反政府への動き
アチェの人々は裏切られたと感じた。アチェは反オランダ独立戦争に大きく貢献したにも関わらず、ジャワ勢力を中心とする新政府は、アチェの独立国家としての地位を否定し、アチェがイスラム法を採用することを禁じた。翌年、インドネシア政府はアチェ指導者と話し合い、アチェを一省として宗教と教育に関する一部の権限を与えることとしたが、その約束は果たされず、1953年にアチェは反乱を起した。以来、大小のゲリラ戦が絶えなくなった。
さらに1970年代、インドネシア政府がアチェを経済的に搾取したことが「自由アチェ運動」の結成を促した。
陳俐;甫助教授によると、1965年に権力を手にしたスハルトは、外資導入、経済開発優先、軍による安定などを強調し、官僚と軍人を中心とする政党が結成された。70年代には工業生産が急成長して国は繁栄したが、その利益は、外資と軍関係企業家と華僑の三者に握られ、一般国民が恩恵にあずかることはなかった。
スハルト政権が続いた33年間、大統領親族の特権が各地に浸透し、資源分配においてはジャワ人だけが優遇された。アチェでは石油と天然ガスが採れるが、油田の管理階層はジャワ人で、アチェの人々は下層の仕事しか得られなかった。さらにアチェ人の不満を買ったのは、アチェの資源で得た莫大な利益が首都ジャカルタの建設に使われ、現地にはもたらされなかったことだ。
劉星雲さんの論文によると、アチェはインドネシアで最も豊かな地域で、天然ガス、パームオイル、コーヒー、ゴムなどの資源に恵まれているが、アチェは同国で最も貧しい州のひとつなのである。
「私たちは教育レベルが低いので、子供たちは外の世界の進歩を知りません」と話すのは、かつて反政府軍に参加し、今は慈済大愛村に暮らすサヤンさんだ。余所で成功しているアチェ人も多いが、聡明で努力を惜しまないアチェ人が自分たちの土地ではなぜかくも貧しく遅れているのか。この疑問から彼はアチェ独立運動に加わった。これは70数名の知識人が始めた運動が、2003年には正式メンバー5500人、ゲリラ3万人まで増えた理由でもある。

自由アチェ運動のメンバーの一部が武器を捨てて大愛村に入居した。自由アチェ運動スポークスマンのサイード・ムハマドさん(左から2人目)は慈済の評判を聞いて見学に来た。一番左は慈済ボランティアのアイダさん、右から3人目は反政府軍に属していたサヤンさん、右の二人は彼の仲間だ。