南半球のオーストラリアは面積769万平方キロの古い大陸だ。国土は広く人口は少ないため、移民政策を緩和し、移住者の新たな楽園となった。
移民を受け入れて200年になるアメリカでは、華人の四世、五世がすでに祖先の故郷のことを知らないのと違い、オーストラリアが移民を受け入れ始めてわずか30年、移民一世がようやく足元を固め、1.5世(台湾生まれの子供)が社会に出始め、オーストラリア生まれの二世はまだ幼い。
移民手続代行業者によると、オーストラリアはアメリカとカナダに次いで台湾人が希望する移住先だ。かつて留学や親類を頼っての移住が多かったアメリカと違い、厳格な審査を経てオーストラリアへ移住する人の多くは商業移民で、事業に成功した経営者か、数千万の資産を有する投資家が多い。だが、彼らは理想の天国に移住しても、そこに根を下ろして生きていくとは限らない。
オーストラリアへ移住した台湾人はわずか3万人余り。35万人が移住したアメリカ、16万人のカナダとは大きな差がある。同じ英語圏だが、距離的には飛行機で8〜9時間と、比較的近い。そのため新移民にとってオーストラリアは渡り鳥の「中継地」あるいは第二の選択肢なのかも知れない。
移住しても根は下ろさない。オーストラリアの台湾人移民の「流動性」は高い。
冬に南へ移動する渡り鳥と同じように、台湾の政治、治安、教育などの冬の時代に、彼らは7300キロ南へ移動した。そこに、ちょうど受け入れる場があったからだ。
オーストラリアでは1972年に「白豪主義」が廃止されるまで非白人移民は排斥されてきた。そして1981年に商業・技術移民が開放され、各国の人材と資金を吸収し始めると同時に、教育も宣伝し、広く留学生を受け入れるようになった。今は180余ヶ国から移民を受け入れており、人口の5分の1は外国生まれである。親の一人が外国生まれという人が43%を占め、人口に占める移住者の割合は世界一高い。

ブリスベン南エリアのサニーバンクはリトル・タイペイと呼ばれ、台湾の品物が何でも揃い、小豆あん入りのお焼きも食べられる。英語が話せなくても不自由はない。
オーストラリアもニュージーランドも人口の多くはヨーロッパ系で、文化的にもヨーロッパに近いが、地理的にはアジアに近い。地理的な位置と歴史・文化的な背景が矛盾するため、マレーシアのマハティール元首相は、同国を「アジア太平洋地域の孤児」と呼んだこともある。
オーストラリアに駐在する我が国の林松煥;・代表によると、同国の産業はかつては農業・牧畜業が中心だったが、近年は鉱業やサービス業へと転換し、アジア四小龍が主たる顧客になった。台湾はオーストラリアにとって第8の貿易相手国、最大の貿易相手国は中国大陸だ。オーストラリア政府は、急速に成長するアジアとの関係を強化するために、移民の受け入れを開始した。移住者の40%はアジア出身である。
オーストラリアがアジアとの友好関係を重視し始めた頃、台湾でも海外への移住を後押しする状況が生じていた。
1980年代末、台湾では戒厳令が解除され、政党結成や新聞報道が自由化され、世の中が大きく変わりつつあった。経済は急成長し、株価や不動産価格は高騰した。その一方で中国大陸との関係は不安定で、省籍を異にする者同士の対立があり、治安は悪化し、進学競争は激しく、生活環境も悪化しており、一部の人は「海外移住」を考えるようになった。
「一度移住した人は再び移住します」と話すのはブリスベンでレストランを経営する権衡さんだ。中国大陸から台湾へ逃れてきた彼の両親は、李登輝総統時代に政治に不信感を抱き、オーストラリアへの移住を決めた。が、老夫婦は英語もできないし、車の運転もできないので、その世話をするために彼も後から移住した。ところが、台湾で「外省人」と呼ばれる彼らは、高雄出身の移住者が多いブリスベンでも少数派で、自分たちには故郷がないように感じることも少なくないと言う。
1999年の台湾大地震の2週間前、鄭毓;琴さんは小学校を出たばかりの息子を連れてオーストラリアへ移住した。6年後、妹を説得してその一家4人も移住し、中学1年だった甥は兵役に就く必要がなくなった。
オーストラリアの国勢調査によると、出生地が台湾の移民は1981年にはわずか877人だったのが2001年には約2万2000人となった。1996年の国勢調査より14.7%増加している。2003年にオーストラリアでは移民法令が改正されて移住の審査が厳格になったが、その後も少しずつ増えている。

世界で最も移民の多いオーストラリアでは、街を行き交う人々の5人に1人が外国生まれだ。そのため多様性と包容がその文化の特色を成している。
台湾からの新移民について研究している台北市立教育大学研究発展処の徐栄崇教授によると、オーストラリアとカナダへの新移民の状況は類似しており、多くが専門技術や相当の資産を持つ中産階級だと言う。
オーストラリアには彼らを惹きつける理由がある。
林松煥;代表はオーストラリアは幸運な国だと言う。かつては羊をはじめとする農産牧畜業が経済を支え、産業構造が変わった今は、石炭や鉄、天然ガスなどの鉱産物が国に大きな収入をもたらしている。
だが徐栄崇教授は、台湾からの移住者は他の国からの移住者とは動機が異なると指摘する。台湾人の多くは、市民権取得や子女の教育を目的としており、経済的利益や経済生活改善のためではない。
教育という点で言うと、オーストラリアは公立の中学高校が普及しており、大学教育のレベルは高く、大学世界ランキングトップ100に7校が名を連ねたこともある。また英語圏でありながら英米に比べると学費も安い。さらに気候が良いなどの理由もあって、移住希望者にとっては良い選択肢となる。
ブリスベンの慈済中文学校元校長の饒秀勒さんは、台湾では2人の子供がアレルギーに苦しんでいたが、移住してからは、乾燥しているからか、薬も使わずに治ってしまったという。「子供たちは驚くほどすくすくと勢いよく育ちました」と言う。
移住して11年になる陳秀貞さんは、子供たちがここで明るい青春時代を過ごせたことを幸運に思っている。高校ではスポーツや合唱団などの活動に参加した。「進学競争の激しい台湾では考えられないことです」

広大な国土を持つオーストラリアは天然資源にも非常に恵まれている。国民は満ち足りた生活と福祉を享受し、コアラとカンガルーも悠々と暮らしている。
台湾からの移住者約3万人が多く暮らすのはシドニー、メルボルン、ブリスベンの三大都市で、中でもブリスベンが1万余人と最も多い。そのため、我が国の外交部はキャンベラの代表処の他に、2006年にはブリスベンにも事務所を開いた。
ブリスベンはクイーンズランド州の都で、1331平方キロ。快晴の日が年間300日もあり「陽光の州」と呼ばれている。
クイーンズランド大学政治・国際関係学科名誉顧問の邱垂亮教授は「ベテラン」移民で、かつて台湾政府の「ブラックリスト」に入れられたため故郷に帰ることができず、アメリカからオーストラリアへ移って教鞭を執ってきた。1971年に移住してきた頃、ブリスベンはまだ小さな町で、人口はわずか30万人だったが、いつのまにか200万人まで増え、10年後には240万人になる見込みだ。
ブリスベンの気候と環境が高雄に似ているからか、高雄をはじめとする南台湾からの移住者が多い。1997年、呉敦義氏が高雄市長だった時、高雄とブリスベンは姉妹都市関係を結んだ。2006年に当時の葉菊蘭市長が来訪した時、邱垂亮教授らの働きかけでブリスベン河畔南岸の公園に「高雄地標」が立てられ、台湾人観光客が訪れる観光スポットとなった。

夫と妻が離ればなれに暮らしている家庭が多い中、オーストラリア慈暉婦女会は家庭を支える女性たちの心の拠り所として大きな役割を果たしている。前列一番左が会長の朱美紗さん。
オーストラリアでもカナダでもアメリカでも、移住した台湾人は近くに集まって暮らす傾向がある。「移民は台湾の生活様式をそのまま持ち込み、強い文化的景観を生み出します」と徐栄崇教授は言う。
ブリスベンのサニーバンクには漢字の看板が並び「リトル・タイペイ」と呼ばれる。台湾からの移住者が市場を形成していることがうかがえる。
台湾の「宝島」や「頂好」などのスーパーもあり、必要なものは何でも揃う。台湾人が経営する歯科医やパン屋もある。
サニーバンクプラザにあるレストラン隨園は移民に故郷の味と交流の場を提供している。
オーナーの権衡さんは、台湾の来来飯店から来たシェフの手から隨園を引き継いで6年になる。インテリアデザイナーだった彼は、レストラン経営も同じで、一定の予算内で顧客に満足してもらうことが大切と言う。
一年で店が最も忙しいのは春節で、大晦日の夕食は2回転させないと常連客に食事を楽しんでもらうことができない。売上は3万オーストラリアドル(約90万台湾ドル)になる。

世界で最も移民の多いオーストラリアでは、街を行き交う人々の5人に1人が外国生まれだ。そのため多様性と包容がその文化の特色を成している。
見知らぬ土地で生きるには、親しい人がいた方がいい。台湾からの移民の多くは「安心感」を求めて近所に集まって暮らし、美しいブリスベンで夢の家を建てようとする。
鄭毓;琴さんは、オーストラリアに来て3年目に市民権を得てから、1500万台湾ドルを投じて300坪の土地に200坪の二階建てを建てた。ローマ風の柱がある堂々とした構えである。
他の華人移住者と比べると、台湾人は土地を所有することに執着する。1996年の統計を見ると、台湾移民の住宅所有率は75.3%で全国平均の71.2%より高く、中国大陸からの移民の59.9%を上回る。
現地の中国語新聞にはこんな不動産広告が載る。「超大型リビングダイニング、ベッドルーム6、浴室5、書斎、ドア付き車庫2つ、光り輝くプール、バーベキュー設備、プライベートテニスコートと果樹園」。そして「所有者の家族規模縮小で譲渡希望」「新しい住宅購入で譲渡希望」などと書かれている。
だが、移住してからの期間が長くなるにつれ、大豪邸を所有することの代償に気付き始め、多くの人が小さい家へと買い替えていく。「プールの手入れは高齢者の介護より大変です」と移住して十数年になる楊雅斐;さんは言う。プールのモーターは毎日8時間動かさねばならず、ブラシをかけなければ苔が生え、給水制限時に水を抜いておいたらひび割れてしまった。そのため家を買い替える人は、プールと大樹は避けるそうだ。
楊雅斐;さんは息子2人とブリスベンに移住して十数年になり、ご主人は台湾で仕事を続けている。息子は大学卒業とともに遠くへ就職してしまい、2週間に1度しか帰ってこないので、彼女は巨大な家で寂しい思いをしている。

広大な国土を持つオーストラリアは天然資源にも非常に恵まれている。国民は満ち足りた生活と福祉を享受し、コアラとカンガルーも悠々と暮らしている。
楊挺生さんは妻と娘の4人で200坪の家に住んでいるが、当初は不眠に苦しんだ。台湾の多くの家にある防犯用鉄格子が窓にないからだ。
青い空と海に惹かれて移住してきた人も、長く住むにつれて自分が「天国」にいることを忘れてしまう。ゴールドコーストの美しい砂浜で遊ぶ台湾人を見ることはほとんどない。大自然に触れるどころか、草木の手入れさえ苦痛になってしまう。
庭の椰子の葉が隣りの家に落ちると、日頃は気さくな隣人も、その葉を投げてよこす。それに腹を立てた郭さんは、椰子の木を切ってバナナに植えかえた。土地を有効活用するため、100株以上のバナナを植えた他、パッションフルーツやパパイア、マンゴーなどの果樹と畑もあり、食べきれない分は友人に贈っている。
「裏庭に野菜を植えているのが見えたら、それは華人の家です」と話すのは移住して6年の王妗;婉さんだ。彼女は、土地を無駄にしたくないという華人の気持ちが良く分かると言う。オーストラリア人は、庭のアボカドが熟しているのに、スーパーでアボカドを買ってくる。
土地や家に対する台湾人の考え方は独特だ。平等と法の遵守、独立自主とプライバシーを重視し、アウトドアスポーツを愛するオーストラリア人の価値観と生活に、台湾からの移民一世はなかなか適応できない。
「オーストラリアでは皆が平等で、貴族も特権もありません」と言う林松煥;代表はこう話す。オーストラリア首相は立ったままスポーツ観戦し、ボディガードもいなければ、貴賓席もなく、席を譲る人もいない。台湾人には考えられないことだ。
オーストラリアでは法令も法の執行も非常に厳格で、台湾の習慣を持ち込もうとすると、交通違反で罰せられ、給水制限時に花に水をやって罰せられ、庭の草が伸びすぎて罰せられる。木を切るにも申請が必要だ。自分で手作りの家を建てたいという場合も土地取得と環境アセスメントに3年かかる。その間「催促、口利き、特権は認められません」と林松煥;代表は言う。建築物が規定に合わなければ、建てた家も取り壊される。「郷に入っては郷に従え」と言うが、台湾からの移住者はこの文化の差になかなか馴染めない。

河岸に広がるブリスベン市は絵のように美しい。現代の移民は遊覧船のように自由に行き来する。
海外移住した台湾人の多くは、孤立しないように、まず台湾人の団体に参加する。
23年前、邱垂亮教授が呼びかけて設立された「台湾同郷会」はクイーンズランドで最初の台僑団体だ。今は、38歳で移民二世の弁護士・林俊廷さんが会長を務めている。
婦人団体も大きな役割を果たしている。クイーンズランド台湾慈暉;婦女聯合会は設立17年、現在の会員は306人、500〜600人いた最盛期の半分だ。会長の朱美紗さんによると、台湾からの移住者は台湾とオーストラリアを行き来しているので、最近は中国大陸や香港出身者が加わっているという。「婦女会には政治的立場はなく、大陸や香港の人とも仲良くやっています」と言う。ここでは夫が家にいない人が多いので、女性たちが集まって寂しさを紛らわし、一緒に稽古事などをして生活の拠り所としている。
台商協会や台湾同郷会は祝祭日のイベントなどを通して故郷への想いを強める。クイーンズランド台湾商会会長の盧維雄さんによると、今年の元旦には台湾センターで民国百周年記念の国旗掲揚式を行ない、小雨が降る早朝6時に600人以上が集まった。オーストラリア国家に続いて中華民国国家を斉唱し、国旗が揚げられた時には多くの人が感動の涙を流したと言う。
30年前に排斥から移民受け入れへと政策が転換され、2009年に当時のラッド首相は2050年には人口を現在の2000万人から3500万人まで増やしたいと語った。しかし2010年、初の女性総理となった労働党のギラード首相は、国の人口を急速に増やすべきではないとして、この政策を転換した。一部の地域では雇用機会が不足しており、安定した人口政策と技術人材戦略を推進する必要があるとしている。

ブリスベン南エリアのサニーバンクはリトル・タイペイと呼ばれ、台湾の品物が何でも揃い、小豆あん入りのお焼きも食べられる。英語が話せなくても不自由はない。
オーストラリア移住手続を代行する澳亜投資顧問公司によると、オーストラリアの移民規定は絶えず調整されており、この7月に最新版が発表されるという。全体的に見て「商業移民」の最低投資額はオーストラリアドル上昇で上る可能性があり、ビジネスや公債(75万オーストラリアドルの公債を最低4年)に投資する「投資移民」は申請審査に2〜3年かかる可能性がある。
個人の「技術移民」の条件も厳しくなり、英語検定IELTSの4項目のスコアがすべて7以上(総合で9)、調理師や美容師といった職種が削除される。
オーストラリアの移民枠が縮小する一方、台湾では近年、政治経済状況は安定・好転しているため、オーストラリアへの移住者数も停滞している。また、移民二世の多くが大学を卒業して社会人となり、一世が台湾へ戻って暮らす傾向が見られる。
徐栄崇教授と姜虹蘭教授による「台湾移民回流意識調査」によると、オーストラリアに移住した台湾人で帰国の意思があるのは32.3%、うち14.3%は就職のため、10.3%は故郷に骨を埋めるためだ。
徐栄崇教授はこれを「跳躍式移動」と呼ぶ。「こうした状況は移住先への融合の機会を阻むが、航空便やツールの利便性が高まるにつれて国と国の境界や距離はなくなり、海外移住は国内移転と同様に頻繁で普通のこととなっている」と述べる。
邱垂亮教授は、台湾人は移住するとすぐに家を買って田園生活を楽しむが、10年も経つと飽きてしまい、想像していたよりお金もかかるので不安になると言う。病気になれば病院に行くにも通訳が必要で、台湾に戻りたいと思うのである。
資産を食いつぶす生活では不安になる。徐栄崇教授は、現地に適応できない人はすでに台湾に戻っており、残っている人は、通貨と航空券と物価の上昇に対応するために、現地で懸命に働く他ないと言う。

広大な国土を持つオーストラリアは天然資源にも非常に恵まれている。国民は満ち足りた生活と福祉を享受し、コアラとカンガルーも悠々と暮らしている。
ブリスベン市の中心街、34階にある「駐ブリスベン台北経済文化弁事処」から見下ろすと、ブリスベン川にストーリーブリッジが架かる姿は絵のように美しい。歴史150年の若い都市に台湾人が移住してわずか30年、台湾人移住者は時代や環境の変化によって、ここと台湾の間を行き来してきた。
地球村の時代、住み慣れた土地に執着する人は減り、海外移住も「ワンウェイ」ではなくなった。故郷との縁を絶ち、現地社会に懸命に融合するという移住形態も過去のものとなった。むしろ両地のネットワークや文化、生活を融合させた新たな国際移民が増え、「家」と「国」に対する彼らのアイデンティティも多様化している。
台湾からオーストラリアへの移住も、両地を自由に行き来する「ツーウェイ」なのである。

ガーデニングと釣りとゴルフに明け暮れるオーストラリア暮らしだが、移住のために仕事を失った男性たちは他にすることがなく、仕方ないのだと言う。

ブリスベン南エリアのサニーバンクはリトル・タイペイと呼ばれ、台湾の品物が何でも揃い、小豆あん入りのお焼きも食べられる。英語が話せなくても不自由はない。

ゴールドコーストの美しい砂浜。ここへ移住しながら根を下ろさない台湾人が多いのはなぜだろう。

ガーデニングと釣りとゴルフに明け暮れるオーストラリア暮らしだが、移住のために仕事を失った男性たちは他にすることがなく、仕方ないのだと言う。


ガーデニングと釣りとゴルフに明け暮れるオーストラリア暮らしだが、移住のために仕事を失った男性たちは他にすることがなく、仕方ないのだと言う。

ブリスベン南エリアのサニーバンクはリトル・タイペイと呼ばれ、台湾の品物が何でも揃い、小豆あん入りのお焼きも食べられる。英語が話せなくても不自由はない。


豪邸は魅力的だが、維持や管理に大きな手間と資金がかかる。手放したい時も買い手を見つけるのは容易ではない。