李登輝総統の時代に休日でなくなってから、かつては全国でも重要な祝日だった「台湾光復節」は、今では人々の記憶から薄れてきているかのようである。かつては激昂鼓舞された「抗戦勝利」も、日本の悔恨を意味する「終戦」の一語に取って代わられている。
この歴史の意義を問い直そうと、台湾省政府と台北市政府は「抗戦勝利と台湾光復65周年記念特別展」を開催し、1945年に日本総督安藤利吉が降伏文書を提出した台北公会所(現在の中山堂)に200枚近い写真を展示し、国府軍の抗日の事跡を顕彰し、さらに「台湾革命同盟会」や「台湾義勇隊」など、あまり知られることのない台湾志士の抗日の史実を展示し、日本時代の台湾と中華民国との関係に別の視点から光を当てようとしている。
「革命建国、抗日戦争と台湾光復の三つの歴史は絡み合い、切り離せません」と、今回の展示を企画した国民党党史館の邵銘煌主任は話す。

1915年に台南一帯で発生した口焦吧哖事件(または西来庵事件)は、台湾の漢民族にとって最も凄惨な最後の武装抗日事件だった。写真は、頭に竹籠を被せられた起義者たちが裁判所へ連れて行かれるところ。
1894年、孫文と陸皓東は天津に到着し、直隷総督兼北洋通商大臣李鴻章に上書し、救国の策を力説した。しかしほどなく、日清戦争が勃発し北洋艦隊は全滅、清朝は1895年に下関条約を締結し、遼東半島と台湾、澎湖を割譲してしまった。清朝の国辱的な政策への義憤に駆られ、孫文の革命行動は激化していった。
興中会設立後3年の1897年に、陳少白の奔走により台北興中会が設立された。1900年、孫文は台北新起町(現在の長沙街近辺)に指揮所を設置し、恵州起義を画策したが、その背後には日本総督府の黙認があった。しかし、台湾人の追随者は日増しに増加し、中でも羅福星など黄花崗起義の参加者を出すようになった。1910年代になると、翁俊明、蒋渭水、杜聡明、蘇樵山、廖進平、連横、頼和などの台湾人知識分子が同盟会に加入した。
今回の展示の中には、1913年の夏休みに台湾総督府医学校(現在の台湾大学医学部)の同窓生の写真があるが、これは記念撮影ではなく、風蕭蕭たりの悲壮な意味を込めた壮行写真である。ここに写された僅か20歳の翁俊明と杜聡明は、袁世凱の謀略による政権奪取、宋教仁の暗殺と孫文弾圧に悲憤し、遺書を認め、自分が培養したコレラ菌を隠し持って、袁世凱毒殺のため北京に赴くところである。世間知らずの若者の行動は、警備厳重な大総統府に志を果せなかったが、台湾人志士の孫文への敬慕の思いが伺える。

多くの人は日本のために南洋に出征した「台湾籍日本兵」を知っているが、これら「台湾義勇隊」に属する「台湾少年団」は李友邦将軍が組織した抗日少年兵団である。人数は約117人、年齢は8〜16歳で、主に宣伝と連絡の任務に就いた。
これらの若者の中で、台湾の孫文と呼ばれた蒋渭水が台湾に大きな影響を与え、民主主義の闘士と尊敬されている。
蒋渭水は台湾の武装抗日が多くの犠牲を出し、しかも祖国は権力闘争で台湾を顧みることがない中、林献堂と共に梁啓超の提案を受けて、体制内の非武装抗争に切り替えた。台湾文化協会を設立し民族精神を提唱し、植民地政府に議会設置を訴え、1927年に台湾民衆党を結成したが、3年後には命令により解散させられた。
もう一人の翁俊明は、1915年の武装抗日「西来庵事件」後に中国に戻り、厦門で医者を開業しながら、孫文の革命と北伐を支援した。1937年の盧溝橋事件の後、翁俊明は日本国籍からの離脱を宣言したが、日本軍の中国侵攻は勢いを増し、日本軍占領下の漳;州で毒殺された。死の直前まで、国民党台湾省支部の設立に力を尽くしていた。
1925年、孫文が南京で病死すると、中国には哀悼の声が満ち、日本統治下の台湾でも親の死に遭ったようで、五四運動の影響を深く受けた台湾の作家張我軍は「四万万の国民があなたの死に泣き悲しみ、消息が伝わると、島内は嘆きに崩折れ、魂を失った。西に中原を望み、涙落つるに堪えず」と、弔辞を綴った。

1945年、英米の代表による立会いの下、台北公会所(今の中山堂)で「中国戦区台湾省受降式」が執り行われた。日本総督の安藤利吉が降伏文書を提出し、台湾省行政長官の陳儀がこれを受けた。
台湾人志士は中華民国に思いを寄せ、孫文の革命事業に深く関わってきたが、1937年に日中戦争が全面的に展開すると、台湾の人々はさらに祖国復帰のため、抗日運動に次々と身を投じていった。
「台湾人は日本が負けなければ中国に復帰できないことを認識していました」と、邵主任は言う。台湾人志士は様々なルートを通じて中国各地に潜伏し、各業種に紛れ組織化を進め、1941年初め台湾人の抗日団結を象徴する台湾革命同盟会が重慶で設立され、「中国国民党の指導で、台湾の革命の力を集中し、日本帝国主義を打ち倒し台湾を光復し、祖国と協力して三民主義中国を建設する」と謳った。14歳で台湾文化協会に加入し、後に黄埔軍人学校に身を投じた李友邦将軍は、台湾の若者300人余りの台湾義勇隊を組織し、福建から浙江沿海でゲリラ戦を戦った。
台湾人志士の抗日運動には多くの感動的エピソードが残されているが、中でも悲壮なのが霧峰の林家の物語である。
福建省漳;州出身の霧峰林家は、台湾第一の名族として知られていた。清朝には反清朝の林爽文を出し、台湾巡撫劉銘伝を助けてフランス軍を撃退した林朝棟も一族の一人である。日本時代になると、林朝棟の息子林祖密は家産を売って、羅福星(苗栗事件)、余清芳(口焦吧;哖;事件)などの武装抗日運動を支援した。一方では、民主主義の闘士林献堂が非武装抗日路線を採っていたが、「国があって台湾があり、台湾を愛するより先に国を愛す」が林家の家訓であった。
林祖密は抗日運動に家産を蕩尽し、孫文の左右にあって閩;南軍司令に任じられたが、北伐期に軍閥の銃撃にあって、壮烈な最期を遂げた。
林祖密の息子林正亨は父の志を継ぎ、南京中央陸軍学校に進み、抗戦に身を捧げ、重傷を負って左手が利かなくなっても、妻に「神聖な戦争で責任を果している。台湾の回復が父の遺志だったが、達成できたと言えよう。父が知ったなら、あの世で破顔大笑することだろう」と書いた。

台湾人志士は植民地政府の監視と圧力にさらされても、「祖国」の歴史に加わることをあきらめなかった。蒋渭水(上)と廖進平(左)は孫文を信奉し、霧峰林家の林正亨(右)は自ら抗日戦争に加わった。しかし、台湾の祖国復帰当初は政局が安定せず、政策の失敗もあり、この世代の台湾人エリートは難に遭い、今もその傷は癒えていない。
歴史の思いがけぬ展開は、人に嘆きを加える。抗戦に勝利したものの、林正亨は多くの人々と同じく、当時の国民党の腐敗に不満を抱き、次第に共産党に期待を寄せるようになる。白い祖国と赤い祖国の争いは、中国数億の人民と海外数千万人の華僑の運命を狂わせ、台湾人志士のその後にも暗い影を投げかけた。
1946年、林正亨は20数人の台湾人青年と台湾で革命を進めた。翌年の二二八事件には台中の二七部隊に参加し、国民党政府との武装闘争に投じ、その時は逮捕を逃れたが、1949年の白色テロで逮捕された。台湾の名士たちが連名で蒋介石に助命を嘆願したが、林正亨は悔い改め状への署名を拒み、台北馬場町の刑場で銃殺された。享年34歳であった。
林正亨の運命は例外ではなかった。台湾の同胞が歓喜に奮えた光復の後、ほどなくして自分たちが迎え入れたのが祖国で民心を失った政権であることを知ったときの失望は、想像に余りがある。
光復後第3年に起きた二二八事件で、政治に活躍した若い台湾人青年が難に遭い、光復の時に中山堂で祖国復帰への想いを祝賀演説にこめた台湾大学文学院の林茂生でさえ、連行されて永久に行方を絶ってしまった。蒋渭水の娘蒋碧玉と娘婿鍾浩東(作家鍾理和の弟)も犠牲となった。台湾人志士が孫文の革命建国に身を捧げ、台湾の復帰を果しながら、その後の歴史は皮肉にも悲劇と転じ、国民党は台湾人志士の期待の的から「外来政権」になってしまった。

台湾人志士は植民地政府の監視と圧力にさらされても、「祖国」の歴史に加わることをあきらめなかった。蒋渭水(上)と廖進平(左)は孫文を信奉し、霧峰林家の林正亨(右)は自ら抗日戦争に加わった。しかし、台湾の祖国復帰当初は政局が安定せず、政策の失敗もあり、この世代の台湾人エリートは難に遭い、今もその傷は癒えていない。
二二八事件58周年の2005年になって、犠牲となった廖進平の息子廖徳雄は、毎年哀悼に訪れる当時の台北市長馬英九に一本のウィスキーを贈った。このウィスキーは、1913年に孫文が日本に難を避けた時に台湾に立ち寄り、同盟会と秘密会合を開いたときに、廖進平に贈ったものである。二二八事件が起こり、廖進平は殺害される前に金庫の鍵を人に託して家族に預け、金庫の中のウィスキーを大切に守るように言い残したのであった。
58年後に廖進平の息子は、このウィスキーを半年後に中国国民党主席となる馬英九に贈った。その意味するところは許しであり、被害者家族が再び国民党を受け入れたと言うことである。今年は抗戦勝利と台湾光復65周年で、国民党が政権を奪還してから最初の記念の年である。これらの白黒写真は歴史の現場に私たちを引き戻し、そこに込められた意味をもう一度咀嚼する機会となることだろう。

翁俊明(前列左から2人目)と杜聡明(左から3人目)は孫文弾圧に悲憤し、自らコレラ菌を培養して北京に向い、袁世凱を「毒殺」しようとした。写真はその出発前に台湾総督府医学校の同窓生たちと撮った壮行の写真。後列一番右は蒋渭水。