思いがけないダブルキャリア
「ランタン作りはふとしたきっかけで始まりました」呉登興は6歳の時、道できれいなランタンを拾って帰り、「これを作ってお金を儲ける」と親に言った。親は喜んだが、やがて北港ではランタン祭りが行われなくなってしまった。「16歳の時に北港でランタン・コンテストが再開され、すぐ応募して1位で賞金をもらったのと、父がランタンを作っていたのを幼い頃に見ていたので、自分でもいろいろ試してみるようになりました」18歳の時には全国コンテストに応募するほどで、わずかの差で3位だったが、兵役中には北港朝天宮のコンテストで1位となり、獅子舞以外にも職業を持つことになった。
腕があれば、若さはとやかく言われない。台北の龍山寺は2004年、毎年恒例のランタン祭りに23歳の呉登興を招き、台湾全土の優秀なランタン工芸師たちとその腕を競わせた。その結果、彼の創造性は龍山寺の眼鏡にかない、その後17年連続して大型ランタンの制作を任されている。1年ごとに目を見張るような作品が披露され、メディアでも報道されている。
「1年目は生活費の足しにと作りましたが、その後は文化伝承のためにやっています」28歳の時には文化部(文化省)に招かれ、ランタン作りの講師となった。彼の作るランタンには高い芸術的価値と文化的意義がある。中でも観音像をかたどったランタンは「本物の神像より美しい」と称賛された。雲林県主催の2017年ランタンフェスティバルでは、彼の「百鳥朝鳳」が北港大橋にずらりと飾られ、「台湾で最も美しいランタン風景ベスト10」に選ばれた。北港文化センターは彼のランタン2点を常設展で展示している。
「彼のランタンには宗教や文化に対する敬意が込められている」と語るマレーシアの康寧寺の住職は、2度にわたって彼を丁重に招き、ランタンの制作を依頼した。
呉登興の人生はダブルキャリアにとどまらず、文化財保存にも力を尽くす。きっかけは清の咸豊元年(1851年)に開館された「集雅軒」という曲館(音楽の練習などが行われた場所)だった。館内には伝統儀式にまつわる古い文物が数多く残され、かつて宗教行事がどのように行われていたかを知ることができる。
「幼い頃から父とともに集雅軒で練習や実演を行っていました。ここは100年にわたる北港媽祖練り歩きのルートにも入っています」だからこそ集雅軒が取り壊されるかもしれないと知ると、呉登興は「文化資産保存法」を熱心に調べ、伝統建築や文物の目録の書き方も学んだ。「私の人生で最も一生懸命に勉強した経験でした。かいあって集雅軒は県の文化財に指定され、修復が決まりました。中にあった150年前の西秦王爺神像も保存されました。文化資産保存法にかなり詳しくなりましたよ」と彼は爽快に笑った。
「勉強嫌いで獅子舞だけが好き」と自称する呉登興だが、難渋な法令や論文の文章に取り組み、夜遅くまでかかって文化財目録を作成したのだ。そのおかげで北港にある歴史的建造物が数軒、古い文物も数十種、有形文化財に登録された。そればかりか、廟の装飾工芸の技を持つ許哲彦など70歳を超える師匠たちに手を貸し、無形文化資産保存者に登録した。台湾の貴重な伝統民俗文化を残すためである。
「もし誰かが保存を言い出さなければ、後の世代はこうした文化遺産が存在したことすら知らなくなるかもしれません」伝統文化に対する情熱のおかげで、呉登興は今や歴史家と言ってもよく、文化遺産を研究する大学院生もよく彼の下を訪れて実習や研究に従事する。

呉登興は個人で60種類、100点の獅子頭をコレクションしている。写真は北京獅。