返還から10年、香港は少しずつ新しいパートナーとの関係に馴染んできた。中国経済急成長の追い風に乗り、金融危機やSARSの衝撃を乗り越えてきた香港は、今やニューヨークとロンドンを追って世界第三の金融センターになろうとしている。
この10年は香港人にとって、覚醒の10年だったとも言える。日増しに悪化する環境、経済発展を重視するあまりバランスを失した社会、「内地人」との融合と摩擦など、さまざまな課題に直面し、香港人も自らの位置づけを考え始めた。植民地から中国の「特区」へと変ったが、特区とは一体何なのだろう。特区としての地位をどう維持するべきか、また、いつまで特区であり続けられるのだろうか。
イギリスと中国という二つの外来政権の間で、香港人は独立を求めたことはなく、主体性を呼びかける声もあまり聞かれなかった。しかし今年初、第3回「特別行政区行政長官」選挙において、初めて北京当局が指名した人選に対立する候補者が出現し、そこに香港人の変化をうかがうことができる。紆余曲折を経て再び安定した香港にとって、返還はどのような意味を持つのか、時間をかけて考える必要がある。
香港は誰のものなのだろう。赤柱(スタンレー)に暮らす欧米系の人々は、この問題を考えたことはない。
香港島の南端、短剣のように南シナ海に突き出した赤柱は、イギリス統治初期には海岸防衛の要塞の一つだった。その突端には今も古びた砲台が残っているものの、今では両腕を広げて外国人を歓迎している。ここにある高級住宅地は、各国から香港に派遣された駐在員や高級管理職の居住地として知られている。ここでは広東語の新聞は売れず、視聴率が高いのは英語のテレビ番組、さらにスペイン語、フランス語、ドイツ語、ヒンディー語などが続く。
「よほど暇でない限り、広東語や中文のチャンネルは見ません」とフランス訛りの英語を話すのは、オーストラリアから転勤してきたばかりのフランスの大手銀行ソシエテ・ジェネラルM&A部門管理職のマルクさんだ。
しかし、ここに暮らす欧米系ビジネスマンの辞書に「暇」という言葉はない。中環(セントラル)のオフィスに通勤する他、マルクさんは毎月マレーシアとインドと中国各地で開かれる会議に出席する。地価が極めて高い中環と赤柱という土地で、彼はアジア全域と世界の投資市場をリモートコントロールしており、落ち着く暇などないのである。

ショッピング、飲茶、そしてスピード感のある「アジアの国際都市」香港は、常に人々の味覚と視覚を満たしてくれる。
イギリス時代のルールを継承
外国企業の香港進出を維持するための政策面では「特別行政区はよくやっていますよ」と話すのは、アメリカの環境保護サービス会社の香港代表、ジェームスさんだ。中国市場開拓のために香港に来た彼のオフィスは銅鑼湾にあり、時間のある時には同じく香港駐在の外国人ビジネスマンと、蘭桂坊にある喫煙できるバーでおしゃべりする。
「特別行政区は何もしない、とも言えるかも知れません。彼らの目標は、ここの環境を97年以前と同じレベルに維持することで、この点は基本的に達成されています」と言う。
もともと壊れていないものを修理する必要はない。現実的な香港人は以前と変らぬ精確さと効率を維持してきた。海運王として知られる董建華氏が初代行政長官に就任し、香港政庁時代からの官僚である曾蔭権氏が再任した現在まで、「香港人による香港統治」の下の香港運営は以前と変らず、多くの住民の不安もしだいに解消してきたのである。
一方、世界が注目する中で「一国二制度」の実験を開始した北京当局は、より慎重だった。わずかな手違いで、ようやく手に入れた看板を壊してしまうおそれがあるからだ。外国人ビジネスマンに対するきめ細かなサービスも「イギリス時代のルールを継承」するという基本方針に過ぎない。ワーキングビザや親戚訪問ビザも、アジアで最も高い効率の平均7日で手続が終わる。外国人ビジネスマンが最も気にかける税率面でも、アジア最低(所得税率一律15%)を維持している。専制体制の中国に返還されて10年、香港は今も世界で「経済的自由度」の最も高い地域である。

返還の陣痛
返還前、「50年不変」「香港人による香港統治」の原則が決まってから「何事にも手を出す北京当局が傍観することを学んできました」と特別行政区運営を研究する香港中文大学政治・行政学科上級講師の蔡子強さんは言う。しかし、返還後、北京当局が本当に手を出さなかった時期は長くはない。
1997年7月1日、人民解放軍が香港に入ると間もなく、7年にわたる不況と景気後退が始まった。「一国二制度」という政治史上未曾有の実験が成功するのか否か注目される中、最初から困難な課題に直面したのである。
最初の衝撃は1998年にアジアを襲った金融危機だ。香港証券取引市場のハンセン指数は同年最高値の半分の6600ポイントまで暴落した。これに続いて2001年にはアメリカの同時多発テロとネットバブル崩壊に見舞われ、昔から香港経済の牽引車とされてきた不動産市場も冷え込み、人々の資産は大幅に縮小した。
2003年春にはアジアで感染が広がったSARSが中国、香港、台湾を襲い、中でも香港は感染者1755人、死者299人という最大の被害に遭った。これによって香港ではGNPの15%を占める観光サービス業が大打撃を受け、少なく見積もっても30億米ドルの損失となった。この最悪の年、失業率も過去最高の8.7%に達したのである。
数年にわたる経済不振に加え、2003年には特別行政区政府の香港・中国関係における不手際もあり、返還以来蓄積してきた人々の不満がついに爆発した。

華やかなセントラルをよそに、取壊しを待つ深水埗の集合住宅。昨年9月に開通したロープウェイ昴坪360からは新開発地の東涌が見える(下)。
2003年7月1日
2002年から、特別行政区政府は北京当局の暗示を受けて「香港基本法」23条の立法手続を開始した。国家反逆罪、国家分裂行為、反乱扇動罪、国家転覆罪、国家機密摂取罪など多数の犯罪を定めるもので、これが人々の不満を煽ることとなった。特に「国家安全」という言葉の定義が曖昧で、犯罪と認定しやすいことに対して、厳しい批判の声が上がった。
「長年にわたり『香港には自由はあるが民主主義はない』と考えてきた香港人ですが、この23条立法化の過程で、民主主義がなければ自由もなくなることに気付いたのです」と話すのは香港の政治評論家、潭自強さんだ。国家安全と国家機密という曖昧な文言に縛られてマスメディアが口を封じてしまえば、香港市民の自由も守れなくなる。
経済不振の中、わずかに残された自由さえも奪われるのかと人々の不安は募った。そして2003年7月1日の「返還記念日」に、人口わずか700万人の香港で50万人がデモ行進に参加したのである。人々は「董建華氏の辞任」「行政長官の直接選挙」「香港人の自決」などを求めるスローガンを掲げ、北京当局の権限拡張に屈する特別行政区政府に抗議し、連年の施政の不手際に不満の声を上げた。マスコミを通じて報じられたデモ行進の様子は、北京の中南海を震撼させただけでなく「一国二制度」の数々の問題を明るみにさらした。
「香港住民が求めたものは、表面的には行政長官の交代ですが、実質的には、これは北京当局に対する最初の不満の表明と対話だったと言えるでしょう」と潭自強さんは当時を振り返る。
「このデモが鍵になりました」特別行政区民政局の何治平局長はメディアのインタビューを受けた際、特に北京当局にとって、これは明確な信号であり、特別行政区はやり方を変えざるを得なかったと語っている。

長年にわたる経済の「積極的不干渉」政策により、香港では労働者は十分に保護されない。株価と不動産価格が上昇する中、貧富の格差も際立ってきた。
中国からの経済の「贈り物」
市民の不満の矛先となった董建華氏にとって、このデモは非常に厳しいものだったが、任免権を持つ北京当局は氏をすぐには辞任させなかった。香港住民にとっての統治手腕のない「イエスマン」は、翌年末になって、ようやく病気を理由に辞任した。
「7月1日のデモ行進は北京当局のメンツを失わせ、基本法23条の立法も中断せざるを得ず、北京の威厳は失われました。しかしすぐに董建華氏の辞任を認めると『騒ぎ立てれば要求が通る』と香港市民に思わせてしまい、しばしばデモが起ることになりかねないと考えたのです」と蔡子強さんは指摘する。
「政治面では軽々しく妥協できませんが、経済面では優遇することができます。景気さえ良くなれば、市民の不満も半分は解消されるからです」と蔡子強さんは指摘する。そこで香港経済を活性化させるために、中国内地と香港・マカオとの経済貿易緊密化協定(CEPA)がスタートすることとなった。ちょうど世界経済の回復も相まって、この戦略はすぐに成果を見せ始めた。
「CEPAとは、すなわちFTA(自由貿易協定)です」と説明するのは政治大学経済学科の林祖嘉教授だ。2001年に中国と台湾はWTOに加盟し、5〜20年以内に漸次関税を引き下げて市場を開放することとなった。「これを先に香港を対象に開放することで、香港経済を助けられるだけでなく、大規模な対外開放が内地にもたらす衝撃を緩和することができるのです」と言う。
CEPAによって香港製品の本土輸出には関税がかからなくなり、弁護士や会計士などを含む17種のサービス業においては、香港人もそのまま本土で事業を行なうことができるようになった。CEPAは香港人に、世界で最も魅力的な中国市場における快速通関パスを与えたに等しく、中国市場を狙う外国企業を羨ましがらせることとなった。
「特に大陸の内需市場が顕在化して以来、香港人は最も得意とする不動産開発の分野で大きな力を発揮してきました」と政治大学の林祖嘉教授は言う。大きいものでは高速道路や空港などの公共建設から、小さいものでは上海の「新天地」まで、いずれも香港企業の力作だ。
北京の動向に詳しい香港人ビジネスマンは、この機会が非常に得がたいものであることをよく知っている。「彼らは、北京が今、積極的に香港人に取り入ろうとしているのを知っていて、この絶好の機会に、北京により多くのものを求めようとしています。渉外関係の交渉・仲裁業務まで香港に与えるように求めています」と林祖嘉教授は言う。

香港の繁栄を象徴する金紫荊広場では、香港と中国を表す二枚の赤い旗がはためき、両者の緊密な関係を示している。
can doの精神を取り戻す
7月1日のデモから間もなく、CEPAの他に内地からの香港旅行も開放された。これも香港経済のための政策である。
これに対しては、当初は賛成と反対の両方の意見があった。反対派の考えは、一部の内地人の購買力は魅力的だが、治安や不法労働などの問題が生じるおそれがあるというものだ。また、身だしなみを気にせず、どこでも大声で話す内地人は文明都市のイメージを壊すという声もあった。
しかし、広東省から始まった香港旅行の自由化は大きな経済効果をもたらした。2004年から毎年1000万人を超える観光客が内地から訪れ、その数は香港を訪れる観光客の半数を占め、200億香港ドルを超える収益をもたらしているのである。
これらの政策が功を奏し、7年間低迷していた香港経済は2004年に底を打って回復し始めた。これ以降、株価も上昇し続け、2006年12月にはハンセン指数が2万ポイントを突破して過去最高を記録した。現在、証券市場の時価総額は1兆6000億米ドルを超え、2003年時点の2.4倍に達している。
景気の谷を抜け出した香港では、有名な飲茶レストラン「大会堂」は連日満員、蘭桂坊は人で溢れ、再びcan doの精神を取り戻したようである。
香港経済の起死回生において、中国からのバックアップが大きく影響したことは明らかだ。しかし「今日の中国に対する香港の重要性を見落とすことはできません」と中華経済研究院で香港経済を研究する林昱;君・副研究員は指摘する。例えば、香港から近い珠江デルタには香港企業の工場が5万7500もあり、1000万人近い労働者を雇用している。その7割はこの10年に設立されたものだ。「中国最大の外資として、香港は中国経済に大きく貢献しています」と林昱;君さんは言う。

長年にわたる経済の「積極的不干渉」政策により、香港では労働者は十分に保護されない。株価と不動産価格が上昇する中、貧富の格差も際立ってきた。
政治と経済と
香港と中国との距離はますます近くなり、その関係もますます緊密になっていく。イギリス国旗が下げられてから10年、香港は新たなパートナーとの関係に最初は懐疑的だったが、しだいに受け入れ始め、その勢いはしだいに増している。
「香港は一つのコマです。ここでの一国二制度が成功すれば、台湾と世界に対する最良の宣伝になりますから。また同時に、北京としては香港を利用して上海幇を牽制することもできます」と、台湾と香港・マカオの政治に詳しいある評論家は指摘する。
中国では現在の「諸侯経済」の下、地方政府に高度な自主権があたえられており、省や市の行政首長の任免においても、企業誘致や経済発展の業績が主な評価基準となっている。各地が経済成長を最優先させる中で「江沢民・前国家主席の勢力が残る上海は、北京政権にとっては大きな脅威です。そのため、上海と香港が金融センターの地位を巡って競争している現在、北京当局は香港に肩入れしているのです」と、この評論家は指摘する。
しかし、香港はいつまで北京の寵愛を受けることができるのか。寵愛が失われた時、香港経済はどうなるのだろう。
「CEPAに関しても、香港人は知っておく必要があります。中国はWTOに対して『市場を漸次開放する』と約束しているので、香港だけが優遇されるという状況は変わっていきます」と潭自強さんは言う。
「より重要なのは、香港自体の特色がどこにあるかです」と指摘するのは林昱;君さんだ。中国からの優遇策だけに頼っていたのではリスクが高い。例えば台湾と中国が対話を再開し、三通が実現すれば、香港は年間200万人以上のトランジット旅客を失うことになるのである。
「イギリス時代から今日まで、香港の経済的役割は常に外部から指定され、香港自身には決定権はありませんでした」潭自強さんはこれこそまさに「植民地経済」の宿命だと指摘する。
「金融センターというは良いですし、香港にもその条件があります。しかし、正常な社会において都市が金融センターを目指して発展していこうとする場合、市民も意見を発表して、周辺措置を考えていかなければなりません。例えば、貧富の格差の拡大や地価上昇、あるいは地価高騰で他の産業が存続できなくなるなど、起こり得る問題にどう対応するか、議論する必要があります」
「しかし残念なことに、香港にはこのような機会はあたえられてきませんでした」と梁文道さんは嘆く。中国経済体系における香港の特殊な機能――金融、貿易、中継、旅行など――を強調しすぎるあまり、一つの独立した経済体としての完全性が犠牲にされ、そのため体質的に極めて脆弱で、しかもそのモデルに入れない大部分の香港人は厳しい状況に置かれるのである。
一方、歴史的に植民地はしばしば「搾取される」立場にあった。しかし「香港はイギリスに物質的な貢献はせず、香港政庁時代、イギリスも香港に対して経済的利益の還元を求めませんでした」と香港事情に詳しい台湾の政治評論家、南方朔さんは言う。「香港政庁が香港で得た経済的利益は違う種類のものでした。イギリス資本の多くの企業、例えばキャセイ・パシフィック航空やHSBC香港上海銀行を傘下に持つスワイヤーグループなどが香港で大きく成長し、香港経済の盛衰に影響を及ぼし、また多くの香港人を雇用してきました」と言う。
返還10周年を迎える直前、返還当時にイギリスとの交渉に当った中共国務院香港マカオ弁公室の魯平・元主任は当時を振り返って次のように述べた。97年の返還前の北京当局の考え方は「香港の安定は資本家に頼らねばならぬ」というもので、経済政策の重点は資本家を安心させることだったという。「イギリスも中国も、常に大企業を通して香港をコントロールしてきたのです」と前出の評論家は分析する。
「税率はアジアで最も低く、労働者保護政策はほとんどないという資本家優先の環境で、香港のcan do精神は、努力さえすれば成功できるという神話を生み出してきました」と香港の評論家、潭自強さんは言う。当時、大陸から香港へ逃れてきた難民たちは、そんなことは気にせずに99年という「借りものの時間」で富を築くことしか考えなかった。しかし返還後、かつて「社会主義」を標榜していた中国がこれを黙認したとしても「香港人は貧富の格差の大きい、資本家優先の社会に我慢できるでしょうか」と潭自強さんは問いかける。
「だからこそ民主化と自決の権利が重要になってきたのです。GDPと物流と金融センターの他に、香港には環境や社会正義に関するさまざまな問題がありますが、それらの問題の解決を北京に頼ることはできません」と梁文道さんは言う。

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M型社会
香港島のビクトリアピーク(太平山)から見下ろす世界最大規模の高層ビル群は、昔から香港人の誇りだった。しかし、深刻化する大気汚染のために、晴天でも景色が見えない日が多い。
香港経済がテイクオフした70年代から、ビル群の中に隠された貧富の格差はしだいに拡大してきた。70年代からすでに高かったジニ係数は2001年には0.525、そして2006年には0.56に達し、南米のウルグアイなどと並んで世界で最も貧富の差が深刻な地域の一つとなっている。
日増しに拡大する貧富の差は、経済発展の成果が多くの人に行き渡っていないことを示している。この10年で、香港のGDPは2万7055米ドルから2万7614米ドルまで成長したが、同じ10年で月収5000香港ドル(約650米ドル)以下の人数は31万人から50万人に増えた。
「香港は富める者の天国、失敗者の地獄です」と梁文道さんは言う。かつて、裸一貫から事業を興した李嘉誠氏がアジア一の富豪になり「私にもできる」と誰もが思ったものだ。しかし今、多くの香港人は貧富の格差は社会構造がもたらすもので、個人にはそれを変える力などないと感じるようになった。
香港社会は富める者と貧しい者に分かれているが、環境の悪化は分け隔てなく襲ってくる。
海岸線を次々と埋め立てて高層マンションが建てられる中、香港の人口は97年から70万人増えて700万人に達した。しかし、沙田や屯門、将軍澳などが開発された後、香港にはもう新たに数十万の人口を収容する土地は残っていない。上へ上へと高密度の建設が進んだため、建物は密集し、交通は渋滞し、大気汚染が進み、消防も難しくなっている。
「SARSが拡大した時、香港の人々は今まで考えもしなかったことに突然気付きました」と香港の雑誌CUPの劉細良・主編は話す。第二次世界大戦以降、人口が増え続けてきた香港では、市街地の公共用地が常に20%不足しており、ここ10年の急激な開発で緑地はさらに減り、空気も悪くなり、それがSARSの感染拡大の要因の一つとなったのである。

ビルの二階に店を構える阿麦書店。地価が高く、レストランやショップが密集する銅鑼湾ではなかなか得がたい空間だ。
私は誰?
返還10周年が近づくにつれ、香港では数々のイベントが行なわれた。メディアは香港の表と裏にさまざまな角度から光を当てて詳細に検証したが、返還の功罪を一言で言い切るのは難しい。
しかし、4月に発表されたある調査結果は、香港の前途に関心を寄せる人々には注目に値するものだった。
香港大学の世論研究計画における「香港人のアイデンティティ」の調査では、香港市民に直接「もし選ぶことができるなら、97年以前の植民地住民を選ぶか、それとも97年以降の特別行政区住民を選ぶか」と問いかけた。
その結果、調査対象となった市民1007人のうち41%が「特別行政区住民」を選択、22%は「どちらでもいい」、そして31%が「植民地住民」を選んだ。この結果から、香港人の過半数が「特区住民」であることを理想のアイデンティティとはしておらず、中国からの経済的バックアップも民心を十分につかんでいないことがうかがえる。
一方、97年の返還を前に香港を出て行った人々のうち27.5万人が今は香港に戻っているが、第二のパスポートを保有している香港人は8割を超える。返還前にイギリスが発行したBNO(海外在住イギリス国民)の身分を申請した人は約344万人で、BNOパスポートを保有する人は150万人いる。
「パスポートさえあれば、災難が生じた時にすぐに海外へ逃れることができます。こうした考え方は返還の前も後も同じで、香港人の植民地的性格が変っていないことを示しています」と潭自強さんは批判する。

自分たちの香港
返還から10年、香港人は最終的には内地人と同じ中国人になるのだろうか。それとも、中国とはつかず離れずの「特区住人」でいたいのだろうか。百年来、常に中国と西洋の間をさまよってきた香港人のアイデンティティはやはり一つではない。一方の内地では、香港人に対して「標準語を話そうとしない」「友好的でない」といったイメージがあり、内地の人々も香港人を中国人とは見ていないようである。
「例えば、内地で行なわれる中国の都市ランキングなどでも香港が出てこないことがよくあります」と梁文道さんは言う。香港は特区で歴史背景も異なるという理由はあるが「特別すぎて、やはり中国の都市として扱われにくいのです」と言う。
かつて香港は「イギリス女王の王冠で最も美しく輝く宝石」と言われ、その栄光はそのまま女王に捧げられた。現在は「一国二制度」の見本として、香港の大部分の栄光は中国のものとなる。では「世界の香港」と「中国の香港」という位置づけではなく、「自分たちの香港」になる時は来るのだろうか。

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「ノー」と言うために
大航海時代以降の歴史を振り返ると、列強に支配された植民地は最終的にはすべて独立への道を歩んできだ。唯一、香港だけは鄧;小平氏とサッチャー夫人の協議により、前例のない大胆な実験の地となったのである。
「本当に非常に興味深い経験です」と蔡子強さんは言う。イギリス時代、大多数の香港人は共産主義の中国から逃れてきた人々だった。しかし、香港の主流の教育が英語で行なわれ、中国の歴史を学ぶ機会がなくても、自分が中国人だということを疑う人はいなかった。『香港』を著したイギリスの作家ジャン・モリスも「香港は常に中国人の都市だった」と述べている。
しかし、ようやく「祖国」へ回帰した後になって、香港人のアイデンティティが、かえって新しい話題となっている。
「経済的役割の位置づけから、植民地史の見直しまで、どれもが香港人に思考させるきっかけになります」と話すのは台湾でも多数の文学賞を受賞している香港人作家の董啓章さんだ。
近年、しだいに盛んになる文化保存運動も、香港人を主体とする自覚を象徴している。2003年の九龍事件、2004年の湾仔利東住民による自主再開発計画、2005年のスターフェリー埠頭取壊し、そして去年決定したクイーンズ埠頭取壊しと埋立地拡大プロジェクトなど、住民たちは香港の歴史文化を保存しようと政府と戦ってきた。住民側が勝つことも負けることもあるが、その動きは大きく注目されている。
「かつて香港人が街頭で抗議すると言えば、多くの場合、その目的は自分自身に直接関わる問題、例えば給与や雇用などに関するものでした。しかし、最近のデモ行進や抗議行動は香港に新しい歴史を開きました。文化と自覚を中心とする戦いが始まったのです」と潭自強さんは言う。
良い面から見れば、百年にわたる植民地時代と返還初期の産みの苦しみを経て、香港人はようやく「ここまで耐えて乗り越えてきた。これからの長い年月はじっくり歩んでいこう」と考えるようになったのかもしれない。このような安心感から、彼らは香港を真の故郷とする方法を考え始めた。実際、この美しい半島はビジネスと金儲けだけの場であるべきではない。自分たちの歴史的記憶と感情とユニークな生活経験を備えた故郷であるべきなのだ。
このような文化的感情を持ちつつ、一方では現有の自由を大切にし、一方では将来のさらなる民主化を求める。香港人は、より自主的で、末永く発展していける香港を少しずつ実現していこうとしているのである。

華やかなセントラルをよそに、取壊しを待つ深水埗の集合住宅。昨年9月に開通したロープウェイ昴坪360からは新開発地の東涌が見える(下)。

金融危機とSARSを乗り越え、香港は再びしっかりと歩み始めた。近年の繁栄は美しいヴィクトリア港の夜景のように世界中の注目を浴びている。だが、最新の世論調査によると、「特区住民」でよかったと思う住民は41%に過ぎず、そこにさまざまな意味が見出せる。

華やかなセントラルをよそに、取壊しを待つ深水埗の集合住宅。昨年9月に開通したロープウェイ昴坪360からは新開発地の東涌が見える(下)。

ビクトリアピークから見下ろす世界最大規模の高層ビル群は香港人の誇りだが、人口密度世界一の過剰開発の危険性をも象徴している。

民間団体の努力によって、かつて孫文も収監されていたというセントラルのヴィクトリア監獄(右)が保存されることになった。

7月1日を前に、香港のいたるところに返還十周年を記念するスローガンが掲げられていた。
