物故した書と篆刻の大家王壮為氏を人は壮老と呼んでいた。壮老と言うと最初に思い起されるのが、酒を嗜むことから起きた様々な逸話であろう。酒好きの壮老は、客が尋ねてくると茶ではなく酒でもてなし、戯れに「耽書恰有詩幾首、覓句多憑半壷酒(書に耽っては詩を幾首か得たが、句を求めるには酒半壷が頼り)」と題した。酒は興を盛り上げ、心を澄ませ、また気持を高ぶらせるとも言う。その弟子である薛志揚氏の記憶によると、昼に筆を揮うときにもしばしば手を止めては酒で興を助け、微醺のうちにその数々の素晴らしい書の作品を仕上げてきたのだと言う。
王壮為氏の子息で、文化大学史学研究所美術史講座の主任王大智氏は、小さいときには父が詩を吟じるのが嫌だったと言う。というのも、しみじみと吟詠していたと思ったら、突然号泣することがよくあったからである。子供が驚いているのを尻目に、父は目を擦りながら気持ちよさそうに「うむ、よい詩じゃのう」などと感嘆している。そんな父に驚かされていたものの、現在の自分が書を愛し、生活のすみずみに書画や囲碁、笛や拳術などの中国伝統文化が染み込んでいるのは、すべて父からの影響だと王大智氏は思っている。そして「父は、恐らく中国最後の文人芸術家の一人でしょう」と言うのである。
1908年に河北省易県の代々続いた学問の家に生れた王壮為氏、父の王義彬は清朝最後の秀才(高等文官の予備試験合格者)だったが、官途に興味を持たず、生涯を家にあって書画を楽しむ文人の生活をおくった。氏は6歳の時から父の指導を受けて書を習い、12歳で篆刻を始めた。祖父は北京で官に就いていたので、毎年高価な筆墨などの文具を送って寄越したので、王氏は小さい頃から各地の有名な筆墨や紙、硯などに詳しくなったという。よその子供が無邪気に遊んでいるときに、一人だけ家族の蔵書室に入り込んで所蔵品を眺め、一旦入ったら最後、中々出てこようとはしなかったそうである。
そのほかの中国の子供がそうであったように、王氏の書も顔真卿の書体から始った。その書は力強く端正で、しかもおおらかな雰囲気がある。多くの大家の書を臨書して後には、青年時代には王羲之の行書と草書が一番合うと考え、これを自分の書体の中心に据えた。
20歳になり、若い王壮為は家を離れて北京の私立京華美術学校に入った。東西文化が接触を始めたこの時代にあって、他の若者たちと同じように一心に西洋文化を吸収し、油絵や彫刻ばかりではなく、映画や文学など西洋のものを何でも好んだと言う。しかし子供時代に中国芸術の精華を知ってしまったためなのか、その後の王壮為は西洋芸術の方向には進まず、むしろ伝統的な中国の文人としての生活を選んだのだった。
1937年、蘆溝橋事変が勃発して北京は日本軍に占領された。結婚したばかりの王壮為は大陸北方男児の気概を見せんとばかりに筆を捨てて軍に身を投じ、羅卓英将軍の第19軍に参加した。そして遠征軍と共に瘴癘の地ビルマへの行軍を続け、3ヶ月の後に西のインドに出てようやく無事に帰還できたのである。その頃には新婚の妻で、張潤生将軍の令嬢である張明隨さんは、ずっと夫の消息が掴めないのに居ても立ってもいられなくなっていた。そこで同じように夫を尋ねていこうとする母子を連れて、江西省から西南の方向に向ったのである。これも、北方の女性の勇ましさと言うべきであろう。「何年も経ってから、その頃の夫の日記を目にしました。消息一つない当時のことですが、夫は私がおとなしく後方で待っているだろうとか、実家に帰っているとかは考えていなかったようです。今思うと、そんなに私の気持を知っていてくれたのかと、胸が詰ります」と、今年87歳になる老夫人は話す。夫の王壮為は感情を表に出そすことのできない男だが、その内面はこれほど繊細な感受性の持主だったのである。
後方の重慶に退却してから、生活の為に公務の合間を利用して、王壮為は人に頼まれて印鑑を彫ることにした。前漢の揚雄はかつて「童子の雕虫たる篆刻は壮夫の為さざるところなり」と言ったものだが、これを裏返しにして「壮夫なればなおのことこれを為す」の意味をこめて壮為と名乗ることにした。その後は自称の王壮為の名で通ってしまい、本名の王沅澧を知る人は却って少ない。
この篆刻について、王壮為の七大弟子の一人薛平南氏はこう話す。篆刻は書、構成、篆刻刀の技術など多くの要素を結びつけた芸術で、古文字を熟知していなければならない。その上、小さな印材の上に優雅に趣を失わずに収まるように、篆書の文字の大小を調整する必要がある。王壮為氏は文字学を研究し、幅広い篆刻の様式に通じていた。そのために篆刻作品集である『玉照山房印選』に収められた500点余りの作品には古璽、秦漢の印、甲骨派、皖浙派などの様式が自在無碍に交じり合う。平たく真直ぐな漢印であれ、小篆のくねった曲線であれ、巧みに自然に彫り上げる。
師の書斎で篆刻の技を見たことのある薛平南氏によると、一つの印に長い時間をかけて草稿を何回も書くが、一度構成が決ると、勢いよく刀を揮い一気呵成に仕上るのだそうである。だからこそ構成は厳格ながら、気宇壮大な力がこもる。
とくに賞賛の声が高いのは、筆を扱うように篆刻刀が自在な線刻を描けるところである。一画ごとに刀の一彫りで彫りきられ、普通の篆刻家のように二彫り以上かかるということがない。端正に古雅に彫られた印、それに付された題字の行書草書は行雲流水の如きであるが、なお金石の趣を失わない。まさに呉昌碩、斉白石の跡を継ぎ、篆刻に自身の風格を生み出した大家と言えよう。
さらに若い頃に西洋芸術を学んだだけあって、伝統の中にも新しい息吹が加わっている。例えば、印紐(印鑑の上部、字の面の反対側)の飾り彫刻では伝統的な印には見られない題材が用いられる。夫人が見せてくれたのは小指の頭ほどの印で、上には立体的に龍が二つの貝を巻き込んでいる図案が彫られている。「これはその昔、重慶に居た時に彫ったものですが、その時はこんな図案を彫る人がいるものかしらと思いました」と、同じく印の飾り彫刻で知られる夫人は話す。夫の王壮為の作品はすべて諳んじており、どの印、どの書がいつの作品が一目でわかる。壮老一生の芸術の達成、そして長寿を保ち、円満な家庭生活をおくったというのも、夫人の功労が大きいのであろう。
王壮為氏は90歳で、眠ったまま微笑みを浮べて亡くなり、これが美術界の美談として伝わる。その書風と言うと、生涯を何段階かに分けることが出来るだろう。重慶にいた時に著名な書家沈尹黙の知遇を受け、その教えにより晋唐の華麗な書風に加えて趙孟坌や文徴明の飄逸な味わいを学び、均整の取れた隙のない書はどの字を見ても美しい。
書道芸術に詳しい故宮博物院書画処の副研究員何傳馨氏によると、中国の書は字体により優美な南帖と力強く雄渾な北碑の二つの系列に分けられるという。王壮為の書風は若い頃にすでに確立され、40歳を過ぎた頃には南帖の飄逸で自在な趣きを表現できるようになっていた。
しかし、自身の書が美しすぎるのも却って欠点になると考え、剛毅な力を持つ北碑の書風をわざわざ取り入れ、硬く、強く、鋭い運筆を追い求めていった。そのためか、王壮為の書には流れるような美しい筆の運びに加えて、力強く踏みしめるような味わいが込められている。こういた書風こそ、まさに生れついての北方男児の剛直な気質を持ちながら、芸術に完璧を求める繊細な一面をもつ王壮為の個性を表現するものであろう。
50歳を過ぎてからは、書とは絵画であると考えるようになり、新しい表現手法を求めて数多くの独創的な実験を試みている。例えば濃淡の異なる墨を五回も重ねて書き、自ら「乱影書」と名づけた手法や、紙を揉んで皺を出して、皺のよった所で墨が斑らとなる字体、あるいは絹に書いて乾かないうちに水をくぐらせて、墨をわざわざぼかした効果を出してみたりと、その実験の斬新さに書道界の注目を集めたものだった。
こう言った奔放で独創的な手法を試してはみたものの、結局は謹厳で真面目な性格には合わなかったようである。実験を重ねて見た後には、伝統的な中国芸術の世界に戻っていき、そこから養分を吸収するようになった。その頃大陸で出土したばかりの馬王堆遺跡の竹簡、侯馬盟書、中山王国の青銅器銘文、楚の帛画など、春秋戦国時代の文字を研究し、特徴ある運筆と構成の妙を書風に取り入れていったのである。また古文物に刻された文字を集めて詩句を作り、古きを以って新しきとする新たなスタイルを開いていった。「この時期の行書は以前のようにすっきりと優雅ではなくなり、右傾して幅広になり、自由奔放、筆画にかすれも見えて、以前の形にこだわる華麗さは見えなくなりました」と何傳馨さんは言う。
王壮為氏の師範大学教授時代の学生であった故宮博物院の林柏亭副院長は「王壮為氏は古きに学びながら、伝統に囚われず、中国の遠古の書風を学びながら、自らの書の限界を一段一段乗り越え、古拙な生命力を蘇らせたと言えるでしょう」と話す。この時期、その書は最高峰を迎えた。
王壮為の一生を振り返ると、芸術三昧の生活の中でも酒と書籍を欠くことはできなかった。読書に励み、本を買いこみ、論じ、読書を愛する人との交遊を楽しんだのである。友人や学生が東京に行く度に、日本語の書道の本や大陸で出版された新しい資料を買ってくるように頼んだ。晩年になっても読書の習慣は相変らずであったが、さすがに記憶力の衰えは覆いかくせず、これを嘆いて「多読補多忘(多読で忘れるのを補う)」と印を彫り、老いても読書に励まなければと自分を叱咤したのである。
博学多識の氏は書画金石の研究を怠らなかったため、芸術関係者がしばしば難問疑問に教えを請いにきた。ことに中国絵画の大家張大千は典故を駆使したひねった題字を好んで、見る人を迷わせた。そこで本人に直接聞くには憚られると言うコレクターたちが、王氏によく助けを求めに来たのだそうである。時には、氏自身も知っていることをわざと学生に教えないことがあった。もっと自分で勉強せよと言うのである。
多くの文人の印をコレクションしている黄天才氏によると、ある時壮老に古い印を持ち込んで、彫ってもらおうと頼んだそうである。その印石は古本屋で見つけた古いもので、元からあった字を削って新たに彫りなおしてもらうつもりだった。「どうあっても削って彫りなおしたいのかね」と師に尋ねられて、黄氏はよく考えもせずにそうだと答えた。印が出来あがったときになって、壮老は元から彫ってあった「天游化人」の4文字は、清朝の著名な政治家で、文人としても知られる康有為晩年の作だと言うのである。黄天才氏はこれを聞いてから、ずいぶん後まで悔むことしきりだった。
60歳を過ぎてからは「漸斎」と号し、「漸叟」と自称して「漸老漸熟、漸熟漸離、漸離見近於平淡自然(漸く老いて老成し、老成して世に離れ、離れては恬淡に近づく)」と印を彫った。50歳のときには殊更に異を立てようと実験を繰返したが、そこから伝統芸術に引き返してみると、巧まずして異となる路を歩んだ。
芸術の美しさとは長い時間をかけて切磋琢磨と思考を繰り返しながら、その様式の精華を見出し表現するということである。芸術の路は突然会得できると言うようなものではなく、芸術家は不断の努力を通じて、自然と自らの中に積み重ねていき、そこから真の味わいを生み出すしかないのではないだろうか。
晩年の王壮為は仏教哲学の漸老漸通を会得したかのようだが、現実には記憶力の衰えと共に漸老漸忘となっていった。以前に作った詩文を整理してみてもまるで忘れているのだが、それを悲嘆することはない。健忘にもよい点があるもので、他人の文章を読むように客観的に自分の作品を見られるというものである。そんな気持から、健忘老人の号を名乗る。人生の喜びも悲しみも次第に忘れていき、人は老いていく。一生を芸術にかけた王壮為の老境は、人も書も共に老いる境地に入っていった。
「大家直筆の墨蹟には、生の息吹と温かい血の温もりが感じられ、字を書いた人と直接向合っているような気になります。これが親炙というものでしょうか」と、王壮為は若い頃に古人の真跡を見て語った。
台北の街角を歩くと、公務員保険ビル、台北教師会館、台湾土地銀行、中華書局など、あちこちの建物に王壮為の筆になる額が見られる。春浅い1月20日から4月15日まで、故宮博物院では王壮為氏の各時期における書と篆刻作品の特別展が開催され、年齢と共に自然に悟りを開いていった壮老の芸術人生に親炙できる機会を皆さんに提供する。

王壮為氏が夫人のために彫った印紐(印鑑上部の飾り彫刻)と題字。明隨夫人もその印紐では広く知られている。