マカオ国際空港の利用状況を見ると、昨年1年間だけでのべ100万人の台湾の旅客がここを通って中国大陸やマカオに入境している。マカオの空港を利用する旅行者の8割を台湾人が占めているのである。マカオの公務員のうち1000人以上がかつて台湾に留学した経験があり、また毎年3万人のマカオの人々がビジネスや就労などの関係で台湾を訪れ、400人以上の学生が台湾に留学している。だが、中共が「マカオの『一国二制度』は台湾問題の解決への手本を示すものだ」と大々的に政治的宣伝を行なう中で、これらのデータは、マカオの主流メディアからは故意に軽んじられている。
マカオと台湾という近くて遠い二つの地域には、どのような関係と縁があるのだろう。1999年末にマカオが返還された後、両者の関係にはどのような変化が起るのだろうか。
1999年12月19日にマカオの主権が返還される直前、台湾の有力紙「中国時報」が、台湾でマカオの返還に関する世論調査を行なった。その結果を見ると、31パーセントの人がマカオが12月末に中共に返還されることを知らなかった。また返還がマカオの将来にとって有利にはたらくかどうかという問いに対しては、53パーセントの人が「わからない」と答えている。だが、香港やマカオのように「一国二制度」によって台湾問題を解決することを受け入れられるかどうかという問いに対しては、27パーセントの人が「わからない」と答え、59パーセントの人が「受け入れられない」と答えている。
この世論調査は一つの事実をはっきりと示している。台湾とマカオとの間には人の往来はあるが、台湾人はあまりマカオについて知らず、またマカオの朝野が中共と一緒になって台湾問題は「一国二制度」で解決すべきだとしているのに対し、半数以上の台湾の人々は否定的な見方をしているという点である。
マカオと台湾は飛行機で1時間半の距離だ。マカオ大学の黄漢強教授が言う通り「朝一番の飛行機でマカオへ着いた後、ウェスティンホテルでコーヒーを飲みながら商談をし、午後はマカオの離島でゴルフをしてから本島の繁華街を散歩して、最終便で台湾へ戻ることができる」距離なのである。しかし数十年に渡り、双方の関係はあまり注目されてこなかった。1999年12月にマカオが返還された後、双方の関係はどう発展していくのだろう。
マカオ政府の行政・公職司のオフィスに入ると、30〜40代の働き盛りの人々が大勢働いている。行政・公職司人材資源庁の招聘・採用処で処長を務める譚恵珠さんは、オフィスの中を案内してくれながら、台湾への留学経験のある同僚を次々と紹介してくれる。譚恵珠処長も1985年に台湾の師範大学教育心理学科を卒業し、87年にマカオ政府教育司に就職して行政・公職司に異動になり、わずか11年で処長にまで昇格したのである。
譚恵珠さんは、マカオ政府に務める多くの台湾留学経験者の一人に過ぎない。マカオ政府行政・公職司によると現在のマカオ政府の職員のうち、台湾の学歴を持つ人は200人に過ぎないが、我が国の駐在機関の推算では、少なくとも1000名以上が台湾の学校の卒業生だという。
マカオ政府に勤務する1万7000人の公務員に占める台湾留学経験者の割合は、それほど高くないように思われる。だが台湾留学経験者の多くが管理職や高級技術職に就いているマカオ特区政府は、台湾留学経験者のまったくいない香港特区政府と比べると、台湾とはかなり縁がある。現在、マカオ政府で働く台湾留学経験者のうち最も高い地位に就いているのは、数ヶ月前にマカオ特別行政区のエドムンド・ホー行政長官が、政務司長に任命した5人のうちの1人、運輸・公務司の司長となった区文龍氏だ。氏は台湾大学機械工学科の卒業生である。
大々的に「一国二制度」による返還が進められる中、マカオ政府内部の「台湾関係」には非常に敏感なものがあり、それが表立って論じられることはない。例えば、台湾の多くのマスコミが区文龍司長にインタビューを申込んでも「多忙」ということで全て断られた。ところが香港のマスコミがインタビューを申込むと、区司長はすぐにそれに応じて、マカオの発展について語っているのである。本誌もマカオ政府の規定に従って、マカオ返還式典の取材許可を申請していたが、最終的に「保安司の審査をパスしなかった」という理由で許可証が得られなかったのである。また「駐マカオ台北貿易旅行弁事処」は、マカオ返還後には看板を掲げることはできないと暗に警告された。その問題の処理が妥当ではなかったとして同処の厲威廉処長は政府大陸委員会から処罰される可能性もあった。このような数々の問題は、1997年の香港返還の際には生じなかったもので、ここからもマカオ特別行政区政府の慎重さがうかがえる。
マカオ政府の高級管理職の多くは、自らの出身を語る時、台湾での学歴の他に地元のマカオ大学やポルトガルのリスボン大学、あるいは大陸での学歴なども列挙する。「こうして自らの学歴を正当化するのです」と語るのは、マカオで生まれ育ち、マカオの主権問題をテーマに博士論文を書いた「中国時報」紙香港・マカオ駐在主筆の譚志強さんだ。
マカオ政府の職員に台湾留学時の話を聞くと、高級管理職になるほど、警戒して本音を話さなくなる。「どこで勉強し、どの学校を卒業したかは重要ではありません」マカオ政府新聞司で高級技術員として働く陳明瑛さんは、マカオ政府は能力と専門分野を見て人を採用するのだと説明する。また台湾大学を卒業したある公務員は、台湾に留学したのは4年間に過ぎないため、台湾で何か影響を受けたとは言い難いと語った。
そうは言っても、1955年から今日にいたるまで、マカオからは毎年少なからぬ学生が台湾へ留学してくる。政府華僑委員会の統計によると、ここ十年の間にマカオからは合計6000名ほどの学生が台湾の学校に学びに来ている。また、マカオ大学マカオ研究センターの黄漢強教授によると、当地の高校卒業生の約3割が、台湾がマカオで行なっている華僑学生留学試験を受けている。今年だけでも700人がこの試験を受けて600人が合格し、400人以上が台湾へ留学している。毎年合計1600〜2000人ほどのマカオの学生が台湾で学んでいるのである。
台湾の大学を卒業した人が大勢いるにも関わらず、あまり「親台」的と感じられないのには、歴史的な原因があるのかも知れない。
1966年、マカオでは地元住民とポルトガル警察が衝突し、少なからぬ住民が殺害されるという「一二三事件」が発生した。その際、中共との関係が深いマカオの左派勢力が、この機に乗じてマカオにおける国民党勢力を排除しようとし、国民党のマカオ駐在機関を封鎖し、その主な職員を追放したのである。これ以降、台湾の関係者はマカオを「半解放区」と呼ぶようになった。
では半解放区と呼ばれるほど共産勢力の強いマカオから、なぜこれほど多くの学生が台湾へ留学してくるのだろう。「これにも歴史的な原因があります」と話すのは、マカオ台湾留学同窓会の前理事長である区金蓉さんだ。区金蓉さんはマカオ特別行政区の第1回推選委員であり、特別行政区準備委員でもある。その話によると、1980年代までマカオには大学・短大が設置されておらず、高校卒業後に大学に進みたい場合は海外へ出るほかなかった。また1980年代の中頃までは、大陸の大学も外部の学生を受け入れておらず、香港の大学は数が少なくて入学が難しいため、海外の学生を積極的に受け入れていた台湾の大学が、自然と多くの学生の選択となったのである。
「費用と効果という点から見ても、台湾留学は悪くない選択でした」と話すのは、マカオ市の清掃・環境保護処の処長代理で台南の成功大学土木工学科を卒業した汪雲さんだ。汪さんによると、台湾の大学は教員の質も設備も良く、マカオの学生は台湾の大学で学んだことを将来の仕事に行かすことができるという。
また香港の植民地政府と違い、ポルトガル政府は台湾の大学の学歴を認めてきた。80年代中頃になり、香港とマカオの返還の時期が決まってから、マカオではようやく特別行政区政府の「マカオ人によるマカオ統治」のための準備が始まった。マカオ政府による「公務員の現地化」政策が始まると、社会の他の分野で活躍していた台湾留学経験者が次々と公務員へと転職し、政府の中堅を成すようになっていったのである。
「海の中に魚がいなければ、小エビが大魚に変るでしょう」と言って笑うのは、1973年に台湾大学経営学科を卒業した梁金泉さんだ。80年代中頃以降に大陸の大学へ進んだ若い世代に比べ、台湾留学経験者は早くから社会に出て、政府機関へも就職していたため、昇級が早いように見えるのだと言う。「しかし、台湾の大学が良い教育をしてくれたという点も否定できないでしょう」と台湾同窓会の秘書を務める梁鴻細さんは笑う。
政府部門だけではない。民間でも台湾留学経験者はマカオ社会の中堅として活躍している。梁金泉さんは、マカオ最初の会計士の一人であるだけでなく、立法会議員に選ばれたこともあり、現在はマカオ特別行政区の推選委員も務めている。一方、台南の成功大学土木学科を卒業し、今は台湾同窓会理事長を務める梁文耀さんも、マカオでは有名な土木エンジニアで、海事博物館の周辺景観や返還式典会場建設の総監督なども務めてきた。
お隣りの香港に比べると、1999年の返還に対してマカオ住民からの反発は少なく、返還を前にして海外移住する人も多くはない。すべてが順調に進んでいるように見える。しかし国際社会もマカオの人々も、返還後の特別行政区政府が、ポルトガル政権が残した経済や治安の問題を妥当に処理できるかどうかを心配している。
「文官の現地化、法律の現地化、公用語の中国語化」という「三化」問題も人々の議論の的となっている。多くの人が心配しているのは、今後重大な責任を担う文官の引継ぎが遅く、また政府の構成メンバーが若すぎることだ。マカオ政府公職司の統計によると、同政府の構成員の65パーセントが40歳以下ということで、仕事や行政面での経験不足が心配されている。
「香港では1970年代の中頃から、地元の人材育成が始まりましたが、マカオの場合は1980年代の中頃になって、ようやくそれが始まったという状態で、準備を始めた時期が香港より10年は遅いのです」と梁金泉さんは説明する。
「法律の現地化」という点では、すでに問題が出始めている。マカオ中華ラテン基金会の執行委員主席である魏美昌さんは次のように説明する。ポルトガル政府はマカオを400年に渡って統治してきたが、その間、華人のポルトガル語教育に力を注いでこなかったため、ポルトガル語に精通した中国人は非常に少なく、なおかつ法律知識がある人はもっと少ないのが現状だ。そのため、ポルトガル政府が残した大量のポルトガル語の法律を、返還後のために改正し「現地化」するために中国語に直していく際に、多くの困難が生じたのである。
マカオには司法関係の人材が不足しているため「法律の現地化」のためには内地――大陸の法律家の力を借りるしかなかった。「しかし内地で用いられている社会主義の法律と資本主義化したマカオの法律は、観念的にも精神的にも相容れないのです」と魏美昌さんは言う。それに比べると、観念的に近い台湾の大学で学んだ法律家の方が「法律の現地化」という点では重要な役割を果たすことになった。
では、台湾の学校を卒業した彼らは「台湾・マカオ関係」において、どのような力を発揮できるのだろう。ある卒業生は、敢えて論ずるまでもなく、互いに人脈があるのだから、コミュニケーションの役割は果たしていると言う。区金蓉さんによると、新華社香港支社台湾事務部の楽美真前副部長は、かつてマカオの台湾留学経験者に「積極的に懸け橋としての働きをするよう」奨励したそうだ。また昨年4月には、台湾の行政院大陸委員会がマカオの台湾留学同窓会のメンバーを台湾へ招いて、台湾とマカオとの関係に対する彼らの意見を聞いたと梁鴻細さんは言う。
マカオ大学マカオ研究センターの副主任である黄漢強さんは、当地にはこれらの留学経験者がいるため「台湾人が何かをするには比較的便利だ」という点が、台湾のマカオでの発展には有利だろうと言う。マカオにある台北経済文化センターの厲威廉さんも、彼らの働きを肯定する。「政府機関で非常に高い地位に就いている人を除いて、台北経済文化センターから電話をかけたり、集まって食事をしたりするのも問題はありません」と言う。
しかし台湾留学経験者である譚志強さんは、一緒に食事をするのは構わないが「親中」と「親台」の二つに分けるとしたら、親中派が主流を占めるマカオにおいて、敢えて親台派になろうとする留学経験者はいないだろうと言い「台湾と大陸のどちらが近いかを考えてみてください」と問いかける。
面積23平方キロ(台北市南港区に相当する広さ)、人口43万人のマカオには「まだ農業社会の雰囲気が残っています」と話すのは梁金泉さんだ。マカオでは人と人との関係は緊張感に満ちたものではないし、左派や右派といった区別も香港ほど明確ではない。梁金泉さんによると、マカオの華人社会の広さは限られているため、自分や他人の派にこだわっていると、何事もうまくいかなくなるのだそうだ。「香港人と違って、マカオの人々は政治を論ずるのが好きではなく、むしろ経済の方を重視しています」と語る梁さんは、自分は「民生現実派」だと言う。
マカオでは「親中」勢力が強いが、これまでポルトガル政府は民生面の考慮から、台湾との関係において、中共からの圧力をあまり気にせずにやってきた。
例えば、台湾同胞がマカオへ行く際にビザは必要ない。「マカオでは領事関係のある40数ヶ国に対してはビザを免除していますが、台湾は外交関係がないのにビザの必要がない唯一の地域です」と黄漢強さんは言う。また香港と違い、台湾の高級官僚や要人もマカオへは自由に行くことができる。政府経済建設委員会の江丙坤主任委員も返還前にマカオを訪れた。この他に、中国大陸の民主運動家の吾爾開希氏がマカオ経由で大陸に入ろうとした時、大陸側は当然入国を拒否したが、マカオ政府は氏の入境を許可したのである。
マカオに暮らす台湾人ビジネスマンに対しても、マカオ政府は「民生面」での管理に留まっている。マカオ台湾総商会会長の陳忠勇さんも、そうした中の一人だ。
陳忠勇さんは十年前にマカオに移り住み、マカオ空港が開かれるまで、小型飛行機を使っての空中遊覧の仕事をし、空港が開かれてからは酒類の販売業に変った。陳さんは大陸へ行く時には「マカオ住民証」を使い、台湾に戻る時には中華民国のパスポートを使っている。台湾企業のマカオへの投資を促進するために、陳さんは台湾の統一企業グループの高清愿総裁のガイドを買って出たし、大陸側とのコネをつけるために、マカオ新華社で衛星テレビの設置にも協力したという。しかし、小学生の孫が広東語ばかり話して母語を忘れてしまうのが心配になり、台湾の学校で学ばせるために台湾へ送り返したそうだ。
「イデオロギーで是非を論じてはならない」というのはマカオに暮らす台湾関係者の共通の認識の一つだ。そして、もう一つの共通の認識は、台湾とマカオの関係は過去においては積極的に推進されてこなかったが、主権が返還された後の関係は、これまで以上になるというというものだ。
陳忠勇さんによると、マカオの家賃は香港の4分の1に過ぎず、またEUとの関係から免税や減税、割当枠の優遇などが享受できる。「台湾企業は、これらのメリットに気付いていません。皆、マフィアの抗争などの治安面にばかり注目しています」と陳さんは言う。その話によると、マカオの治安問題はギャンブルの利益分配から起るマフィア同士のもので、一般市民が被害に遭うことはないという。彼は、治安を心配することなく、より多くの台湾企業がマカオに投資することを望んでいるのである。
だが、陳忠勇さんの見方は楽観的すぎると指摘する人もいる。広東省東莞に投資している台湾人ビジネスマンの陳明致さんは、マカオの人件費は安くないし、後背地は狭く、水深の深い良好な港がなく、天然資源も少ないため、大陸に比べると台湾企業の投資意欲は低いと言う。これに対して「マカオへの入境はビザが免除されているので便利で、情報も開放されているため、一つのサービス基地として活用できます。台湾を研究開発センターとし、広東省珠海を製造基地とし、マカオを対外貿易の窓口としてEUへの輸出を強化できます」という黄漢強さんの分析は現実的だ。
この黄漢強さんの分析は、台湾海峡両岸の間におけるマカオの役割を明らかにしており、これこそが台湾とマカオとの関係の重点と言える。「マカオは土地が狭く、中国大陸の傍らに位置するため、経済的には典型的な『浮遊形態』に属し、外からの影響を大きく受けます」と会計士の梁金泉さんは言う。香港が金融危機に襲われた時にはマカオも同時に大きなダメージを受け、失業率は7パーセントに達した。その際、台湾企業も援助したが、珠海に投資する香港企業による援助にはかなわなかったのである。
こうした経済面の他に、台湾とマカオとの間にはどのような関係があるのだろう。
16世紀にポルトガル人が到来して以来、マカオは東西文化の交流の地となった。魏美昌さんによると、マカオの対外交流の歴史は香港のそれより300年早く始まっており、明朝や清朝によって鎖国されていた時期でも、マカオは西は南アジア、アフリカ、ヨーロッパから東は日本や東南アジア、南アメリカまでを結ぶ「海のシルクロード」の重要な拠点だったのである。
「イエズス会は、ここに極東で最初の西洋式の大学を置きました。清代に西洋の学問を学んだ洪秀全、林則徐、梁啓超、康有為、鄭観応らは皆マカオで多くを学んだのです」と魏美昌さんは言う。マカオは大戦の戦火に見舞われることもなかったため、ポルトガル語の文献が完全に保存されており、東西文化や宗教の交流史の研究者にとっては宝の山となっている。これは、近年東西文化の交流や海洋文化の島に対する影響に関心を持っている台湾の学者にとっても興味深いものに違いない。
またマカオは学術界にとってラテン語系の世界へ入る入口でもある。魏美昌さんによると、マカオの歴史は長く、ポルトガル語の歴史的文献が数多く残されているだけでなく、マカオ大学にはポルトガル語の教師も大勢いて、1万名以上の生粋のポルトガル人の半数以上が返還後もマカオに残ることになっている。また幾つかの文化団体がポルトガル文学の翻訳やポルトガル文化の保存に取り組んでいる。「ポルトガル語を学ぶならヨーロッパへ行く必要はなく、マカオへ来れば充分です」と魏美昌さんは言う。面積の狭いマカオだが、美術館や博物館は12もあり、その数は香港より多い。「一つの経済体としてはマカオは小さいのですが、文化の地としては十分に大きいのです」と言う。
マカオ福建同郷総会の会長を務める顔延齢さんによると、歴史的にマカオ、台湾、福建南部の三者の関係は途絶えたことがないという。マカオに観光旅行に行けば、蓮峰廟や関閘望廈村などで福建人の史跡を見ることができる。実はマカオという地名も、数百年前にここへ漁に来ていた福建の人々が建てた媽祖廟の「媽閣」(Macau)から来ているのである。
マカオ福建総商会常務副会長の呉在権さんによると、80年代以来、大陸から10万に上る人々がマカオに移り住んできたが、そのほとんどは福建から来ているという。また現在、年間3万人がマカオから台湾へ来て就労しているが、その大部分も福建出身の親戚を頼りにして移り住んでいる。「同じ媽祖を信仰し、同じ郷里から来ているので、台湾とマカオとの間には共通の話題がたくさんあります」と顔延齢さんは言う。また「学術的には孫文や植民地経験などの共通点もあります」と語るのはマカオ基金会管理委員会委員の呉志良さんだ。
政治的には、マカオは「両岸関係の潤滑と促進の地」になり得ると語るのは黄漢強さんだ。マカオ空港を経由すれば飛行機を乗り換えずに台湾から大陸へ直接行けるし、返還後もビザを申請する必要はなく、政府関係者も自由に行き来できるなど、マカオの対応の柔軟性が感じられる。「両岸関係発展においてはマカオは促進作用を持つでしょう」と黄さんは言う。
しかし譚志強さんは、マカオに暮らす中国人の4分の1は、ここ10年の間に内地(大陸)から移り住んできた人だという点に注意すべきだと言う。イギリス香港政庁と違い、ポルトガル政府は中国大陸の政権とあまり衝突せずコミュニケーションを取り、妥協してきたため、返還に当っても香港のように民主派が激しい行動に出るというようなこともなかった。マカオの華人は決して「反中国」ではないのである。したがって「台湾の人々はマカオの『親中』的な感覚に触れた時、それに同調するべきです」と言う。
だが返還に対するマカオの人々の気持ちは、決して表に見える喜びだけに満ちたものではないし、四百年に渡るポルトガル統治が残したのも西洋風の町並みやポルトガル料理や教会だけではない。最近、マカオ大学では「返還ワークショップ」という講座が開かれ、マカオ返還を単独の研究課題として扱ったが、これは大きな反響を呼んだ。マカオ政府や民間も、マカオの歴史と位置付けを論じるシリーズの書籍を出版しており、マカオの人々も自らのアイデンティティを探し求めているのである。
マカオと台湾との関係は中国大陸によって接近し、また中国大陸の存在によって遠いものとなっている。
世界中のマスコミが注目する中、華々しい返還式典は終った。マカオの繁華街を歩くと、台湾名物の看板を掲げた饅頭の「鼎泰豊」や飲料の「快可立」が店を構えているし、すでにマカオの代名詞となった「エッグタルト」の店もあって、どこも繁盛している。商売人にとって台湾とマカオとの間には壁はないのである。
政権の返還は華々しく行なわれたが、人々の生活は今後も平凡に続いていく。人類が故意に設けた境界線や垣根は、最終的には人類の手で打ち破らなければならないのである。