写真家 郎靜山の「集錦撮影」 3月 2001 中文 EN シェア 1933年の黄山、1934年の北京の古松、1908年の上海の鶴、そして1909年の蘇州の山肌。この世で最も美しい景色や物を一枚の写真の中に集め、時空を交錯させながら少しも不自然なところがない。物故した写真界の長老、郎静山の「集錦撮影」は、その人そのものでもある。 カメラを手に、善の心で数々の美しい作品を残した郎静山は、1939年から「集錦撮影」の創作を開始した。暗室技術を利用し、中国大陸各地で撮った写真のフィルムの部分部分を取り出し、それらを一枚のフィルムの上に合せていった。暗く狭い暗室の中で、構図を考えながら現像、拡大、編集を無数に繰り返して作り上げた写真は、その一枚一枚が心血の結晶だ。 集錦撮影の命は、その高度な編集技術ではなく、構図と光線に表現された精神にある。1892年に江蘇省淮陰の軍人の家に生れた郎靜山は、芸術を好む父の影響を受けて育った。13歳の時にカメラを使い始め、1928年に我が国初の写真協会「中華撮影社」を結成し、抗日戦争時には重慶撮影学会、昆明撮影学会を組織、そして1948年には中国大陸で「中国撮影学会」を創立した。1953年に同学会は台湾で再結成され、台湾で初めての写真協会となった。 西洋植民地の時代に育った郎靜山は、阿片や纏足などの中国の「エキゾチズム」ばかりに西洋人がカメラを向けることが受け入れられなかった。また中国が大きく揺れ動いた時代、無残に傷付いた山河を見た彼は、千年以上の歳月にわたって中国文人画家の心の中に生き続けてきた永遠の山河が消えてしまうことが受け入れられなかった。そこで郎靜山は、西洋の撮影道具を用い、自分に深く根付いた文化的素養と中国山水画の構図を生かし、異なる地域、異なる時空にある風景や物を巧みに結合させ、集錦撮影へと発展させたのである。その作品に写し出された山水は美しく、詩情にあふれている。靄のかかった水面を漂う小船、暁に浮かぶ月、松と鶴など、その構図の中に中国水墨画の趣と気品があり、そのため郎靜山は詩書画影の四絶とも称えられている。 郎靜山は、常にゆったりした寛大な姿勢で物事に臨み、争いごとを嫌ったため、一般の人より長寿多福に恵まれた。晩年も世界各国を巡って美しい景色を写真に収め、1995年に105歳という高齢で逝去したのである。その「郎氏スタイル」を存分に発揮した集錦撮影は、20世紀の重要な記録となり、その死は今も人々から惜しまれている。 シェア