20世紀初頭の文人、徐志摩をめぐる恋愛と結婚の物語が、ミレニアムの始まる冬を迎えた台湾の即物的な男女をひきつけて放さない。徐志摩を描いたドラマ「人間四月天」とは、どんなドラマなのだろう。どこがそんなに魅力的なのか。歴史上の徐志摩とドラマとではどこが違うのだろう。台湾の人々が彼に魅せられたのは、一体何だったのだろうか。
「徽徽が一番愛しているのは誰なんだろうと、自分なりに考えてみたのだけど、彼女が愛したのは多分自分自身なのだろう」(台湾大学の椰林ホームページから)
ミレニアムの開始が告げられた台湾で、20世紀初頭の文人徐志摩の愛情物語がブームを呼んでいる。その始まりは、公共テレビ局が放送した徐志摩とその妻や恋人たちを描いた連続ドラマ「人間四月天」である。放送以来、視聴者からの熱狂的な反響が続き、大学のホームページのテレビ欄には、さまざまな書き込みが寄せられた。「有史以来もっともおそろしい惑溺の恋」とされる徐志摩を巡る三人の女性、林徽因、陸小曼、張幼儀にはそれぞれのファンがつき、ホームページで支持する女性の擁護と相手の非難合戦を繰り返す。中にはドラマを現実生活に移しこみ、林徽因、陸小曼、張幼儀といった異なるタイプの女性がいたとしたら、或いは王賡、梁思成、徐志摩といった三人の男性がいたら誰を選ぶかと聞いてくる人もいる。
誰を選ぶのだろう。ドラマの脚本を担当した王蕙玲さんの話では、徐志摩を巡る三人の女性を山、海、風で表現したのだそうである。「忍耐強く貞節堅固な張幼儀は山で、あてどころなく漂う林徽因は風のようです。これに対して怒涛のように一途な陸小曼は海といっていいでしょう。でもドラマ全体が終わってみると、この三人には山の中に海があり、海の中に風が吹き、海上に山があるようでした。三人ともそれぞれキャラクターが異なっています」と彼女は話す。
山の中に海があり、海の中に風が吹き、海上に山がある。文学的素養豊かな王さんの形容は優雅で、いつも自分をチェックしている世の中の女性たちは、そこに自分を見出すのだろうか。ベテランのジャーナリストの王美娟さんは、「人間四月天」が世の中の女性の気持ち、少なくとも憧れの気持ちをつかんだことが魅力の一つだろうと見ている。
このドラマの放送前に、脚本の王蕙玲さんは有力紙連合報の文芸欄にこのドラマの魅力について話している。「林徽因の夫の梁思成、徐志摩の最初の夫人の張幼儀、陸小曼の前夫王賡など、あんな時代の中にあって、このような人生を送っていたのです。彼ら自身にふさわしく、また自分の才能を理解してくれる人に出会って一生の愛情をかけたのに、その大切な人を譲ってしまう。その寛容さ、広い愛情に感動しました」と言うのである。
寛容と謙譲、「人間四月天」の脚本家が20世紀初頭の文人の愛情物語を解釈する軸になった。徐志摩の物語は80年前から今に至るまで道徳を軸に回っていると、王蕙玲さんは考える。「非常に厳格な道徳の社会にあの時代の人々は生きていました。道徳は人の心にあって、その物語の中に真実の感情と寛容を私たちは見出したのです」と言葉を続ける王さんに言わせると、現代社会では道徳はすでに瓦解していて、多くの不倫や浮気に満ちているのに、道徳や感情の争いとなると、人々は決して寛容ではない。
新しい文明の風が吹いてきた時代、魂の交流を重んじる自由恋愛が提唱され、両親が決めてきた婚姻に大きな衝撃を与えた。ドラマの中でも道徳と世間体との争いが、ストーリー展開を決めるところが多い。次の一段を見てみよう。
離婚した徐志摩は林徽因が彼の愛情を受け入れてくれ、自分に将来を託して欲しいと望む。そしてすべての罪、世間の非難は自分が引き受けると、明言するのである。
すでに梁家と婚約が整っていたし、徐志摩は離婚したというものの、実は妊娠したばかりの前妻張幼儀を外国に置き去りにしてきたことを知った林徽因は、「私の心の負担を背負ってくれるのですか。この千斤の重荷が一生を押しつぶしそうなのに」と答えた。
これを聞いても徐志摩は諦めきれずに厳しい面持ちで「あの虚ろで実体のない不確かな道徳をそうまでして守ろうというのか」と迫るが、彼女は「少なくとも疚しい思いをすることなく、正々堂々と生きていけることでしょう」と答えた。
「道徳は枷ではなく、人生に責任を持つ態度でしょう。私はここに来たことは来たけれど、居残ることはできないわ」と林徽因は決まりをつけるように答えた。
二人はこの後も道徳論争を続けるのだが、最後に徐志摩は「やっと分かったよ。君は僕のことをそんなに救いようもない人間と思っていたのだね」と言い放つが、聡明な林徽因はその言葉に負けずに「心のつながりは、愛情ではなく友情でもありうるでしょう」と言い返した。
20世紀前半の文人の物語を「作家の身影」に撮った独立プロデューサーの蔡登山氏は、「人間四月天」が人気となると、同じ題名で徐志摩、胡適、郁達夫などの事跡や愛情物語を扱った本を出した。蔡氏によると、「人間四月天」の成功の鍵は、ちょっとロマンチック過ぎるが文学的雰囲気を失わない台詞にある。感情の細かい襞を繊細に芳醇に表現し、文字表現の苦手な現代人を驚かせると共に、憧れを抱かせたのである。
新旧文化の衝突に直面した五四運動時代の人々に見られる愛情への寛容、両親の決める結婚への反対、そして真の愛を追求する勇気などは、現代人が想像しにくいものである。
徐志摩の物語の主要人物の一人、梁思成を例にとろう。結婚後に林徽因は北京大学哲学教授である金岳霖と恋に落ち、あたかも「妹が兄に自分の恋を打ち明け手助けしてもらう」かのように夫の梁思成に告白した。打ち明けられた彼は「声も出なかった。なんとも形容しがたい痛みがぎゅっと自分を掴み、血液が凝固し、呼吸もできなくなった」と言うのだが、それでも「徽因がこれほど僕を信頼し率直であるのに感謝したよ。彼女は僕を馬鹿な夫とは思っていないだろう」と考えるのである。眠れない夜を過ごした彼は、一晩考えた後に彼女に告げた。「彼女は自由なのだ。もし金岳霖を選ぶなら、二人の永遠の幸福を願うと、彼女に言おう」と。(引用部分は林洙の『建築師梁思成』より)
寛容な梁思成は、結局のところ愛妻を失うことはなかった。この事件の結末は、友人の妻を奪うことのできない金岳霖が林徽因に「梁思成は本当に君を愛している。本当に君を愛する人を傷つけることは僕にはできない」と告げて終わりとなる。その後、金岳霖は一生独身を通した。
徐志摩というと、「私はこの茫々とした人の海の中から、唯一の魂の伴侶を求めるのです。得られれば幸福、得られなければ運命」と言う通り、愛に全てを賭けようとする。ドラマ製作チームが見たのも、この愛情に対する真剣さである。「人は、真実に生きなければね」と、陸小曼との交流の中でしばしば徐志摩が口にする台詞が、今では若者の流行語である。徐志摩は愛情に対して常に正面から向き合い、決して避けようとはしない。これに対してもう一人の主人公梁思成の愛情に対する態度は「黙って見守り、決して諦めない」である。両者とも愛情に対して真剣である。
「もしこのドラマが台湾の社会に何らかの影響を与えられるとするなら、それは愛情の真実が感動を与えるからでしょう。ポスト・モダニズムの台湾では、愛情が希薄になっています。愛情を注ぐことを恐れ、表面的な付き合いに終始し、負担を嫌うのです。これに対し、このドラマは別の人間関係の可能性を示しました」と、脚本の王さんは言う。
昔から、悲劇こそ好まれる。この世界の限界がそこにある。ロミオとジュリエットや、彦星と織り姫の物語が人に愛されるのもそのためだろう。「人間四月天」の徐志摩と中国第一の才女と謳われた林徽因とは、ちょっと見ると才能といい容貌といい理想のカップルに見える。だが林徽因は梁思成を選んだ。ホームページの書き込みを見ても、多くの人がこれを不満に思っている。徐志摩の物語は悲劇で終った。林徽因の講演を聴くために北京に向かった徐志摩は飛行機事故で亡くなり、陸小曼は上海の富裕な一族出身の翁端午と同棲し、阿片に溺れて一生を終わる。こう言った悲劇は林徽因に責任があるというのである。
彼女はなぜ梁思成を選んだのだろう。ドラマでは外国へ向かって出港しようという船上で、梁思成が「なぜ僕を」と尋ねると、彼女は「その答えはとても長いのよ。一生かかるわ」と答えた。
最近20年の間に発見された史料や、同時代人の記録などから答えをつなぎ合わせて見ると、彼女の選択は育った家庭環境に関係がありそうである。アメリカの漢学者フェアバンクスの夫人で林徽因と親しかったウィルマ・フェアバンクスの『梁思成と林徽因』という本によると、彼女の母は寵愛を失った第二夫人で、父の林長民はその後第三夫人を娶った。父との関係に苦しむ母を目の当たりにした彼女は「どう考えても自分はそんな人間関係には入れない。愛情を失った妻が捨てられ、その後に自分が入り込むなんて」と考えたのである。
今年の旧正月、林徽因の長男で、現在は大陸の環境保護専門家である梁従誡氏が連合報の張作錦社長のインタビューを受けた。それによると、母が梁思成を選んだ理由として「徐志摩の精神的欲求を母は理解していましたが、母が求めるものを徐志摩は理解していなかったのです。徐志摩と結婚していたら、林徽因は単に文学者にしかなれなかったでしょうが、父と結婚したために文学者であり建築家でもある林徽因を今見ることができます」と、梁従誡氏は言った。
その観点によると、聡明な林徽因は徐志摩の別の面も見ていたという。「徐志摩には俗っぽいところがあると母は姉に言っていました。ピンクの刺繍をした靴を履くような女も好みだったのです」と梁従誡氏は言い、林徽因との恋が終わった後に、社交界の花だった陸小曼と結婚したのも、こういった俗っぽい一面を示していると付け加えた。
物故した大陸の作家沈従文は、大陸の徐志摩に対する見方には、常にイデオロギーが付きまとうという。「相当の才能のある人には違いないが、結局腐敗した資産階級の代弁者、裕福なお坊っちゃんに過ぎないと見ている」のだそうである。梁従誡氏が引用する母の徐志摩に対する批判も、大陸的な見方なのだろうか。それに何と言っても氏は梁家の末で、徐志摩の複雑な愛情関係には、それなりの解釈というものがあろう。
文学史を主軸としたこの連続ドラマは歴史に対応しているのか、それともドラマとしての緊張を保つために、歴史を簡略化してもいいのか、これは歴史ドラマの永遠の課題である。作家の張大春氏によると、五四運動時代の人々の愛情関係は人間性の複雑怪奇な面をさらけ出すという。「例えば、最初の夫人張幼儀の二番目の兄張君励は、徐志摩を梁啓超に推薦し、彼が文壇に権力を得るための鍵となりました。張幼儀がぱっとしない容貌の持ち主だったというのは、実は徐志摩が彼女を捨てる口実でした」と張氏は説明する。連続ドラマは文学史に忠実である必要はないが、余りにも簡略化し、視聴者の機嫌を損ねまいと単純な時代解釈をするのは好ましくない。
徐志摩はどうして最初の妻張幼儀を捨てたのだろうか。これまでの解釈は親の決めた結婚で、元々好きではなかったというものだった。茫々とした人の海から魂の交流を見つけ出すために妻を捨てたというのだが、最近出版された史料は別の夫婦関係の解釈を伝えている。
張幼儀の自叙伝『小さな足と洋服』によると、その当時の旧式の女性とは異なり、彼女は纏足もせず、兄弟と一緒に四書五経を学び、蘇州の新式の学校に通って、地理、数学、文学、歴史などを学んだ。こう言った経歴から見て、結婚後も好きか嫌いかは別にして、話題一つないという筈はないと王美娟さんは見る。息子の徐積鍇が生まれたときに書いた詩「嬰児」を見ると、何らかの愛情があったと蔡登山さんも考えている。「故宮博物院の蒋璁元院長が書いた『徐志摩先生の逸事』には夫妻の仲の良さを示す一段があり、何の感情もなかったわけではありません」と蔡登山氏は言う。
その一方、北京大学の古文献学博士で元智大学に勤務する呉銘能さんは『小さな足と洋服』の語調を見ると、留学前の徐志摩は張幼儀に夫婦らしい感情を持たず、結婚式の夜から彼女を好きではなかったという。
その後、他に愛情を求めたというのも、蔡氏によれば才色兼備の林徽因の出現は一種の触媒作用を果したまでで、留学で西洋の思想の洗礼を受け、精神的に大きく変化したのがより重要な原因である。「バートランド・ラッセルに会いたくてロンドンに行ったのですが、ラッセルは反戦や離婚などでケンブリッジを追い出された人です。しかもヨーロッパ留学後の著作を見ると、ラッセルやバイロン、ブラウニングなどを崇拝していますが、どれも離婚経験あり、愛情遍歴ありで、これが一種の流行だったことが分かります」と蔡氏は解説する。
自由開放の風を抱いて帰ってきた徐家の息子は、1922年3月に正式に張幼儀に離婚を求めた。「愛情も自由もない結婚生活を続けるべきではないと彼は彼女に告げた。彼が幼儀に求めたのは自由のための自由、そして互いに人生の光を取り戻そうといったのである」(胡適『志摩追悼』より)
歴史の皮肉は「自由の」と言った徐志摩がどうも真の自由を得られなかったらしい点である。4年後、陸小曼と正式に結婚したが、阿片を吸い、金使いの荒い性格を改めない彼女に対し、徐志摩はあちこち授業を掛け持ち、詩文を書きまくって金に替えた。死ぬ前の詩文には生活の失敗を綴り、胡適などの友人を嘆かせた。徐志摩の追悼文には、頽廃の縁にあった生活を思うと、その詩は浪漫詩人の救いだったと述べた人もいる。
徐志摩に離婚された張幼儀はドイツで心機一転して勉強し、上海に戻ると上海女子商業貯蓄銀行の副総裁になり、さらに雲裳服装会社の社長を歴任した。離婚の打撃にも負けず、自立し成熟した女性となったのである。
陸小曼というと、徐志摩の熱愛を受けたにも係わらず、さびしい最後を終える。『小さな足と洋服』の記述によると、徐志摩と結婚していたわずか5年の間、家庭生活らしいものはなかった。「上海では阿片が手に入りやすいので小曼は北京に行きたがらず、やむなく徐志摩は北京と上海を奔走しなければなりませんでした」と作家の張邦梅氏は、徐志摩の死まで彼女のせいにしているようである。しかし、台湾の作家張大春氏の説によれば、師の梁啓超に結婚式の席で罵られ、北京には小曼の居る場所がなかったという。そこで上海の社交界に自分の場を見つけるしかなく、上海に留まったのは彼女なりの理由がある。
その後、一日中翁端午と阿片を吸っていたのも、恐らく心の鬱屈を晴らせなかったためだろう。徐家の舅姑には受け入れられず、夫は相変わらず林徽因を忘れず、手に取ると消えてしまいそうな愛情である。とにかく結果から見ると、この二人の結びつきは不幸に終わったといえよう。
「ロマンチックな愛には顕著な特徴がある。それは愛が永遠に望んで得られず、永遠に追い求めつづけなければならず、永遠に高貴で清浄な、しかし何の手応えもない不確かなものだということである。現実に接してしまうと、これほど愛した美貌の女と自由意志で結びついたはずなのに、幻想は瞬時に崩れる。愛は憎しみに変わり、自由は束縛に変わり、もう一度理想の愛と自由と美を初めから追い求めなければならない。こうして何回か繰り返すうちに、死が訪れる」と、梁実秋は徐志摩への追悼文に書き、愛に賭けた彼の一生を評した。
「茫々とした人の海の中で唯一の魂の伴侶を求め、得られれば幸福、得られなければそれも運命」と書いた徐志摩。親子兄弟の愛情も友情も希薄となったこの時代に、魂の通じ合う愛情だけが人を動かしうる。だからこそ、この言葉が今になっても言い伝えられるのであろう。
湿気が多く寒い台北の冬の夜、70年前に徐志摩と林徽因の残した詩を読んだ。27歳の林徽因が結婚後3年目に徐志摩に書いた「あの夜」には「あの日、鳥のような歌を聴けばそれはあなたの賞賛を静かに待つ私。あの日、乱れた花影を目にしたら、それはあの頃に入り込んだ私」とある。次いで林徽因の病気療養中に徐志摩が書いた「君は去る」は「君は去る。私も行く。私たちはここで別れ、君はあの広い道を行きたまえ。見てごらん、あの街灯が空の果てまで照らし、君は光に沿って行けばいい。私はここで君を見ている。足取り軽く、土埃を上げないで。君が遠くなる姿を、見えなくなるまで見ていたいから」とある。徐志摩の従妹の夫陳従周は、臨終まで小曼が気にかけていたのは、死後に徐志摩の墓のそばに葬ってくれということであった。複雑な恋愛関係の矛盾や葛藤は置いておくとして、この愛の詩はまさに「世間に問ふらく、情は何物たるや、まさに人の生死相許すまで」と生死を越えた愛を示している。
情は何物なのか、教えて欲しいものである。朱天文が胡蘭成と張愛玲の愛を描いた『花憶前身』には、こんな一段がある。「中国人は目前の賑い、赤いライトに照らされた人生に注意力を集中する。それ以外は、すべて悲しみに満ちている。物質や細部には喜びがあふれているのに、主題は永遠に悲劇的である。優雅なうちに曲の演奏が終わるというのが、中国人の主流の観念で、適度に中庸の美を重んじるのである。だからこそ人生も芸術も、一番難しいのはいつ手を引くべきかを知るというところである」と。
「君に明珠を還し、双つながら涙垂る」とは昔から言い伝えられてきた一句で、明珠を贈って愛を誓った君への思いは纏綿とつきないが、思いを断ち切って飄然と去っていく美しい女性の姿がしのばれる。「人間四月天」が心に残すものも、悲劇に終わった愛の物語の悲しみというより、春の盛りを思わせる清明で、纏綿とした恋の想いなのである。あの時代の一群のすぐれた人物像を前にして、真実に生きたという以外に、言いようがないのではないだろうか。