アチェは反乱と殺戮の荒野ではない/アチェは貧困と排他の未開の国ではない/かつては文明発祥の玄関であり/豊かで強い彼の地であった
これは新台湾人文教基金会の林正修副執行長が、2005年8月15日にアチェが和平協定を結んだ時に書いた「アチェを忘れるなかれ」という詩だ。
大津波に見舞われたアチェに各国の救援団体が入ってアチェの神秘のベールが解かれ、30年近く戦われてきたアチェ独立運動が多くのNGOの共鳴を得ることとなった。
1976年にスウェーデンで結成された「自由アチェ運動」組織は、1950年代に幾度も起きたゲリラ戦に端を発する。50年余りにわたる流血の原因は何なのだろう。大津波による停戦は維持されるのだろうか。
早朝5時、まだ暗い頃、バイトゥルラーマン・モスクから朝の祈りの声が流れ、アチェ州の州都バンダアチェの一日の始まりを告げる。
3年前のあの壊滅的な大地震と津波で、バンダアチェの大半は廃墟と化したが、アチェの人々が最も誇りとするバイトゥルラーマンは津波に耐え、ここへ逃げ込んだ人々は助かった。その後、この寺院は被災者の心の支えとなった。被災したイスラム教徒が次々とここを訪れて亡くなった家族のために祈りを捧げ、アラーから生きる力を授けられた。
「これはアラーから与えられた試練です」とアチェの人々は言う。敬虔な信仰に支えられて災害を乗り越えたように、かつてアチェは信仰に支えられて栄光の戦役を戦ってきた。

バンダアチェの肥沃な大地ではパパイアやココナッツも豊かに実るが、一般住民の生活は苦しい。
アチェ州は面積5万7000平方キロ、住民400万人の98%はイスラム教徒で、2300のモスクがある。空港やレストランなどにも祈祷室があり、1日5回の礼拝の時間になると、人々はすべての作業をやめ、靴と帽子を脱いで祈りを捧げる。
保守的なイスラム教文化がいたるところで見られる。どんなに暑くても女性は頭にスカーフを被り、肌を露にしない。男性も膝より短いズボンははかず、未婚の男女が二人きりになることは許されない。小学校を出た子供の多くはコーランを学ぶ学校に入学する。

このように宗教的色彩が濃いためか、アチェの独立運動は宗教紛争とされることが多い。しかし「それではアチェ問題の複雑さを見過ごしてしまいます」と台湾では珍しくアチェ分離運動を研究する政治学者、真理大学の陳俐;甫助教授は言う。西洋の学界では、アチェとイスラム教原理主義陣営の関係と、インドネシア政府が西寄りであることから、アチェ独立運動を近代西洋文明と古いイスラム文化の衝突ととらえる人が多い。しかしインドネシアが世界最大のイスラム教国家であることを考えると、宗教の相違は内戦の主因ではないことがわかる。
アチェの歴史とアチェとインドネシア政府の関係という二つの面からたぐっていくと独立運動の脈絡が見えると陳助教授は指摘する。「インドネシア」という国家のイメージは17世紀のオランダ植民地時代の産物だ。オランダはその統治下に置いたさまざまな形態の国家――長い歴史を持つジャワ王国やスマトラ王国、あるいは多数の先住民集落や海賊が統治する島などを、自国の政治経済的利益にしたがって一つのオランダ領東インド(インドネシア)と呼んだのである。そして共同体意識の確立と行政の便のために、マレー語を基礎としたインドネシア語を作り出し、近代主権国家の基礎を確立した。
しかし、インドネシアの大小の島々をオランダが統治していた300年間、スマトラ西北端のアチェだけはその支配に抵抗し続け、ついに40年にわたる「アチェ戦争」でオランダは悲惨な代償を払い、1912年にようやくアチェを支配した。
1939年に太平洋戦争が始まり、日本軍がオランダ領東インドに侵攻してきた時、アチェはわずか4日で植民者を追い出し、ジャワ島より先にオランダから独立した。「アチェがオランダに統治された期間はわずか30年で『洗脳』されるに至っていないため、自分たちがいわゆる『インドネシア人』だとは思っていないのです」と言う。
アチェが他の島々より長く独立を保ち、スルタン国として繁栄したのは、経済的、軍事的実力があったからだ。

アチェは石油、コーヒー、パームオイルなどの天然資源に恵まれているにも関わらず、インドネシアで最も貧しい省の一つである。経済的な剥奪感による不満がアチェ独立運動の要因の一つとなっている。
「スルタンとはイスラム世界の俗世の統治者を意味します」と陳俐;甫助教授は説明する。イスラム教は7世紀に中央アジアからインドに伝わり、交易を通してバングラデシュからインドネシアに伝わった。航路上インドから最も近いアチェは、イランやトルコ、インドによる宣教の重要な拠点となった。
イスラム教はアチェからスマトラ、マレーシア、タイ南部、ボルネオ、フィリピンへと放射状に広がっていった。こうしてアチェは「メッカの前庭」と呼ばれるようになった。
「イスラム教がいつアチェに伝わったかは明らかでないが、13世紀にはすでにスルタン国が存在した」とアチェ分離運動を修士論文のテーマとした淡江大学東南アジア研究所の劉青雲さんは述べる。16世紀以降、アチェのスルタンは地理的な優位性を活かし、マラッカに代って東西貿易における地位を勝ち取り、経済力と軍事力でイスラムの「聖戦」の信念を貫き、マラッカ海峡を中心とするイスラム王国を確立した。大航海時代にはイギリスと友好条約を結び、米仏とも公式な関係を持った。アチェのスルタン国は早くから国際社会に承認された主権国家だったのである。
輝かしい歴史と強い信仰を持つアチェは、第二次世界大戦後にはジャワとともにオランダに抵抗してインドネシアの独立建国を促した。しかし1950年にスカルノが、新国家はイスラム国家ではなく共和国であると宣言した時、アチェの人々は騙されたと感じ、共和国への加入を拒絶した。

アチェの人々は裏切られたと感じた。アチェは反オランダ独立戦争に大きく貢献したにも関わらず、ジャワ勢力を中心とする新政府は、アチェの独立国家としての地位を否定し、アチェがイスラム法を採用することを禁じた。翌年、インドネシア政府はアチェ指導者と話し合い、アチェを一省として宗教と教育に関する一部の権限を与えることとしたが、その約束は果たされず、1953年にアチェは反乱を起した。以来、大小のゲリラ戦が絶えなくなった。
さらに1970年代、インドネシア政府がアチェを経済的に搾取したことが「自由アチェ運動」の結成を促した。
陳俐;甫助教授によると、1965年に権力を手にしたスハルトは、外資導入、経済開発優先、軍による安定などを強調し、官僚と軍人を中心とする政党が結成された。70年代には工業生産が急成長して国は繁栄したが、その利益は、外資と軍関係企業家と華僑の三者に握られ、一般国民が恩恵にあずかることはなかった。
スハルト政権が続いた33年間、大統領親族の特権が各地に浸透し、資源分配においてはジャワ人だけが優遇された。アチェでは石油と天然ガスが採れるが、油田の管理階層はジャワ人で、アチェの人々は下層の仕事しか得られなかった。さらにアチェ人の不満を買ったのは、アチェの資源で得た莫大な利益が首都ジャカルタの建設に使われ、現地にはもたらされなかったことだ。
劉星雲さんの論文によると、アチェはインドネシアで最も豊かな地域で、天然ガス、パームオイル、コーヒー、ゴムなどの資源に恵まれているが、アチェは同国で最も貧しい州のひとつなのである。
「私たちは教育レベルが低いので、子供たちは外の世界の進歩を知りません」と話すのは、かつて反政府軍に参加し、今は慈済大愛村に暮らすサヤンさんだ。余所で成功しているアチェ人も多いが、聡明で努力を惜しまないアチェ人が自分たちの土地ではなぜかくも貧しく遅れているのか。この疑問から彼はアチェ独立運動に加わった。これは70数名の知識人が始めた運動が、2003年には正式メンバー5500人、ゲリラ3万人まで増えた理由でもある。

自由アチェ運動のメンバーの一部が武器を捨てて大愛村に入居した。自由アチェ運動スポークスマンのサイード・ムハマドさん(左から2人目)は慈済の評判を聞いて見学に来た。一番左は慈済ボランティアのアイダさん、右から3人目は反政府軍に属していたサヤンさん、右の二人は彼の仲間だ。
「津波発生後、独立運動は和平を受け入れざるをえなかった」と陳助教授は説明する。津波で反政府軍や住民に多くの死傷者が出て、インフラは破壊され、民間からの経済支援も目途が立たなくなったからだ。
大津波以降、和平交渉は順調に進んだ。2005年8月にヘルシンキで和平合意文書が交わされ、将来的には「自治」の方向に進むこととなった。外交と国防は除き、議会は独自の法律を採択し、イスラム法廷も持つことができる。だが、問題は石油資源である。インドネシアはアジアで唯一のOPEC会員国であり、原油価格が高騰して各国が油田を奪い合う中、油田を持つアチェはより難しい道を歩むこととなる。
「やや楽観できるのは、大津波によってアチェ問題が国際的にかつてないほど注目されるようになったことです」
これまでアチェ問題は西洋から無視されてきたため、中東国家からの支持を求める他なかったが、そのためにイスラム過激派とみなされ、同時多発テロ以降は国際テロリストと扱われてきたのである。
今では国際社会や人権団体に注目され、NGOがアチェに民主主義と人権の概念をもたしている。大津波から復興した後、インドネシア政府とアチェがどのように妥協点を見出して、真の和平と繁栄を得るのか。アチェの人々と世界中がその前途を祈っている。