29 FITデザイナーコンクール」を開催した。著名デザイナーの竇騰璜(Stephanedou)等が市場性、オリジナリティ、国際市場におけるポテンシャル等に基づきデザイナー5名を選出し、アンドレは運よく入選した。「FITに入ると設備や技術サポートが利用できます。紡織業拓展会が設立した三大パターンセンター等も使えるし、専属の工房も持てます」更に大きなサポート、或いはチャレンジと言うべきか、台中勤美・誠品の複合型ショップで、オリジナルブランドを販売できるのである。
ブランド「アンドレ」は消費者と向き合った。「すごく緊張して、オープン前日は深夜までディスプレイにかかっていました」結局、アンドレの商品は勤美誠品で一日で完売する。業界は「脅威の新人」と形容した。「やっと安心しました。自分のデザインがあんなに多くの人に好かれたんです。勇気を持って突き進もうと思いました」
アンドレはかつて台東大武中学一年の前期、全国民主法治漫画コンクールで台東・中学組1位に入った。後期に台東代表として全国大会に参加する資格を得たのだが、貧困のために休学し、チャンスを逃した。以来、アンドレは「もっと大きなコンクールに参加する」夢を抱いていた。
2014年、クバラン族の姫、ブヌン族の「太陽を射る神話」、パイワン族の「陶器の壷から始祖が孵化した伝説」等、原住民の7つの神話伝説をモチーフに抽象柄プリントを作り、個性的な服飾にデザインした。そして台プラ3代目の蔡佳宸(Fanny Tsai)デザインの宸諾(Weng Collection)クリスタルジュエリーとのコラボで「Taipei IN Style(台北魅力展)」の台北ファッション新鋭デザイナー銀賞を受賞した。しかも蔡佳宸が自らアンドレのショーに出て、ルカイ族バラン姫の愛のシリーズを表現し、二人は高い注目を浴びた。2014年台北市長選挙の第一回テレビ討論会では、連勝文夫人の蔡依珊がこのシリーズのシャツとロングタイトスカートを着ていた。鮮やかなプリントが即座に称賛を集めた。
タレントのスタイリング、デザインアンドレは、このシリーズのインスピレーションはパイワン族の「陶壷の子」伝説だという。神話の陶器の壷の立体的な形を、抽象的なプリントパターンに変えた。ファッショナブルで個性的な布地を作り、ワンピースやシャツ、スカートに活かした。その後、他の原住民の神話伝説も取り入れ、プリント、ニット、彫刻等の伝統柄から、原住民シンボルシリーズの豊かなプリント生地が生まれた。その後、デザインプリントにアパレルメーカーが注目して制作した商品は、ワンピースやスカート等の服飾からTシャツやバッグなど、幅広い商品とアクセサリに及ぶ。
アンドレのもう一つのデザイン路線は、伝統の中にデザインを精練し、新しいアート手法でシュルレアリスムや未来派の風格を表現し、異なる媒材を用いて、大胆で奇抜、服が千万もの表情をもつようなステージ効果の追求である。機会を得るために、アンドレは自ら著名スタイリスト陳孫華に売り込み、陳孫華の紹介でタレントのコンサートや広告の衣装制作を請け負った。ショウ・ルオ、JJ・リン、ジョリン・ツァイ、ステファニー・スン、タニア・チュア、SHE、フェイス・ヤン等のコンサートの衣装を手がけた。また、2013年の金曲賞で最優秀台湾語歌手を受賞した李婭莎は、アンドレがデザインしたドレスでレッドカーペットを歩き、最も注目を浴びたアーティストとインターネットで高く評価された。
タレントの衣装デザインで、収入が安定し知名度が高まる。だがアンドレが気にかけるのは、やはりブランドの発展である。「タレントのデザインは奇想天外でよく、私の不安な魂を満たしてくれます。でもブランドの市場では話は別です」単なる個人のデザインではなく、ビジネスとマーケティング面の努力と能力が必要だという。国内のデザイナーズブランドを観察したところ、多くがブティック商品として少量を「委託販売」していた。これでは在庫プレッシャーがあると考え、アンドレは国内市場を飛び出す。少量のサンプル生産で、自費で海外の見本市に出展し、受注してから生産するのである。
見本市でビジネスチャンスを探る大規模な国際見本市に全力で出展する。パリ、ニューヨーク、香港、北京、上海等のファッションウィーク、流行見本市にアンドレの姿が見える。展示で欧州や中東の注文を受ける。トルコのバイヤーから3万点の超大口注文が入った時は、量が多すぎ納期が短く、急ぎの仕事で品質に影響するのを心配して泣く泣く受注を諦めた。だが、自分には国際市場を開発できるポテンシャルがあると確信した。最近は大陸でのビジネスチャンスを探る。専門性の高い代理業者が見つかれば、正式に中国大陸市場に進出するという。
ファッションやデザインというと台湾は「国際化」を叫ぶが、外ばかり見ている。「私たちが余所から見た『国際』にはなれないのでしょうか」原住民だからかいつも「周辺的存在」だったことで、却って主流の価値に左右されずに、勇敢に道を切り開いてきた。「台湾原住民には豊かで素晴しい伝統の要素があります。それが、オリジナルブランド発展のコアコンピタンスです」
「どんな機会も逃さず、機会がなければ作り出す」人生観を持ち続けてきたという。13歳の、中学1年前期までしか行かなかった集落の子どもが台北で一歩一歩、世界に向かって歩き出し、自分のファンタスティックステージを作り出したのも、それならば納得がいく。「もっと頑張って、頑張るんです」アンドレは言った。