針をシェラックのレコード盤の溝に下ろすと、やや掠れた音が、遠くから、しかしはっきりと聞こえてくるように感じられる。1932年の台湾の初代女性歌手、星純純が歌う「桃花泣血記」がゆっくりとその時代の物語を語りかけてくる。林本博さんは目を閉じ、アンティークの蓄音機が奏でるメロディに耳を傾ける。遥か遠い時代の歌声が、学校での煩雑な仕事を忘れさせ、気持ちを落ち着かせてくれる。
外は陽光が照りつけ、車がひっきりなしに行き交う。台北市の都心にある私立開南商工職業学校の外観は普通の学校と変らないが、2階の「蓄音機芸文展示室」に足を踏み入れると、さまざまな年代の各国の蓄音機が並んでいる。形や角度もさまざまなラッパ型のスピーカーが並び、それぞれが美しいラインを見せる。開南商工の教頭を務める林本博先生の最大の楽しみは、彼が寄贈したこの蓄音機の世界を見て回ることだ。疲れている時にはクラシックの旋律に身を任せ、大切な蓄音機を拭いたりする。どの蓄音機も彼の手にわたるまでのプロセスに温かい物語があり、その物語の源は台東のプユマ族の集落から始まる。
林本博、1950年台北生まれ。2歳の時に家族とともに台東に移り住んだ。当時の台東といえばかなりの僻地で、両親は台東女子中学の裏にあるプユマ族の集落に茅葺の家を借りて住むことにした。幼い林さんは、プユマ族の子供たちと一緒に遊び、集落の大人たちについて山へ猟に行くこともあり、野外で生活する技能を身につけたため、集落の年配者から猟銃を贈られた。

1930年代初期にイギリスで作られた手のひらサイズの小型蓄音機。
台東での生活は貧しく、兄弟も多かったが、親は子供たちに教育だけは受けさようと堅く心に決めていた。新学期が近づいても学費の目途が立たない時、母親は直接県知事を訪ねて頼み込むこともあった。学業を中断させたくないという強い気持ちがあったからだ。
林本博さんが中学一年の時のことだ。当時の学費は200元だったが、母親は5人の子供の学費全額を工面することができなかった。そこで母親は1人に50元ずつ渡し、残りは少しずつ支払いますからと先生に相談するように言いつけた。まだ幼かった林さんは学費が払えないことを恥ずかしく感じ、なかなか校門を入ることができず、ついにその場で泣き出してしまった。
それを目にした担任の丁舎吾先生に訳を聞かれて説明すると、先生が自分の財布から学費を出してくれたのである。「丁先生はすいぶん前に亡くなりましたが、そのご恩に感謝して、今でも毎年台東にお墓参りに行っています」と林さんは言う。後に教員になってからも、この経験から、特に貧しい家庭の生徒には気を配り、学校側と交渉して学費の分割払い制度も設けた。
当時、台東中学の向いには軍の機関があった。靴を持っていなかった林さんは、そこにいる軍の若い兵士に、履き古して要らなくなった靴があったら塀の外の草むらに捨てて欲しいと頼んだ。その後、学校の帰り道に草むらを見ながら歩いていると靴が置いてあることがあり、とんでいって拾った。「まだ履けるのは片方だけだったり、左右の大きさが違ったりしましたが、それでもついに靴を履けるようになったのです」と言って林さんは中学時代の団体写真を取り出した。そこに写っている林少年が履いているのは、どちらも左足の靴である。
1967年、林本博さんは初めて蓄音機の音を聞いた。当時、比較的裕福な家の前には井戸があり、自分で使うだけでなく近所の人にも自由に水を汲ませていた。高校一年だった林さんがプユマ族の集落の古井頭(今の強国街)に水を汲みにいった時、その井戸の持ち主を見かけた。それはプユマ族の年配者で、ちょうど蓄音機のぜんまいを巻いているところだった。そして針を黒いレコード盤に置くと、そこから日本の歌が聞こえてきたのである。林さんは驚くとともに、非常に新鮮に感じた。小さい頃からプユマ族の集落で暮らしてきたので、すぐにその蓄音機の持ち主と親しくなった彼は、蓄音機を「借りて」家に持ち帰った。そのまま37年、その蓄音機は今も林さんの家にある。

19世紀末にエジソンが発明した円筒型蓄音機に使われたシリンダー(写真下)、これはレコード盤の前身である。
高校を卒業した後、林さんはその蓄音機と猟銃を持って家族と共に台北の三峡に引越し、成功大学歴史学科に進学した。大学を出て兵役も終えると、製鉄会社の営業マンになり、退社後はバイクで骨董街や古物商をまわっていた。1976から78年の頃、台北市の建国路では日本時代の宿舎の取り壊しが行なわれていた。そこを通りかかった林本博さんは、古物商が金槌で古い蓄音機を壊そうとしているのを見かけた。当時は鉄屑の方が高く売れたからである。林さんは慌てて壊すのをやめてもらい、50元を払って生まれて初めて蓄音機を買った。
昔から、捨てられた古い物の中から宝物を見つけるのが好きだった林さんは、骨董品に深い愛着を感じている。どの骨董品も光陰の過客であり、歳月の痕跡だからだ。時間は後戻りできないが、古い物を大切にして先人の知恵を愛でれば、その時代を生きてきたような気持ちになれる。「蓄音機の音を聞くと、それぞれの時代の生活や思想が実感できるんです」と言う。
こうした縁で林さんは蓄音機市場に注意を向け始めた。当時台北の八徳路、安東街、忠孝東路、愛国東路などに集中していた古物商に林さんは足しげく通った。そして1977年から92年までの間に40台もの蓄音機を手に入れたのである。
当時は保存状態の良いポータブル蓄音機が500〜1000元だったが、この金額は少なからぬ負担だった。そこで家計のために、彼は会社の仕事のほかに家庭教師をしたり、古物商から品物を仕入れて露天で売ったりした。少し貯金が出来ると車を買い、勤務外の時間は個人タクシーの運転手になった。朝から晩まで働きづめだったが、家に帰って静かに蓄音機の音に耳を傾けると、疲れは吹きとんだと言う。

一人で楽しむより多くの人と分かち合いたいと考える林本博さんは、校内に「蓄音機芸文展示室」を設け、学生たちにも歴史の音に触れさせている。
1981年、林さんは教員になり、開南商工職業学校の先生になった。1994年の2月、インドのニューデリーで開かれたアジア青少年柔道選手権に学校の生徒が参加することになり、林さんは通訳もかねて先生として同行することになった。実は林さんは大学1年の時からインドと縁があったのである。台湾に会社を開きたいというインド人が、林さんの兄の経営する東方飯店に常宿していて、兄の勧めでそのインド人の会社でアルバイトをさせてもらったことがあったのだ。
ニューデリーに着いて身体の具合が悪くなった林さんは、薬を買いに行った。薬局は商店街の中にあり、その隣りの店にはラッパ型の蓄音機が陳列してあったので、その場で購入を決めた。これは林さんが初めて手にしたラッパ型蓄音機だ。その時ついでに、商店街の人々と名刺も交換しておいた。
帰国後、持ち帰ったラッパ型蓄音機を眺めていると我慢ができなくなり、彼はインドの商店街に電話をかけて蓄音機を探してくれるよう頼んだ。こうして彼は6回にわたってインドに行き、40台余りの蓄音機を持ち帰ることとなった。その中で、1930年代に作られた小型蓄音機のために、わざわざ3回も足を運んだことがある。

1925〜35年のスイス製の蓄音機は、音楽を楽しむと同時に美しい油絵を鑑賞することもできる。
蓄音機は、1893年にレコードの量産が始まってから少しずつ普及し始めた。構造はターンテーブルにレコード針、共鳴箱とホーンというシンプルなものだが、大きくて重い機械である。1904年、日本でユリの花のようなラッパをつけた美しい蓄音機が作られ、蓄音機の外観は美しいものへと変っていった。
これとは別に第一次大戦の頃、塹壕の中の兵士が音楽を聞けるようにイギリスで小型ポータブル蓄音機が作られた。これは折りたたみ式の構造になっていて、戦地のウォークマンとも言える存在である。
1994年、林本博さんはインドで初めてこの小型蓄音機を目にし、心が動いたが、持ち主は売ってくれなかった。翌年、林さんは蓄音機50台を台湾省文献会が催した「台湾光復50周年音楽文物展」に出品した。そして96年、インドの小型蓄音機の持ち主を一度ならず訪ねて三顧の礼を尽くし、先の文物展の写真や新聞記事を見せて、自分は利益のために転売することはないと約束し、ようやく譲ってもらうことができたのである。
1998年、再びインドで1921年にイギリスで作られたツートラックの蓄音機を見つけた。これは1本の針で2つの振動板が高低音を発するものだ。一目見て気に入ってしまい、予算をオーバーしていたが喜んで購入した。その時、同行していたインド人から、なぜはるばるインドまで来て蓄音機を探すのかと聞かれ「蓄音機はすでに私の人生に欠かせない存在になっているんです」と答えたそうだ。
インドで手に入れた蓄音機の大部分は美しいラッパがついていて、材質はアルミ、鉄、銅、木などだ。いずれも広い空間を占めるため、飛行機に乗る時には、本体は荷物として預け、ラッパの部分は機内に持ち込む。その数年の間、インドの国際空港では、たくさんのラッパを抱えた林さんの姿が見られた。
本体は重いので空港で荷物として預けると費用は10万元以上かかる。最初の頃は音響機器と認定されて関税をかけられたこともある。インドの他にイギリスやアメリカ、日本でも蓄音機を手に入れた。

60年代の真空管アンプとプレーヤーは33回転と45回転のレコードしかかけられない。
林本博さんは円盤型蓄音機の他に蓄音シリンダーやレコード、レコード針や修理道具も収集している。数千曲を数えるレコードの中には、かのエジソンが蓄音機を発明した当初に使用したシリンダー型のもの、それにエジソンが競争のために作った厚さ0.7ミリという円盤型レコードもある。録音内容は、日本時代に台湾で創作された歌謡曲、歌仔戯、日本の懐メロ、上海の1930年代の流行歌、アメリカの30年代のポップス、インド歌謡、それに戦後の台湾のレコードなどだ。蓄音機を買った時に一緒にもらったものもあれば、チャリティー展示会などで同好から贈られたものもあるが、大部分は彼が古物商や蚤の市で手に入れたものだ。
レコードには16回転、45回転、78回転、それに最も安定していて音質の良い33回転があり、蓄音機のターンテーブルには3インチ、5インチ、7インチ、10インチ、12インチのものがある。興味深いのは初期の円筒型蓄音機のシリンダーだ。これは複製を作って量産することができず、一度に1つのシリンダーにしか録音できないため、歌手はシリンダーを10個売りたければ10回録音しなければならない。またシリンダー1つ当たり2分ほどしか録音できないため、曲が長ければ幾つにも分ける必要があるし、1つのシリンダーは数回聞けば摩滅して聞こえなくなってしまうというものだ。当然、価格も安くはない。
林本博さんは1938年に日東レコードが出した「四季紅」というレコードを取り出して説明する。「日本時代の78回転のレコードの原料はシェラックという素材です。これは東南アジアのラックカイガラ虫という昆虫が出す分泌物から採れる原料です。これで作ったレコードは磨耗しやすいので、しばしば洗浄しなければなりません」
レコード針も林さんの大切なコレクションだ。針の材質にはダイア、磁器、鋼、竹などがある。竹製のレコード針は第二次世界大戦の末期、物資が欠乏していた時に作られた代用品である。耐用性は低いものの、レコードに傷を付けにくいという長所もある。レコード針は美しい鉄製の箱に収められており、当時レコードを聞く人の大部分がお金持ちだったことがうかがえる。
日本時代の昭和10年(1935年)に発行されたレコードや蓄音機の価格表を見ると、それらが非常に高価なものだったことが分かる。当時の学校教員の月給は約20〜30円、「郡守」のような高給公務員の月給は60〜80円程度だった。これに対してレコードは1枚1円65銭、最高級の電気蓄音機は600円もした。コロムビアが発売した普及型のポータブル蓄音機でも28円もし、教員の1ヶ月の収入に相当したため、これが買える人はごく限られていた。当時は、数人の仲間がお金を出し合って1台購入し、みんなで交替で聞くということもあったという。

1936年、日本コロムビア製のポータブル蓄音機はレコードを5枚収納できて持ち運べ、音質も良い。林本博さんの初めての蓄音機だ。
蓄音機のコレクションを一人でも多くの人と分かち合いたいと考える林本博さんは、長年にわたって、学校や各機関が催す文化展示イベントに積極的に無料でコレクションを提供してきた。2002年10月には開南商工の許書璟校長の支持を得て、学内に「蓄音機芸文展示室」を設置し、林さんは50台余りを教育用の展示品として寄贈した。さらに授業以外の時間を使って「百年の音響、昔の音を鑑賞」「台湾のレコードの黄金時代」といった講座を開いている。これは開南商工の学生だけでなく、中正区のコミュニティカレッジの学生にも人気がある。
「蓄音機を使ってさまざまな時代のレコードを聞くと、懐かしい記憶を呼び覚まされます。そして古き良き時代を思うと、生命力が湧いてくるのです。これこそ、いわゆるレトロブームの真の意義ではないでしょうか」と林さんは言う。
かつて、古 物商から品物を仕入れて露天で売っていたこともあるため、古い機械を解体した経験もあって機械の原理も理解した。そこで林さんは器用な手を活かして廃材から美しい蓄音機を生み出すこともある。例えば、グランドピアノの形を模した蓄音機は、彼がアメリカから持ち帰ったホーンを取り付け、木工、塗装、音響部分の修復などをして独自に創作したものだ。また、捨てられていた銅管のホーンと、大漢渓の川原で拾ってきた棚をたくみに組み合わせて、世界に二つとない独自の蓄音機も作った。
林本博さんの家の寝室には十数台の蓄音機が並んでいる。ラッパの口はすべて林さんの方を向いていて、レコードをかけなくても、まるで美しい調べが流れているように感じられる。林さんは、シェラックのレコード盤を洗っている時に手を滑らせて割ってしまい、悲しくて涙を流したこともあるそうだ。
30数年にわたり200台余りの蓄音機を収集してきた林本博さんのコレクター哲学は、心を持つこと、そして惜しまないことだという。最大の願いは、これらのコレクションをいつか永久に陳列できる文物館に収めることだ。もし国が蓄音機博物館を建ててくれるなら、林本博さんは喜んで全てのコレクションを寄贈し、音の出る骨董品を全国民の共有財産にしたいと考えている。

1920年代にスイスで作られた小型蓄音機。

一枚の古いレコードと蓄音機に時代の物語が刻まれている。写真は1930年代のイギリス製で、木製のホーンと彫刻に特徴がある。

1990年代にインドで作られた復刻版は、装飾品にふさわしい。

今年、台北市役所内の探索館で開かれた「我が台北を歌う」特別展にもさまざまな蓄音機が展示された。

19世紀末のエジソン式円筒型蓄音機、すでに百年以上の歴史を持つ。

1930年代スイス製、美しい造形がコレクターに愛されている。