人を感動させるまでやる
洪家の中心人物として栄光の人生を歩んできたが、実は幼い頃は苦労の連続だった。
生まれた家の暮らし向きは悪くなく、姉1人と弟2人がいた。4歳年上の姉は、家の最初の子供ということで「貴」と名づけられ、宝物のように可愛がられていたが、次は男児をと望んでいたところへ彼女が生まれたため、「免」(台湾語で「いらない」という意味)と名づけられ、生後2ヶ月で養女に出されたのである。
童養媳;(息子の嫁にするためにもらう養女)となったが、許婚とは結婚したくなかった。だが養母から「結婚しないなら南部に売る、二つに一つだ」と言われる。南部に売るというのは女郎になるという意味だった。伝統的な女性の宿命に屈したくなかった彼女は13歳で家を出た。「お金を稼いで親孝行する」という条件で自由の身になり、親戚が開いている洋服店で裁縫の仕事を始めた。それから80年たった今も、人生最大の最も困難な選択だったと言う。
22歳で洪建全と結婚し、人生は大きく変わった。それまで裁縫を7年間やっていたが、デザインが斬新で裁縫も上手なので「あの洋服店には良い娘がいる」と評判になり、その話は洪建全の耳にも入っていた。洪建全は彼女に一目惚れしたが、彼女との結婚のために自分の「童養媳;」とは結婚できなくなり、そのため洪游勉は姑には可愛がられなかった。
「会社の経理をやり、食事を作り、子供の世話をし、とにかく働き続けて文句の言いようがないところまでやりました」と淡々と話す。
日本時代の小学校しか出ていないため、中文を学ぶために、13歳の彼女はわずかな給金を貯めて6ヶ月間漢文を学んだ。夫から「字がきたないから、帳簿をつけてはいけない」と笑われたことがあり、負けず嫌いの彼女は、記帳の仕事を任せられるまで字の練習をした。
洪游勉と40年以上の付き合いになる洪家の長男の嫁、洪簡静惠は「姑の人生哲学は、相手の態度の良し悪しに関わらず完璧にやる、もし相手が自分に良くしてくれたら生涯感謝する、というものです」と語る。