スラバヤの人口は300万人、インドネシア第二の都市である。1970年代から台湾企業がここで活動し始め、インドネシア経済がテイクオフした1990年代には多くの台湾企業が進出、今では至るところに台湾人の足跡が見られる。
スラバヤには多くの台湾人の物語があるが、その中でチウィ・キミア(集偉紙業)の林永祥・元副総裁は元老級の人物と言えるだろう。
林永祥は文化大学化学工学科製紙組の第一期卒業生で、台湾の製紙業界で働いていたが、後にインドネシア華僑が経営するシナルマス・グループの目に留まり、その傘下で世界十大製紙会社の一つに数えられるアジア・パルプ・アンド・ペーパー(APP)に引き抜かれた。
それから40年が過ぎた。林永祥は、40年前に台北の圓山飯店でテグー・ガンダ・ウィジャヤ(黄志源)氏と面会した時のことを今も覚えている。現在シナルマス・グループのCEOを務めるウィジャヤ氏は、当時、インドネシアに帰国して家族が経営するシナルマス・グループに入り、己の事業を開拓したいと考えているところだった。
その頃の林永祥は30代、ウィジャヤ氏のビジョンに感銘を受け、数人の仕事仲間とともにインドネシアに渡り、APPにおける重要な中堅社員として働くことを決めた。
林永祥がスラバヤに渡った1976年の頃、現地に台湾企業は数社しかなく、もちろん台湾の「南向政策」もまだまだ後のことである。会社は林永祥と台湾人社員のために専用の宿舎を建てた。最盛期には家族も合わせると台湾人は200人に達し、リトル台湾とも呼べる様相を呈した。
彼らが先遣部隊となり、90年代中頃にはインドネシアの政策や産業構造などが成熟し、スラバヤに進出する台湾人は増えていった。林永祥とともに赴任した僑務委員の何麗容と台湾企業経営者らによってスラバヤ台湾人学校も設立された。
「学校設立時はまだ何もなく、教科書やノートも台湾企業が協力して集めてきました」と何麗容は言う。ノートは林永祥の製紙会社が提供し、台湾企業が資金を出し合って通りに面した店舗を借りて教室とした。
現在のスラバヤ台湾人学校は敷地7ヘクタール、明るく広々とした校舎からは当時の苦労は感じられない。学校創設の歴史は、スラバヤにおける台湾企業の足跡とも言える。

40年前にスラバヤに赴任した林永祥と妻の何麗容は、この街の発展の軌跡を見守ってきた。
スラバヤ初の高速道路建設
30年余り前のスラバヤにおける台湾人の歴史を振り返る時、我が国の国軍退除役官兵輔導委員会に属する栄民工程事業管理處(栄工処/栄民工程公司の前身)の存在に触れないわけにはいかないだろう。
1950年代以降、栄工処はエジプトやバハレーンで道路や橋を建設してきた。1973年にはスマトラでの事業が始まり、80年代にはインドネシア初の高速道路をスラバヤ-マラン間に建設した。スラバヤ郊外にあるンゴロ工業団地(NIP)上級マーケティング・エグゼクティブの伍景台によると、栄工処の当初の業務は建設だったが、当時、思いがけずンゴロ工業団地を設立することとなり、それが後に台湾企業にとって大きな拠り所となったという。
1980年代に入ると台湾ドルが値上がりし、台湾での経営が難しくなった多くの企業が海外投資を開始し、人件費が安く外資を歓迎していたインドネシアが良好な投資先となった。しかし、法令のグレーゾーンが多く、言葉も通じないため、多くの企業が苦しんだ。「パートナーに資金を持ち逃げされたり、土地の権利が曖昧だったりという問題はよく耳にしました。考えてもみなかったことですよ」と、台湾人が集まる食事会で、ある人がかつての苦しい日々を語ってくれた。
多くの台湾企業がこうした難題に直面し、栄工処が解決に乗り出した。1991年、栄工処はインティランド・セジャトラ社とともにンゴロ工業団地の開発を決め、これによって台湾企業の工業用地確保の課題を解決したのである。そして90年代以降、多数の台湾企業がインドネシアに進出することとなり、最も多い時にはンゴロ工業団地の8割を台湾企業が占めていた。
景気の変動に敏感なンゴロ工業団地では、5年前にインドネシア経済の熱気を感じることとなった。500ヘクタール近い工場用地は完売し、10数ヶ国から、浴室設備や自動車部品、食品など90余りの企業が進出してきたのである。この5年の間に日本のトヨタ自動車や、台湾のボトルキャップ大手の宏全、中国大陸の食品グループ蒙牛などが入居し、半分近く残っていた工業団地の土地は、この4~5年のうちに完売し、今では空いている土地はない。

ンゴロ工業団地の伍景台・上級マーケティングエグゼクティブ。
成功の背後の苦労
ほぼ同じ頃にスラバヤに工場を設けたIDPグループの閻文台董事長とLezen Indonesiaの李博禧董事長は、事業成功のために苦労しつつ、スラバヤの発展にも貢献してきた。
IDPの工場のロビーに入ると、棚にはシャネルやプラダ、グッチなど、有名ブランドの美しい紙袋が展示されている。これらはすべて同社が生産したものだ。ロビーの壁にはインドネシア、中国、ニューヨーク、ロンドンそれぞれの時間に合わせた時計があり、インドネシアから全世界を見渡すという意味が込められている。
インドネシアへ来る前、閻文台は貿易商だったが、ある時、イギリスの顧客の求めに応じて、難度の高くない小ロットのギフト用紙袋を生産し、海外へ輸出し始めた。
当時、新店にあった彼の工場は小さく、従業員も30人ほどだった。大量の人手を必要とする工程だが、台湾ドルが高騰し、人件費が大きな負担になった。そこで近隣諸国に移転先を探すことにした。多くの台湾企業と同様、閻文台も中国大陸やタイを考慮したが、インドネシアの投資環境は相対的に安定していると考え、1991年にスラバヤに工場を設けたのである。
だが、間もなくアジア金融危機が発生した。タイから始まった金融危機はインドネシアにも広がり、インドネシアルピアが大暴落して多くの企業が倒産に追い込まれ、あるいはインドネシア工場をたたんだ。そうした中、輸出をメインとしていたIDPは利益を確保することができた。インドネシア通貨の下落で生産コストが下がり、従業員の給与も月30米ドルに満たなかった。
2000年、IDPはさらに海外展開を進め、大陸の蘇州に工場を設立し、英米にもオフィスを設けた。現在、同社の社員数は800人、インドネシアの3.6ヘクタールの工場では100品目以上を生産している。
一方、Lezen Indonesiaの李博禧董事長が一から立ち上げた工場に入ると、棚にはファッショナブルなカジュアルシューズが並んでいる。
李博禧の物語は多くの台湾人企業家と共通している。インドネシアに来る前は台湾で小さな製靴工場を営んでいた。製品は主に欧米市場に輸出していたが、台湾ドルと人件費の高騰で工場の海外移転を考え始めた。中国大陸や東南アジアを視察して大陸での工場設立を計画している時に天安門事件が起り、友人の勧めでスラバヤへの移転を決めたのだという。
スラバヤの空港から遠からぬ巨大な工場は20年前の完成時には外観が立派過ぎて、地元の人々は高級ホテルだと思い、募集を始めても人が集まらなかった。門に人員募集の貼り紙をして何カ月もたってようやく人が集まったという。
「あの頃の台湾人ビジネスマンは皆一人でやってきて、他人には分からない苦労がたくさんありました。その辛さを皆一人で背負っていたのです。悪い人にひっかかり、現地のパートナーに会社を乗っ取られたり、従業員のストに遭ったり、誰もが同じような経験をしたものですよ」と李博禧は言う。
2001年、李博禧の会社ではある顧客からの注文がキャンセルになり、大きな打撃を受けた。アメリカのゴルフ・ブランドが、911同時多発テロの後、イスラム国家への注文を控える動きに出たのである。李博禧は友人から他の仕事を回してもらい、何とか売上の穴を埋めた。

インドネシア経済が急成長し、ンゴロ工業団地の土地も完売した。
世代交代――専門性の時代
王鴻博は家族が経営するメタルズ・インドネシアのアルミ事業を引き継いだ。上の世代のようにゼロから起業したわけではないが、11歳の時に父親とともにインドネシアへ移住したため、幼い頃からさまざまな問題を見聞きしてきた。インドネシアに来て間もなく、父親の会社がパートナーに乗っ取られて負債を抱え、ホテルや友人の家を転々としたこともある。
2004年、王鴻博は日本での留学生活を中断して帰国し、インドネシアの会社経営に加わった。会社の事業を理解するために、まだ20代の彼は毎日ほとんどの時間を生産ラインで過ごした。
会社のアルミ事業部門を引き継いだころ、周囲からは「こんな若造が」と見下され、相手にされないこともあったが、王鴻博はそんなことは気にしなかった。「結果が証明してくれる」と信じていたからだ。彼が会社経営を引き継ぐ前、総経理は何人も入れ替わったが業績は上がらなかった。それが、彼が引き継いで十数年で「当時は工場に2台しかなかったマシンが今は30台まで増えました」と言うのである。
王鴻博は1976年生まれ、インターナショナルスクールに通い、後に日本に留学して専門能力を身につけた。台湾企業の世代交代については、「外部からのプレッシャーより、上の世代との経営理念の違いこそ最大の課題でしょう」と言う。かつて台湾人経営者は一匹狼で長年苦労しながら戦ってきたため、それが積み重なり、「社長の一言ですべてが決まる」という体制が築かれてきた。中小企業では経営の専門性が欠けており、専門性を強調する若い世代が経営に加わると世代間の衝突が生じるのである。
年配の経営者が引退する年齢に達し、若い世代による引き継ぎの問題が浮上している。幸い台湾の若い世代は、上の世代の臨機応変さと欧米流の専門的概念を併せ持っている。

IDPグループの閻文台董事長はスラバヤを基地として紙袋王国を築き上げた。
現在進行形のインドネシア
多くの台湾人企業家が20年以上に渡ってインドネシアで奮闘してきたのに対し、順昶塑膠(スワンソン・プラスチックス)は今年7月に初めてスラバヤに工場を設立した。
台湾聚合化学品(USIコーポレーション)傘下の順昶塑膠は、主に紙おむつや生理用品に用いるPEフィルムを生産しており、スラバヤの他に中国大陸の天津やマレーシアのペナンなどにも生産基地を持つ。インドネシアに進出したのは、「一つには顧客の拠点展開に伴って、もう一つはインドネシアの国内市場の成長を見込んでです」と工場長の呉文郁は話す。
人口が多く、全人口に占める新生児の割合が多く、近代化が進んでいることなどが投資を決める指標となるが、新興のインドネシア市場はこれらの条件を満たしている。呉文郁によると、インドネシアの人口は2億6000万人で世界で4番目に多く、新生児の割合は極めて高い。また女性の就労率が高く、所得が増加している一方、家事にかけられる時間は限られ、そのため紙おむつや生理用品などの消耗財の消費が増えているという。
6年前、順昶塑膠はインドネシアで衛生用品の主要な原材料生産地であるジャカルタとスラバヤを視察した。交通渋滞の激しいジャカルタを視察していた時、ちょうど大雨が降って主要道路は水に浸かり、工場設置に不利な条件がすべて浮き彫りになった。これらを考慮して、最終的にスラバヤへの進出を決めたのだという。
現在は60人の2本の生産ラインで毎月2400トンの生産キャパシティだが、第3ラインの準備も進んでおり、その生産がスタートすれば工場全体の生産能力は4000トンに達する。
現在、スラバヤには300以上の台湾企業が進出している。現在、スラバヤ台湾工商聯誼会の理事長を務める黄麗真は、数十年前に台湾企業の進出が始まったばかりの頃から現在までのインドネシアを観察してきた。
「当時、台湾企業のスラバヤ進出第一波は高雄の大発工業区から移転してきた自動車部品工場が中心でした」と黄麗真は言う。その後、繊維産業や既製服産業が進出してきた。スラバヤに工場を設ける台湾企業の大半は中小企業で、これまでに特定の産業が集中して投資することはなく、分野はさまざまである。黄麗真は当時のスラバヤで、台湾人がよく集まって食事をしていたことを思い出す。「わずか3キロの範囲で、台湾人ビジネスマンが何カ所にも集まっているのです。台湾人が最も多かった頃、スラバヤからは毎日台湾への直航便が出ていました」と言う。
当時を振り返れば、異郷での辛い毎日だった。スラバヤ市街地に賑やかなショッピングモールが建ち始めたのはつい最近のことだし、かつてはインフラも不足していて道路状況も悪く、通信設備の普及率も高くなかった。
だが、そうした状況も少しずつ改善している。スラバヤの台湾企業会館の近くを見れば、以前は荒れ野原だったところに真新しい住宅が次々と建てられている。
「まだまだ改善の余地がありますが、インドネシアは着実に進歩しつつあります」と黄麗真は言葉を結んだ。

多くの有名ブランドの箱や紙袋はIDPの工場で作られている。

多くの有名ブランドの箱や紙袋はIDPの工場で作られている。

(右)かつての異郷での苦労を語るLezen Indonesiaの李博禧董事長。

(下)人件費が安いことから、インドネシアを投資先に選ぶ台湾企業は多い。

専門的な経営モデルを導入することで、台湾企業の二代目である王鴻博は親から引き継いだ会社をさらに成長させている。

スワンソン・プラスチックスの呉文郁工場長。

工商聯誼会の黄麗真理事長は、スラバヤの今後の発展に大きな期待を寄せている。(左はスラバヤの英雄記念碑)