小さなコレクター
家に飾られるのは大家の書画、骨董の逸品が並ぶ中、集まる人の話も書画骨董を離れない。そんな雰囲気の中で、張允中も小さい頃から独特の鑑賞能力を養ってきた。8歳で父が亡くなり、一族で家産を分けたが、幼すぎたために相続した家業は母が管理した。その頃、骨董業者が張家をしばしば訪れたが、幼い彼は年長者の意見を聞きながら、骨董集めを始めた。
台中小学校卒業後、小作料を受け取ればよかった地主の家も、国民党政府が台湾で推し進めた農地改革政策のために、次第に土地を政府に没収されることとなり、張允中も生計の問題を考えるようになった。その頃台湾大学で教えていた従兄弟の一人が貿易商の友人を紹介し、商売を勧めたので、台中で自転車の代理店をやることにした。その時、彼はまだ24歳である。
年を重ねるにつれ、若い頃にコレクションした骨董の中で、気に入らないものを売るようになり、そこから骨董売買への道が開けた。「自分の趣味に合わないものは、損をしても手放したい、これは授業料だと思いました」と話す。
1950年代、台湾は戦火の中から復興し、対外貿易が始まったが、その頃外国でビジネスをというと、まず日本とアメリカであった。中でも日本は言葉が通じ、近くでもあるので多くの台湾人が日本に業務開拓に出かけた。1954年、張允中は日本にエレベーターの代理業務に出かけ、その間にまた文物コレクションに磨きを掛けた。
日本で台湾出身の妻とめぐり合ったが、その叔父が日本華僑連合総会の会長であった。
1966年、中国大陸で10年に及ぶ文化大革命が始まり、豪農や郷紳の家の家宝の書画骨董が造反と革命で市井に出回り、安値で日本に買い叩かれていった。張允中はこれをチャンスと、異国に流れた貴重な文物を買い集めたのである。
その頃、張允中が扱った文物はその数が知れず、多い時には16万点のコレクションがあった。その大量の文物を扱うために、西麻布に有駕堂を開き、骨董商売を始めたのである。
張允中が鑑賞家となる過程においても、実は紆余曲折があった。小さい頃から骨董の逸品や、大家の書画に囲まれて育ち、時には臨書をしたり花鳥画を嗜んでいたのだが、30歳になったときに、先生について絵を学びたいと思い立った。昔ながらの文人の筆墨に憧れたのである。しかし、著名なコレクターの林熊光(板橋の林家の子孫)はそれを知り、芸術は自分でやるか、鑑賞するかのどちらか一つ、両方を掛け持つことはできないと諭した。

寄暢園では食事も提供している。台南関廟の新鮮なタケノコ料理や地鶏スープを使った粥などが味わえ、目と舌を同時に満足させられる。