誰にでも漫画にまつわる思い出があるものだ。1940年代以降、台湾でもそれぞれの時代に漫画家が活躍し、黙々と創作に取り組んできた。
今年、政府文化部による第3回「金漫賞」の授賞式で、二人の受賞者が注目された。一人は漫画業界で50年近く活躍し、生涯成就賞を受賞した東立出版社創設者の范万楠、もう一人は漫画家になって2年、年度大賞を受賞した新鋭漫画家の顆粒(Cory/本名柯瑩玫)だ。
異なる世代を代表する二人は、台湾漫画が数々の課題に直面する中、それぞれの道で漫画に情熱を注いでいる。
藤子不二雄や鳥山明などのサイン色紙が飾られたガラスケースの前で、東立出版社創設者の范万楠はペンを取り、さらさらと男子の肖像画を描いた。40年前に筆を擱き、漫画を描く側から出版する側へ退いたが、その力は少しも衰えていない。

長年の練習と経験を経て、Cory(顆粒)は漫画派と写実派という画風の間にバランスを見出した。流れるような絵コンテを見ると、彼女が台湾では珍しく脚本構成力を持つ漫画家であることがわかる。
范万楠は台南出身、幼い頃から漫画が好きで、17歳の時に日本の漫画を模写する芸昇書店にグラフィック担当で入社した。漫画を模写する仕事だが、数ヶ月すると技術も身に付き、自分で武侠漫画を描きたくなった。
当時大人気だった陳海虹の武侠漫画『小侠龍捲風』に憧れ、范芸南というペンネームで同書を出版している文昌出版社に投稿すると、一回で認められ、台北で漫画を描くことになる。
1963年、二作目の『血魔劫』が出ると、それまで隔週刊と月刊しかなかった漫画業界で初めて単行本として発売され、7~10日間隔で一冊ずつ出版された。文昌出版社は同作品の上装版も出し、業界に新しい
スタイルを打ちだした。
20歳にならないうちに『醜剣客』『美剣客』など多数の武侠漫画を発表したが、21歳で入隊して創作は中断した。その後、兵役を終えて再び漫画を描こうと思ったが、市場は大きく変化していた。
1966年、政府が「編印連環図画輔導弁法」などの法令を定め、漫画は出版前に国立編訳館の審査を受けなければならなくなっていた。そのため、最盛期には年に4000タイトルも出ていた漫画が1970年には200タイトルまで減り、流通ルートも貸本屋と少数の書店に限られ、わずか4年で漫画業界は冷え込んでいたのである。

1990年代以来、東立出版社は台湾漫画の発表の場として『龍少年』と『星少女』を発行している。
台湾の漫画家による創作が激減する中、当時はまだ著作権に関する規定が厳しくなかったため、中には日本の漫画を模写して審査に出す出版社もあり、范万楠の社長もその一人だった。そこで彼も、その方法を真似て自分で漫画出版社を経営することを決意する。
1975年下半期、彼は漫画家5人と編集者2人、資金100万元を集めて台南に「弘光出版社」を設立した。有名な『怪医秦博士』は同社が出版したものだが、経営は順調ではなかった。
当時の弘光のやり方では、まず功学社から日本の原稿を取得してはじめて審査に提出するが、当時、日本と台南の船便は少なく、最新の原稿が届くまで2~3ヶ月もかかった。それから審査を受けると、書店に並ぶ頃には半年も遅れる。最初の半年、弘光はほとんど資本金で食いつないでいた。取次業者からの支払いは3ヶ月に一度なので、会社設立から10ヶ月目にようやく最初の売上が入った。
資金と原稿入手の課題が解決できず、一年余りの後、范万楠は自分の持ち株を他の株主に売ることにした。引き継ぎのために台湾各地の取扱店を訪ね歩き、台北に着た時に、友人の林光華から林森北路に日本の漫画を輸入する店があると聞き、訪ねてみることにした。
店に入ると、溢れんばかりの漫画本の数に驚いた。聞いてみると日本の発売から1週間で届くと言う。これで原稿入手の問題が解決できる、と范万楠は新たな希望を抱いた。

漫画家・蔡鴻忠とライトノベル作家・御我による『1/2王子』。台湾では新しいコラボ形態である。
1977年、范万楠は東立出版社を設立した。前回の経験で市場は理解しているし、今回は審査に出すまでの期間が短縮できると考えていたが、ここでも最初に大きくつまずいた。
会社を設立すると、すぐに日本の漫画版『トム・ソーヤの冒険』や『マッチ売りの少女』などの世界名作シリーズを入手し、これを第一号の看板商品として出版することにした。世界名作シリーズには教育的意義があって漫画に対する偏見を払拭できる上、審査も速く終わると考えたのだ。ところが、審査は順調だったが、市場には全く受け入れられなかった。
集金のために南部の取次店を回っていた時、名作シリーズが箱も開けられないまま積まれているのを目にしたのだ。最終的に、このシリーズは印刷した2000部の半分も売れず、在庫となってしまった。
最初から赤字経営となったが、『好小子(おれは鉄平)』の発売で息を吹き返した。台南の芸昇出版社にいた頃から、ちばてつやの作品に触れていた。そこで『おれは鉄平』を『好小子』というタイトルで発売したところ大ヒットし、20~30万部も売れて東立の基礎を築くことができた。
台湾漫画の

范万楠はかつて『血魔劫』など多数の漫画を発表して台湾初の単行本を出し、台湾の漫画出版形態をも変えてきた。
出版社は日本の漫画をビジネスの中心にしていたが、台湾の漫画家は審査制度の壁と日本漫画の攻勢で減少していた。台湾漫画に関心を寄せていた范万楠は、この業界に入って30年後、再び新たな流れを起こした。
1992年、東立が第1回漫画新人賞を開催したところ、500人余りが応募してきた。台湾の新人だけでなく、香港やシンガポールからの応募もあり、停滞していた台湾漫画に新たな希望をもたらした。後に『火鳳燎原』でヒットした香港の陳某は第8回新人賞受賞者で、この賞は20年後の今も続いている。
范万楠はまた、台湾人漫画家の作品発表の場として雑誌『龍少年』『星少女』を発行した。90年代、台湾漫画は再びピークを迎えた。『YOUNG GUNS』の林政徳や『傾国怨伶』の游素蘭などはこの時期の漫画家だ。

東立出版社創設者の范万楠は漫画の世界に入って50年近い。漫画新人賞を主催して雑誌や単行本を出版し、台湾の漫画人材の育成に力を注いでいる。
台湾の若手漫画家も積極的に活動しているが、范万楠は懸念される課題が三つあると言う。
一つは専門的人材の不足だ。漫画の二大要素は作画技術と原作・脚本の力だが、台湾の漫画家でその両者の能力を備えた人は非常に限られていると范万楠は言う。
台湾には系統だった漫画家養成制度がなく、学校教育体系にも漫画の専科はない。多くは独学で作画技術を模索するため、技術を身につけるのに少なくとも1~2年はかかる。
もし学校で基本的な技術を身につけることができれば、業界に入ってからの「修正期」を短縮でき、物語や脚本の構想に専念できると范万楠は考える。
第二はデジタル革命の衝撃である。范万楠は、インターネットが間接的に海賊版の急速な拡散につながり、漫画の販売量は減少していると指摘する。
また、スマートフォンやタブレットPCの普及、SNSやオンラインゲームなど、娯楽が多様化し、もともと規模の大きくない台湾の漫画市場がますます狭められている。
第三は、漫画に対する一般の偏見である。
范万楠によると、日本の最近の調査では小学生の5割が将来は漫画家になりたいと答えている。それに対して大部分の台湾の親は、子供が漫画を職業とすることに反対し、実際に漫画で生計を立てている若者も少ない。東立の新人賞への応募者も当初の半分まで減り、業界と教育体系が力を合わせて人材を育成する必要があると言う。

新世代のCoryは、自分の漫画で読者を励まし力づけたいと考えている。
台湾ではこれまで范万楠が漫画の荒野を切り開き、後進が灌漑してきた。2009年に正式に業界に入り、わずか3年で台湾、中国大陸、日本で漫画賞を受賞したCory(顆粒)は若い世代の代表だ。
Coryの本名は柯瑩玫、昨年は中国大陸の漫画賞である「金龍賞」を取った。今年初めには、30ヶ国の145点近い作品の中から『許個願吧! 大喜』で日本の国際漫画賞優秀賞を受賞し、台湾人として初めて同賞を受賞した。8月には台湾の文化部による第3回金漫賞の「少女漫画類」で優勝し、「年度漫画大賞」を受賞した。
今の30代にとって、漫画は青春を共に過ごしてきた精神の糧と言える。Coryも小学生の頃、勉強でつまづくと、漫画の世界に慰めを求めていた。13歳の時に日本と台湾で大ヒットした漫画『幽☆遊☆白書』に啓発され、漫画の道を歩むことを決意したと言う。
13歳で漫画家を目指し始めたCoryは、一般の進学コースは選ばなかった。嘉義に住んでいたため、高校はデザイン科のある仁義高校を選び、その後さらに東方工商専科学校のマスコミ学科に進んだ。すべて漫画の基礎を身につけるためだ。

范万楠はかつて『血魔劫』など多数の漫画を発表して台湾初の単行本を出し、台湾の漫画出版形態をも変えてきた。
本格的に漫画を描き始めてまだ間もない彼女だが、さまざまな作品に触れて画風を模索し、異なる描き方を一筆一筆練習してきた。そうした中で、最大の影響を受けたのは『幽☆遊☆白書』の作者・富樫義博と『多重人格探偵サイコ』の田島昭宇だという。この二人からそれぞれ作画技術とストーリー作りを学んだと言う。この「作画技術」と「ストーリー・脚本」こそ、漫画家の技量を決定づける二大要素なのである。
一般に、漫画の物語は主人公を中心に進めがちだが、Coryは富樫義博の作品を読んで脇役の重要性を知った。主人公以外の人物を通して、読者に自分の世界観を伝えられるのである。これは彼女にとって、まったく新しい発見だった。
また、田島昭宇の写実的な画法に強く惹かれ、独自に「漫画派」と「写実派」の融合を試みたという。美形漫画の画風は一種の記号的な表現で、それに比べると、写実派の方が人物の感情を繊細に表現できると言う。

台北国際ブックフェアではアニメ漫画館にファンが殺到し、関連商品が飛ぶように売れる。この市場のパワーが国内の漫画創作にとって大きな刺激になる。
漫画家になると決意してから、Coryの生活は常に漫画とともにあった。漫画家養成講座で漫画家の許培育と知り合い、2003年、21歳の時に上海のアトリエに招かれて、美術監督を任された。わずか2年の期間だったが、Coryはここで急速に成長を遂げ、物語作りの基礎を作った。
Coryの作品を出版している尖端出版社の編集者・江美芸はこう話す。「絵の上手な漫画家は少なくないのですが、ストーリーテリングの能力が不十分です。これは漫画制作において重要な要素で、Coryはその点で非常に優れています」
上海ではCoryが物語の構想を練り、コマ割りや絵コンテを担当した。許培育から200字程度のあらすじを渡され、そこからCoryが媒体や企画に合わせて物語を展開させることもあった。こうしてストーリー作りの力を育てていった。
最終的には台湾で自分の漫画創作に専念することになったが、上海では自分から企画案を提出したり、異業種とのコラボを構想することもあり、時には相手に合わせてフレキシブルに対応することも学んだ。
中国大陸での漫画制作は、ストーリー構想からコマ割り、人事管理から企画提案まで一手に引き受ける形で行なわれるため、さまざまなことを学んだ。また中国では、より市場を考慮して制作されるため、Coryは台湾に戻ってからの漫画創作でも、さまざまな角度から考え、市場における作品の発展の可能性なども考慮できるようになったという。
Coryの作品はまだ2点だけだが、競争の激しい市場で、いずれも1万部を超える実績を上げている。台湾の漫画家の中で突出した存在であるだけでなく、日本の漫画とも肩を並べているのである。

長年の練習と経験を経て、Cory(顆粒)は漫画派と写実派という画風の間にバランスを見出した。流れるような絵コンテを見ると、彼女が台湾では珍しく脚本構成力を持つ漫画家であることがわかる。
微笑むと、その作品の中の美少女のような表情を見せるCoryは、好きなマンガの話になると目を輝かせる。趣味だった漫画を職業として選んだ彼女は、以前は自分が楽しければいいと思って描いていたが、プロの漫画家となったからには、読者に責任を負わなければならないと考えている。
かつて漫画から力をもらった彼女は、自分の作品も読者を励ます力を持つものであってほしいと願っている。

東立出版社創設者の范万楠は漫画の世界に入って50年近い。漫画新人賞を主催して雑誌や単行本を出版し、台湾の漫画人材の育成に力を注いでいる。