緑の絨緞のような芝生に寝転び、悠々とした白雲の下で巨大な「太極」シリーズの人物像の彫刻を眺めよう。広々とした屋外にあって、それは雄大な勢いを感じさせる。
この公園のような「朱銘美術館」の中では、芸術と大自然とが一つになっている。これこそ芸術家朱銘一生の美学と創作の総決算である。
気軽な服装を身にまとい、爽やかに晴れた日を選んで、朱銘美術館に足を運ぼう。青い空、白い雲、見はるかす緑の山の中で、芝生に寝転びながら、彫刻家朱銘の千点に及ぶ作品を眺めるのは、室内の美術館で見るように畏まって、作品を仰ぎ見る雰囲気とはまるで違っている。
美術館の設立者朱銘氏は、芸術を楽しむもよし、余暇に体を動かすのでもいい、とにかく美術館に足を踏み入れて心と体に栄養を補給できればいいのだと言う。芝生に寝転んで眺めるのもいいし、彫刻に手を触れてみてもかまわない。怪我さえしなければ、よじ登ってみても文句を言われない。「彫刻は壊れるものではなく、撫でれば撫でるほど味が出ますからね」と、朱銘氏は言う。
周囲を多くの作品で囲まれながら、彫りの跡を一つ一つ手でなぞっていくと、芸術と人との距離をぐっと縮めてくれる。そのためか、去年9月19日の開館以来、東北の季節風が吹き荒れる厳冬の季節を除き、毎月平均して1万5000人ほどがこの朱銘美術館を訪れている。
台北県金山郷にある朱銘美術館は敷地11ヘクタールを占める、台湾最大の野外の彫刻美術館である。海に向う斜面に沿い、高低に伴ってサービスセンター、展示室、会議場、関心亭、芸術パフォーマンス区、朱雋館、親水区、太極広場、慈母碑、白鳥湖、本館、人間広場、朱銘アトリエ、芸術ギャラリーなど、14のセクションが点在する。
美術館の用地を長年捜し求めてきた朱銘氏がここに決めたのには、四つの理由があるという。まず、首都台北から日帰りできる距離で、外国人の来館にも便利であること、そして東北角の美しい海岸線に沿い、観光客が足を伸ばせる位置にあることである。美術館から金山、淡水、陽明山、さらに野柳や基隆、宜蘭などと、観光ラインが一線に結べる。残る二つは景観である。「彫刻公園は公園なのですから、山あり河ありでなければ。特に水のある環境は生気をもたらします」と言う通り、この草ぼうぼうであった斜面は、遠く海を見渡せる上に、近辺には清流が四本も流れており、そういった美しい環境のすべてが朱銘氏を引きつけたのである。
サービスセンターから美術館に入る。そこはトンネルのような展示室で、両側には内外の彫刻の名作が並ぶ。外に出ると視界が急に開け、黄色い衣服の6体の彫像が迎える。脹らんだ落下傘にぶら去った彫像は空から降りてきたばかり、驚きと動きに満ちた始まりである。
周囲の芝生では、バイクのライダーが前輪を高く浮かせている。ハードルを越えようとする人、魚のように背を反らせる走り高跳びの選手、手足を伸ばし、フラフープの演技をしているものもある。等身大で、海綿を成形し銅で彩色した「人間シリーズ−スポーツマン」の作品は、華やかにオリンピックの雰囲気を漂わせる。
人間シリーズは、朱銘氏晩年の作品群である。木材、石材、海綿、粘土、ステンレスなどの材質を用い、多彩な人間像を描き出す。美術館の中でも最も数多く、あちこちに展示されている作品である。
あちらには木の下で談笑する二人の老婦人が見える。こちらの岩の上では、一組の恋人が手を取り合い愛をささやくし、子供がおばあさんの膝で遊び転げる。裸婦の一群が伸びやかに手足を伸ばし、輪を作る。願いの池のそばに立つのはギリシャ・ローマ彫刻ではなく、無名のどこにでもいる普通の人なのである。
親水区の歩道には、ベンチ毎にステンレスの作品が座っていて、見学者を引きつける。共に座って足を伸ばし、芸術と向き合えるだろう。「私の作品は、美術館を訪れた見学者でもあり、生きた来館者も私の動く彫刻の一部です」と朱銘氏は言う。私たち来館者も、彫刻家の手にかかると公園の風景の一部になるのだという。こういった設計により、人間シリーズの意味はより広く深まる。
本館近くの「人間広場」には、スーツにコート、帽子に雨傘の紳士の一群が、互いに関係の無いように立っている。あちこちから集ったビジネス客のようで、雨の日にここで短い接点を持ったと見える。傘をさして紳士たちの間に立つと、人まで芝生の上の無言の彫刻となる。「私の作品には台座がありません。これらの作品は神像のように高く祭られるべきではないからです」と朱銘氏は言う。
人間広場の行き止りが、美術館で一番眺望のいい場所である。海に向って立つ彫刻は、椅子に座って遥かな基隆や金山湾や、湾のあたりに点在する漁村を悠然と見下ろしている。
あちらこちらに点在する人間シリーズの作品に対し、公園の中心に位置する円形の芝生には「太極」シリーズの作品群が置かれ、雄大な構成を見せている。顔を持たず、個々の容貌を消された三メートルを超える緑青色の銅の人物像は、足を伸ばし、手を振上げ、様々な太極拳の型を演じて見せる。型と型のとの間の受けの動きから、太極拳が体現する静中動あり、動から静が生れると言う哲学を表現しているのであろう。手の型には、体と気の動きから導き出された内からあふれる力が満ち溢れている。
太極と人間とは、朱銘氏の二大創作テーマである。朱銘氏のマネージャーで美術評論家でもある張頌仁氏は「太極は宗教芸術に近い超人的力を秘め、人間シリーズはこの世にどっぷりと生きる世間の人々なのです」と話す。太極シリーズの製作には力強い気迫が必要で、人間シリーズでは繊細なタッチと成熟した技巧が求められる。この二組の作品が、朱銘氏の芸術世界を構成するのである。
太極シリーズの創作は、痩せた朱銘氏の体を気遣った恩師楊英風に太極拳の練習を勧められたことに始る。それから30年余り、いまでは毎日太極拳を練習しており、練習の継続から頭の中は太極拳で一杯になった。「私の創作は生活に結びついており、事前に考えたり計画したものではないのです」と朱銘氏は語る。
この太極広場は、来館者が座ったり寝転んだりするのに最適の空間である。芝生の端には、すべてマンゴーの木が植えられている。白い花をつけ、落葉が少なく、大木にはならない樹木は、特に選ばれて植えられた。朱銘美術館の館長で、朱銘氏の末子でもある朱原利氏によると、大木になりすぎると大きな作品のそばでは狭く見えるし、小さな作品は木に負けてしまうので、大木にならないマンゴーを選んだのだと言う。
公園内の建物の屋根は、樹木の頂の円弧をイメージした設計になっており、使用した素材は青銅で、時間と共に酸化して自然に退色し、周囲の山の色にふさわしい深緑になる。休憩所や手洗所が余り立派ではないと不満を漏らす参観者もいるが、これらもすべてシンプルに素朴に設計されたものなのだそうである。建物一つ一つ、一木一草に至るまで、作品と組み合されて調和し、天地と山水の間に共存できるように構成されていると朱銘氏は説明する。
「たくさん建てればいいと言うものではなく、建物が多すぎると環境への負荷も高まることになります」と、朱銘氏は彫刻美術館と景観との調和に対して独特の見識を持っている。「そんな立派な道理があるわけではなく、よく見ることです。その環境に欠けているものを補い、一つ置いて見て、それが無くなると困るとなれば調和したと言うことです」と、朱銘氏は控えめである。
公園全体の計画設計において、一番心血を注いだのが美術館本館である。鉄の橋を越えると、もう一組の落下傘作品が清流に引っかかっている。現代的な幾何学造型、ピラミッドを割ったような建築が、朱銘氏の彫刻創作の生涯を物語る本館である。
15歳の時、朱銘氏は父に連れられて伝統的な木彫り職人の李金川門下に入り、具象的な造型を持つ民俗的題材の木彫を学んだ。1968年、決然と門下を去り、楊英風氏に師事する最初の職人上りの弟子となった。
館内に入ると、最初に出迎えてくれる作品が朱銘氏の出世作「同心協力」である。一頭の老牛が木材を満載した車を引いて坂を登る。雨の後のぬかるみで、牛の足は深く泥にもぐり、農夫が四人脇から車を押している。このように大地をテーマとし、農村の人と家畜との間の感情を描いた作品は、1976年に出展された時、高い評価を受けた。ぐるりと回っていくと、「二十四孝」、妻をテーマとした「砂遊びの少女」など、初期の伝統的木彫時期の作品が次々と現れる。こういった木彫作品のほかにも、華やかな彩色と大胆な彫りのタッチが目立つ人間シリーズの木彫が、階下のホールに立ち、座りながら点在する。
伝統彫刻と現代彫刻、農村の水牛から世間の民衆の姿まで、朱銘氏に深い影響を与えた二人の恩師、李金川氏と楊英風氏の原稿や作品が、本館二階の陳列室で見られる。
師の恩は山の如しであろうに、朱銘氏は驚くようなことをいう。「努力して何とか教えていただいた恩師ですが、さらに努力して二人の先生を振り捨てたのです」と。楊英風先生は最初から朱銘氏が第二の楊英風になることを戒め、まず李先生の伝統的な技法を捨てさせ、次いで楊先生のスタイルを捨てることを求めた。「両手に他人のものを抱えていたら、自分の物を入れる空間が無くなるでしょう。創作は学ぶものではなく、他人を知ることでもないので、まずそれを忘れてから自分を見出すのです」と氏は話す。
師を捨ててから、まだ捨てるものがあった。次に捨てたのは素材である。最初は木であった。木との間に間断の無い対話が交せるようになると、今度は新しい言葉が生れてこなくなる。そこで木を捨て、発泡スチロールを捨て、海綿を捨て、さらに粘土もステンレスも捨てていった。朱銘氏に言わせると、異なる素材は全く異なる性格を持っている。機械を使用し、150トンの力で巻き、捻り、引張るステンレスと、手で巻き取れる海綿とでは、それぞれに異なる創作態度やスタイルが生み出されてくる。公園に多様な姿を見せる作品は、こうして捨てながら出てきたものだった。
芸術修行の過程をを通し、過去の自分を踏み越えて、次々に捨ててきたのだと言う。生れてこの方、目を開けてからずっと自分の彫刻を眺めて育ってきた長男の朱雋さんに対しても、朱銘氏は何一つ彫刻を教えたことは無い。第二の朱銘になって欲しくは無いからだと言う。
親水区の隣にある朱雋館には、主に朱雋さんのここ10年余りの作品「ファスナー・シリーズ」が展示されている。巨大なファスナーが開いてできた半月型の池には、ハスの花が風にそよいでいる。池のほとりにはテントのような小屋があり、同じくファスナーで小さな入口が開かれる。さらに多くの石の彫刻には、全て銅のファスナーが口を開ける。石を表現の素材として選んだ朱雋さんは、石とファスナーと言うミスマッチの組合せが、新しい想像を人間に与えると言う。ファスナーは開けると空間の虚と実、陰と楊を見せ、歯と歯が噛合う中で、増えず減らずの思索を表現できる。
11ヘクタールの公園には、平日には千人を超える来館者が訪れても、緑の芝生と起伏を見せる斜面はまだまだ静けさを保てる。しかし、休日ともなるとさすがの広い美術館も、喧騒が絶えなくなるという。
開館以来、次々と多くのイベントが催されてきた。古典講談、演劇、美学講座などの会が開かれ、それに漢霖説唱芸術や古名伸舞踏団、匯川劇場、杯子児童劇団など、数多くの芸術グループがここで公演を行っている。芸術グループも公園のゆたかで美しい環境を目にすると、舞台だけに留まらず、公園のその他の空間に足を伸ばし、その場で人の山ができる。そうなると公園全体がまるで大劇場のようになってしまう。こういった表現芸術ばかりではない。朱銘美術館撮影コンテスト、児童創作コンクール、それにテーマ別の作文コンクールも開催された。第二回児童創作コンクールで受賞した施禹竹さんの作品は、どこにでもある食器洗いのスポンジと爪楊枝でサボテン家族を作ったもので、独創的なアイディアに満ちていた。
「美術館は父の作品の所蔵と展示を主としていますが、単なる個人記念館ではないのです」と、朱原利さんは話す。朱銘美術館は美しい野外の空間を持っているために、動的で生きた美術館を作り上げようと努力し、展示換えがしばしば行われ常に新しい姿を見せているのである。
毎週土日になると、朱銘氏が招聘した専属芸術家荘明旗さんが、南台湾から北台湾の金山まで飛んでくる。美術館で一番重要な本館の外壁に、ペンキの刷毛を手に持って、黒い線の人や動物の図像を描いているのである。開館から今まで一年近くが経つが、朱銘美術館に色をつけてやろうとした荘明旗さんは、今では止められなくなってしまった。植被アートと自称するその壁画は、外壁から歩道、レストランの壁面まで伸びている。荘明旗さんの一番の収穫は、来館者との相互作用であるという。それも植被なのかもしれない。対話を通じて、またさらに直接的に奔放な作品を通じて、来館者の心に植え込まれるのである。
100メートルの芸術ギャラリーは、若い芸術家に開放され、大壁面をキャンバスにして絵を描けるようになっているし、子供たちは細長い歩道にはめ込まれたますに、チョークで落書できる。朱銘美術館に足を踏み入れると、見学者は単なる見学者ではなくなり、創作者にもなれるのである。
今日の朱銘美術館は緑の山と、青い海を背景にすばらしい環境であるが、それも朱銘氏が12年の時間を費やし、全財産を費やした結果である。美術館建設を思い立ったのは、「これほど多くの子供を生んだからには、ちゃんと行先を決めてやらなければと思ったのです。私の作品は大きいので、展示期間がうまく繋がらないと、家の前は太極と人間で埋ってしまいました。これらの作品に家を作ってやろうと思っただけです」と美術館を設けた理由を朱銘氏は話す。
何についても一生懸命の朱銘氏の性格、やるからには最良のものをと、土地を買い、建築許可の申請を行い、公園の建築から樹木、溝に至るまで自分で設計した。この美術館こそ、朱銘氏一生の最大の作品といえるのかもしれない。
建設中の12年間、毎週半分は現場に泊り込み、朝五時に起きて仕事を手配すると共に、模型を手に建築家と打ち合わせた。それ以外の時間は、台北に戻って金集めと創作である。企業グループの資金を仰いで、その後の運営理念に影響するのを恐れた朱銘氏は、あちこちから寄付を集めたが、本当に資金が無くなると、奥さんから少し待ってと止められた。こうして完成までに12年がかかったのである。
この間、さすがに忍耐強い朱銘夫妻でさえ、大変だったと漏らす。苦労したのは、中古の二台の掘削機も同じである。修理を繰り返したが、最後は鉄の塊になってしまった。その掘削機の苦労を記念し、朱銘氏はわざわざ彫刻作品に作り変えてアトリエに展示することにした。その苦労と共に、美術館建設過程のあれこれを記憶しようと言うのである。
美術館にはもう一つ、人には知られていない特徴がある。それは鉄筋の建材すべてがステンレスと銅を使用していると言うことである。鉄筋コンクリートの寿命には限りがある、それを心配した朱銘氏は、自分の最大の作品である美術館が将来危険な建物となり、取壊しの憂目にあうことのないように、美術館全体に350トンのステンレスを使用し、不朽の建物となることを目指した。
不朽の理想追求は、美術館の建物だけに限らない。美術館の永続的な運営を目指し、本来自由に売買できる美術館の敷地と農地の用途指定を公園用地に変更し、開館の当日に千点を超える作品と美術館全体、さらに所蔵された内外の彫刻家の作品全てを財団法人「朱銘文教基金会」に寄贈したのである。朱銘氏と朱家の子孫は、台湾の2000万余りの人々と共同で、この野外美術館を所有していることになる。
今では公共の広場や街角で、あるいはビルの中庭などで、朱銘氏の作品を目にすることも少なくないだろう。しかしそれは個別の言葉、一つの部分に過ぎない。「朱銘美術館は起承転結の整った一篇の文章なのです。ここで初めて全体としての私を見ることができるでしょう」と朱銘氏は話す。陽光を迎え、海の風に吹かれながら建つ美術館のレンガ一つ、タイル一つ、点在する作品すべてが芸術であり、朱銘そのものなのである。