冬の日が暖かく緑の草地を照らし、頭を下げて草を食べる羊の群れを見ると、ヨーロッパのどこかにいるようである。しかし、羊の群れは動くこともなければ、メエメエと仲間を呼ぶこともない。よく見ると、本物と見紛う羊の群れは、フランスのシュールレアリストのラランヌの作品なのである。
広い草原の向うに、緑の木々に照り映える建物がある。すっきりと伸びた斜めの屋根、白壁に青い屋根瓦が照り映え、簡素ながら高雅な寄暢園である。正門の右側、葉を落とした木の枝に、遠くを見つめる銅の猿が坐っており、ふと気づいた人の笑みを誘う。こんな所からも主人の遊び心が感じ取れる。
寄暢園、桃園県大渓鎮に位置し、東は静かな翠湖に接し、南は鴻禧大渓別館に隣する。遠くゴルフ場を眺め、高貴で神秘的な鴻禧山荘内にあるものの、誰でも入れる骨董文物及び西洋美術の個人博物館である。主人の張允中は、日本に40年余り暮らし、若い頃から骨董文物のコレクションを始め、美術品を扱って半世紀を数える。日本と台湾の文物の世界で高い評価を受けながら、11年前に台湾に戻り、奇暢園の物語がここから始まった。
70年に及ぶコレクターとしての歳月を振返り、張允中は芸術の香りあふれる少年時代を物語る。
張允中、1928年に台中県大雅郷に生まれた。張氏は豪農で知られた名家である。裕福な家で、祖父の張書炳は清朝の秀才(科挙の前段階合格者)であった。父や伯父の世代、そして従兄弟たちも骨董を愛し、豊原郷社口の外祖父は著名なコレクターであった。その当時、遠く日本や中国大陸、イギリスやアメリカから台湾に来た文人墨客が集まり、歓待されたという。

寄暢園の庭園に散らばる本物そっくりの羊はフランスのラランヌの作品だ。ヨーロッパ庭園のような巧妙な配置に、オーナーの遊び心が見て取れる。
家に飾られるのは大家の書画、骨董の逸品が並ぶ中、集まる人の話も書画骨董を離れない。そんな雰囲気の中で、張允中も小さい頃から独特の鑑賞能力を養ってきた。8歳で父が亡くなり、一族で家産を分けたが、幼すぎたために相続した家業は母が管理した。その頃、骨董業者が張家をしばしば訪れたが、幼い彼は年長者の意見を聞きながら、骨董集めを始めた。
台中小学校卒業後、小作料を受け取ればよかった地主の家も、国民党政府が台湾で推し進めた農地改革政策のために、次第に土地を政府に没収されることとなり、張允中も生計の問題を考えるようになった。その頃台湾大学で教えていた従兄弟の一人が貿易商の友人を紹介し、商売を勧めたので、台中で自転車の代理店をやることにした。その時、彼はまだ24歳である。
年を重ねるにつれ、若い頃にコレクションした骨董の中で、気に入らないものを売るようになり、そこから骨董売買への道が開けた。「自分の趣味に合わないものは、損をしても手放したい、これは授業料だと思いました」と話す。
1950年代、台湾は戦火の中から復興し、対外貿易が始まったが、その頃外国でビジネスをというと、まず日本とアメリカであった。中でも日本は言葉が通じ、近くでもあるので多くの台湾人が日本に業務開拓に出かけた。1954年、張允中は日本にエレベーターの代理業務に出かけ、その間にまた文物コレクションに磨きを掛けた。
日本で台湾出身の妻とめぐり合ったが、その叔父が日本華僑連合総会の会長であった。
1966年、中国大陸で10年に及ぶ文化大革命が始まり、豪農や郷紳の家の家宝の書画骨董が造反と革命で市井に出回り、安値で日本に買い叩かれていった。張允中はこれをチャンスと、異国に流れた貴重な文物を買い集めたのである。
その頃、張允中が扱った文物はその数が知れず、多い時には16万点のコレクションがあった。その大量の文物を扱うために、西麻布に有駕堂を開き、骨董商売を始めたのである。
張允中が鑑賞家となる過程においても、実は紆余曲折があった。小さい頃から骨董の逸品や、大家の書画に囲まれて育ち、時には臨書をしたり花鳥画を嗜んでいたのだが、30歳になったときに、先生について絵を学びたいと思い立った。昔ながらの文人の筆墨に憧れたのである。しかし、著名なコレクターの林熊光(板橋の林家の子孫)はそれを知り、芸術は自分でやるか、鑑賞するかのどちらか一つ、両方を掛け持つことはできないと諭した。

寄暢園では食事も提供している。台南関廟の新鮮なタケノコ料理や地鶏スープを使った粥などが味わえ、目と舌を同時に満足させられる。
林熊光の意見は「文人が先生について絵を習うのは昔からあるが、絵には天分が必要である。絵がうまくないと、他人の作品を見ても自分よりうまいと思い、その価値を買いかぶってしまい、仕入れても売れないものである。しかし、どんな大家の作品でも欠点はあるもので、一流の鑑賞家であればその欠点を見つけて価格を決められるので、安値で買い取って利益を出せるものである」と言うものであった。張允中はこの意見を聞き、画家になる夢を捨てたのである。
張允中の話によると、林熊光は書画を買ってきては試験をしたという。作品に対する感じ方は合っているのか、正しいのはどこで間違っているのはどこかと。林氏の下で書画鑑賞の貴重な知識を学べたことは、今も感謝してやまない。
その哲学というのは、一流の鑑賞家になるには多くを見、多くを読み、多くを買い、多くを売り、多く損しなければならないというものである。
「多く見、多く読み、書に親しみ書画の基本知識を蓄え、多く買い、多く売れば文物鑑賞の機会と経験を積めます。何回か損をすれば、なぜ損したのか、どこが足りないのか身に沁みて考えるので、ようやく一流になれるのです」と張允中は話す。
絹本の書画を例にとると、元朝では織機がなく、手で紡いだ糸は太さが一定せず、絹の表面も滑らかではなかった。清朝になると織機で織られた絹は滑らかで、質感はより自然となる。時代毎の工芸技術の違いは鑑賞家が心得ているべき常識なのである。

張允中氏が専門とするのは東方芸術だ。写真は館内の仏像である。
文物を扱っているからか、張允中には売買二文字にも独特の説文解字、解釈を披露する。売買二文字の下はどちらも貝(売の正字は賣で貝がついている)で、貨幣を意味する。古人が文字を作った中には、商売の手腕が隠されていた。華人の商売はまず買ってから売るが、買の上には四が乗っかっている。これは市場価格の4割安で仕入れることを意味する。賣の時の上の部分は十と一と四に分解できる。十とは儲けを意味し、一と四はその割合、つまり売るときは1割から4割儲かればいいという意味である。
日本人はまず買い手を見つけてから商品を探すので、売るのが先、買うのは後、そこで買い手の言い値の影響を受け、儲かるはずの商売が損切りをしなければならなくなる。華人は買ってから機を見て売るビジネスで、市場の波の影響を受けずに済むが、商品を寝かせるために資金が塩漬けになる。幸い、張氏一族の財力があって、張允中は資金に困ることはなかった。
数え切れないほどの所蔵品を収めた奇暢園の倉だが、日本のコレクターから買った書画は長方形の箱に納められているのに対し、中国からの書画は巻いて積んである。
張允中の説明によると、これは政治の動乱のせいである。中国は戦乱の時代が続き、避難する時に貴重な書画を持って逃げなければならない。日本のコレクターのように箱に入れると場所をとり、持てる数も限られる。中国人は表装した書画の裏に蝋を塗り、平らに伸ばしておく。蝋を塗っておけば、書画を巻いた時に画面が汚れないし、紙質がしなやかに丈夫になるので、折ってもひびが入りにくい。そこで何十枚もの書画を一まとめにくくって、持って逃げられるというのである。

寄暢園では食事も提供している。台南関廟の新鮮なタケノコ料理や地鶏スープを使った粥などが味わえ、目と舌を同時に満足させられる。
日本で有駕堂を経営し、取り扱った中国伝統の書画は数多く、張允中は歴代の書画の大家に詳しくはなったものの、台湾の文献は何も知らなかった。
1971年、南投県の議員蕭再火氏が張允中の叔父の紹介で、東京まで書画を買いに来た。遠くから来た郷里の友ということで、張允中は最良の書画を並べて見せた。「最良というのは有名な作者で、保存がいいということです。余り知られていなくて、虫食いや汚れがあるものは倉庫に入れて機会を待ちました」ということである。
その時、蕭再火氏は連横の著作『台湾通史』を片手に、書画を眺めてどれも気に入らないようであった。そして倉庫の絵を見たいというので、張允中はお蔵入りの絵が売れる時がきたと喜んだ。
蕭再火氏は倉庫の中から、本に挙げられた画家の作品を発見し喜び驚いた。その後2週間、毎日倉庫に入浸りである。不思議に思った張允中は『台湾通史』を借りて読んだが、書中に記載されているのは知らない画家ばかりであった。
蕭再火氏は台湾に戻って1年後に画集を送って寄越した。この画集に納められた書画の大部分は有駕堂で購入したもので、特に張允中に触れて、台湾の書画をコレクションしていたことへの謝意を表明していた。そのとき初めて、台湾の画家の作品に注意を向けるようになったのだという。

寄暢園では食事も提供している。台南関廟の新鮮なタケノコ料理や地鶏スープを使った粥などが味わえ、目と舌を同時に満足させられる。
30数年にわたる多彩なコレクションの結果、張允中には台湾の書画が集まり始めた。その数500点余り、時代は遠く乾隆年間に遡り、謝琯樵の竹の画冊、林朝英の草書、何丹山の花鳥画巻物、蔡九五の鯉魚中堂など、どれも博物館クラスの貴重な文物である。しかも、これらの書画の長所は保存がよいことである。日本のコレクターの手にあって保存されたためで、暑苦しく湿度の高い台湾では、このように保存はできなかったであろう。
「台湾は狭い領土に戦乱や天災が続き、文献の多くは破損を免れません。保存がよくとも家宝は売りに出さないので、そう市場には出ないので、コレクションは大変でした」と張允中は言う。先祖が海を渡って台湾にたどり着き、土地を借りて田畑を耕し、地主の家に地代を納めに行って、そこに飾られた書画を眺める。出世したら、自分も書画を飾ろうと思う。さて、裕福になって書画を買ってみても、飾るところは家の居間、ハエやゴキブリが這い回り、湿度の高い気候に書画は曲がり変形する。こうして台湾の昔の書画は保存が悪く、破損が早いのでコレクションが難しかった。
台湾のコレクターの多くは、台湾の初期の書画に興味を持っているが、張允中は台湾美術の発展や台湾と中国文化の関係を物語る貴重な資料と考えている。それがあちこちに分散すると、研究への障害になるのではと心配した。
理想を持った文化的な実業家として、張允中は台湾の文献保存を決意した。文化建設委員会の参事王寿来氏の推薦もあって、これらの貴重な台湾の文献が今年6月から1ヶ月間、台北歴史博物館に展示される予定である。

高貴で神秘的な大渓鴻禧山荘内にある寄暢園だが、誰でも入れる芸術交流の場として開放されている。
1972年、日台は断交し、日本政府は中華人民共和国を承認した。その時、中華民国のパスポートを持っていた人は、日本の国籍を取得するか、無国籍となるか、それとも中華人民共和国の国籍となるかの選択を迫られたのである。
張允中は感慨を込めて「台湾人に中華人民共和国の国籍を取れというのは不可能でしたが、ビジネスマンとして無国籍では顧客や銀行に疑われます。やむなく日本国籍を選択しました」と語る。日本国籍を取得して、勝山史郎と名を改めた。
古人の書画を取り扱うには縁と見る目が必要である。現代の若い画家に対しても、張允中は独特の目を持ち、投資し発掘していった。
日本に多年暮らし、日本の美術界とも数多く接してきたが、その中で東京大学を卒業した青年画家千住博を高く評価し、その作品をコレクションしている。千住博の作品は、伝統的な日本画の静謐で柔らかい美を湛えながら、西洋絵画の技巧を兼ね備え、最近では日本の画壇に認められつつあり、張允中の見識の高さを証明した。
わが国の若い画家の中でも、天分と努力を認めた者を張允中は日本に招いた。昼間は美術館に連れ歩き、夜になると芸術家としての礼儀、態度、起居動作を指導し、また日本の文化芸術関係者に紹介した。鑑賞家としての鋭敏な観察力で、こういった書家や画家の創作における壁や盲点を指摘することもある。
こういった指導を惜しまないのも、自分が見つけた画家が有名になれば、投資収益率が上がるからだと張允中は言う。しかし、その独自の目で発掘し、育てた中には、国際的に名を成した台湾の画家が少なくないのも事実である。
最近十数年来、日本ではバブル経済がはじけて、多くの個人美術館は経営困難に陥り、近代美術の逸品が売りに出され、オークションに掛けられるようになった。西洋美術は自分の専門領域ではないものの、相当の数の日本や西洋の作品を買い集めることになった。その中にはエミール・ガレのガラス作品が数百点、日本の鎖国政策と封建制度の下で生まれた浮世絵が千点近く、日本的な生活と風俗文化を示す肉筆浮世絵などは日本文化を探る貴重な資料である。さらには19世紀ヨーロッパの油絵、骨董品、彫刻、家具など、どれをとっても逸品揃いで、巧みに配置された展示室は、あたかもヨーロッパ貴族のサロンを思わせる。

張允中氏は博物館レベルの貴重な台湾の文献と書画を500点余りも収蔵しており、その年代は清の乾隆年間まで遡る。写真は蔡九五の「鯉魚中堂」だ。(張允中提供)
長い間国を離れていたが、1994年に甥で鴻禧グループの張秀政会長の勧めで、台湾に分館「奇暢園」を開設することにした。その後、鴻禧グループは有為転変を辿るが、奇暢園の名声は高まるばかりである。
半世紀にわたる文物取扱いを通じて、張允中は政財界に人脈を築き上げ、一流の文物鑑賞家の権威も確立した。しかし、上品な立ち居振る舞いに加え、謙虚な態度は変わらない。傍らに静かに微笑む夫人は、日本での留学中に先妻を亡くした張允中とお見合いで知り合ったことを語り出す。当時、夫人はお見合いの席で恥ずかしいばかりであったが、張允中は一目見てこの人だと思ったそうである。
「骨董や文物を買うのと同じで、一目見れば良し悪しが分かるもので、すぐに決めました」と、張允中は言う。優れた美術品は、それ自身が語りかける。造形、ライン、色彩などが全体的な質感を表現しているもので、人も同じことである。立ち居振る舞い、服装、態度や身のこなしまで、表に現れてくる。
張允中のユーモアにあふれる話術に、訪問者が思わず笑い出している時、貞淑ながら創意工夫を欠かさない夫人が、園内のレストランの看板メニューを用意してくれた。早朝に台南県関廟で掘った新鮮なタケノコが、露を含んだまま宅配されてくる。日本の有名なシェフの提案により、心を込めて調理された創作料理タケノコステーキ、大渓特産の地鶏に金華ハムや干し貝柱、アワビを合わせてじっくり煮込んだアワビのお粥、新鮮なエビをメインに揚げたエビ団子、自家菜園で採れたての新鮮な有機野菜、目も楽しませてくれる饗宴の後、窓の外を眺めやると、頭を下げて声のない羊の群れが目に入ってくる。手の込んだご馳走を楽しみながら、情けを寄せ、心を暢べて芸術空間に遊ぶゆったりとした時間を楽しんだのであった。

近年は西洋の美術品も多数購入しており、エミール・ガレのガラス作品のコレクションもある。
開館時間:10時から18時
入館料:1人100台湾ドル
20人以上の団体は半額
電話番号:03-387-5866
レストランは要予約

張允中氏が専門とするのは東方芸術だ。写真は館内の仏像である。

近年は西洋の美術品も多数購入しており、エミール・ガレのガラス作品のコレクションもある。

高貴で神秘的な大渓鴻禧山荘内にある寄暢園だが、誰でも入れる芸術交流の場として開放されている。

寄暢園の庭園に散らばる本物そっくりの羊はフランスのラランヌの作品だ。ヨーロッパ庭園のような巧妙な配置に、オーナーの遊び心が見て取れる。

高貴で神秘的な大渓鴻禧山荘内にある寄暢園だが、誰でも入れる芸術交流の場として開放されている。

寄暢園では食事も提供している。台南関廟の新鮮なタケノコ料理や地鶏スープを使った粥などが味わえ、目と舌を同時に満足させられる。

倉庫に眠る無数のコレクション。日本のコレクターのものは全て細長い箱に入れられているが(左)、中国の書画は巻いて積んである(右)。張允中氏は、このような保存方法は中国歴代の動乱と関わっていると考えている。

張允中氏は半世紀にわたる芸術品売買を通じて一流鑑定家としての権威を確立し、1994年に妻の郭玉雨さんとともに帰国して「寄暢園」を開いた。

倉庫に眠る無数のコレクション。日本のコレクターのものは全て細長い箱に入れられているが(左)、中国の書画は巻いて積んである(右)。張允中氏は、このような保存方法は中国歴代の動乱と関わっていると考えている。

寄暢園では食事も提供している。台南関廟の新鮮なタケノコ料理や地鶏スープを使った粥などが味わえ、目と舌を同時に満足させられる。