「台湾は商売がやりやすいですよ。親戚から骨董市場は今後10年は大丈夫だと言われたので、私はすぐに親戚を頼りにマカオから渡ってきました」と語るのは、台北市光華商場の一角、俗に「マカオ街」と呼ばれる休日に開かれる「玉市」で玉を売っている陳さんだ。
台北には「マカオ街」が二ヶ所ある。一つは八徳路、市民大道、新生北路高架線に囲まれた光華商場の玉市のあたりだ。土日と祝祭日にしか市は開かれないが、数年前の玉がよく売れた時期には、ここに200近い露天商が連なっていた。「その9割はマカオの人です」と話すのは、同じ光華商場で「百城堂」という古本屋を営む林漢章さんだ。台北のもう一つのマカオ街は、台北駅北口の華陰街あたり、ここでは毎日午後に市が立つ。「両方とも骨董市ですが、品物は光華商場の方が少し上ですね」と林さんは言う。
台湾へ来るマカオ人の大部分は福建省の出身で、彼らの話す北京語には強い広東訛りがあり、互いに話す時は福建の方言である閩南語や莆田語を使っている。「莆田の人は玉を、泉州の人は骨董を売っていることが多いようです」と林漢章さんは言う。
台北のマカオ街がいつ形成されたかは確認できないが、十数年前には、ある程度の規模になっていた。これには幾つかの原因がある。
まず、1994年まで台湾の華僑戸籍登記法では香港・マカオの住民(華僑)は定住することができたことが挙げられる。また1980年代まで、マカオのポルトガル政府は大陸からのマカオ移住にあまり厳しい規制を設けていなかったため、親戚を頼って大陸からマカオへの移住を申請する人が多かった。1989年の天安門事件の際には、マカオ政府は特別に大陸から5万人の移住を認めたほどである。これらの大陸出身者の多くは福建の人だった。彼らはマカオに定住する権利を得た後、我が国のマカオ駐在機関が発行する華僑証明を受け、一人また一人と知合いや親戚を頼りにして台湾へ移ってきたのだと、玉市によく出かける楊さんは言う。
市場の需要の大きさも、彼らの台湾移住を促した。マカオ出身者と付き合いの多い林漢章さんは「台湾の骨董市場は実に大きいものです」と言う。大陸が開放されてから、骨董品の供給源は増えたが、初期には文物の輸出が厳しく管制されていたため、マカオの人々がこの市場を狙って自ら手荷物の形で品物を運んでくるようになったのである。
マカオから台湾へ来た人にはそれぞれに物語がある。文化大革命の時にマカオへ逃れた人もいれば、より良い生活を求めてきた人もいる。福建の内陸部から親戚を頼ってマカオへ移り住み、それから就労のために台湾へ来て、台湾の身分証明書を手にした人もいる。玉市に店を持つ林さんは、台湾に来て10年余りになり、子供は台湾の学校に通っているし、家も購入し「台湾はもう私の故里です」と言う。この林さんは週に1度大陸へ行って品物を仕入れている。広州、北京、河南、山東など、良い品さえあればどこにでも行き、大陸へは通常マカオ経由で入るそうだ。このように台湾海峡両岸の三つの地域を行き来しているマカオ出身者は少なくない。
このようなマカオ人は数多くの身分証明書を持っている。ポルトガルの身分証明書、マカオの住民証、中華民国のパスポートなど、行く先々で異なる証明書を提示しているのである。天珠や翡翠を扱っているある女性も、自分は幾つもの身分証明書を持っていると言う。彼らの多くは台北でも家賃や土地のやや安い蘆州、土城、三重などに暮していることが多い。
林漢章さんによると、最近台湾に着たばかりで、まだ家を手に入れていない人の多くは、台北市新生北路高架線の脇にある紫雲旅館に泊っているそうだ。旅館の足下には光華商場の玉市があるが、玉市は休日しか開かれないため、平日は台湾各地を回って骨董品を売っているのである。
玉市によく出かける楊さんによると、近年大陸の文物は台湾でよく売れていて、その多くはコンテナごと香港経由で台湾に運ばれてくるという。「時には、コンテナ車がそのまま来て、中の木箱も開けられていないこともあります。つまり税関も検査をしていないのです」と楊さんは言う。マカオの人々が入荷した貨物がそのまま紫雲旅館へ届くこともあるし、莆田出身者の品物なら台北市長安東路にある「台南旅社」へ届く。「そういう時に行くと、旅館全体がさまざまな骨董品で埋め尽くされています」と語る楊さんも、しばしば自ら足を運んで品定めしていると言う。
林漢章さんは、台北の骨董品店の商品の大部分はここから来ているのだから「マカオ街」を馬鹿にはできないと言う。彼は毎週必ず玉市を一巡りしているが、しばしば良い品に巡り会えるそうだ。
「マカオ街」は、台北にもう一つの風貌をもたらし、骨董品に精通したマカオの人々は、台湾の骨董品愛好者に交流や学習の場を提供している。暇があったら台北のマカオ街をぶらついてみてはどうだろう。思いがけない収穫があるかも知れないではないか。