「台湾大地震」が発生してすでに半年が経った。この半年、若者は復興に忙しく、子供たちは続々と学校へ戻っていった。だが高齢者だけはまだ不安な精神状態で体に力が入らず、呆然として何も手につかないまま、大きく変化した生活に独り向き合っている。
日本でも阪神大震災の後、高齢者が仮設住宅で誰にも知られずひっそりと息を引き取る事があった。仮設住宅が「孤独死」の温床となったのだ。
日本の例に学び、台湾の被災地で同じ事件の発生を防ぐにはどうすればよいのだろうか。被災地の高齢者は現在どういう状況に置かれているのだろうか。またどのような団体や個人が、これらの被災地のお年寄りに貢献しているのだろうか。
大地震発生からすでに半年が経つが、埔里小学校の塀の隣りでは、数人の高齢者がテント生活を続けている。
邱潘秋菊さんという今年89歳のおばあさんは、息子は行方不明、台中に住む娘が同居しようと迎えに来ても首を縦に振らなかった。コミュニティのスタッフが仮設住宅に入るよう勧めたがこれも断り、倒壊した借家の向かいのテント暮らしを頑固に続けている。
「私はここでの暮らしに慣れています。ご近所さんとも顔見知りなので、もし近所に家が借りられないなら、テントで暮らすほうがいいです。引越すぐらいなら、ここで雑草でも食べていたほうがまし」とおばあさんは言う。
臨時に養護施設に入ったお年寄りも楽観できない状況だ。台中に7つの養護施設を持つ「同心養護連盟」は、震災後ベッドを提供して被災地の高齢者を受け入れた。廖文義秘書長は、養護施設に入った後、失禁、家族の名前や電話番号を忘れる、枕の綿をひきずり出してしまうなど、退行してしまったお年寄りもいるという。
「大部分のお年寄りは、いまだに地震の恐怖が消えず、夜眠る時に電気が消せないだけでなく、いつも横に誰かがいないと安心できないのです」廖文義さんは「同心養護連盟」は当初、80数人のお年寄りを受け入れたが、環境に慣れず、仮設住宅に移った人もいれば、子供に引き取られた人もおり、現在わずか10数人が残るのみだという。
地震は多くの家庭を壊し、以前からあった地縁関係、コミュニティでの連携のしくみを壊した。老人福祉推進連盟の呉玉琴秘書長は、中部の被災地はもともと施設や系統化された福祉サービス体制が欠けていたが、震災後、従来のコミュニティでの非公式な支援ネットも崩壊したと指摘する。さらに地震で、ケアの必要な身体障害者、親を失った子供や身寄りのないお年寄りなどが増え、不足していた社会福祉がより困難に直面している。
行政院の統計によると、被災地で地震によって家族を失い、頼れる子供をなくしたお年寄りは384人、親をなくした子供は125人いる。
しかし、同じく身寄りがないと言っても、老人と子供の状況には雲泥の差がある。
台湾世界展望会(ワールド・ビジョン)の黄正雄事務局長はこう指摘する。地震の後、被災地の親を失った子供たちは引く手あまただったのに対し、身寄りのないお年寄りに手が差し伸べられなかったが、これは被災孤児には200万元の見舞金が出たのに対し、子供をなくしたお年寄りの多くは見舞金がもらえず(彼らの子供の多くが自立しているため)、孤児ほど良い待遇が受けられなかったためだ。
南投県では民間の団体に委託して、各町村に20数か所の「コミュニティ家庭支援センター」を設置した。高齢者にもサービスを提供するが、低収入家庭と児童のケアが主だ。お年寄りの世話を専門的にしているのは、民間から委託を受け埔里の仏香書苑に設置された施設「菩提長青村」がある。
仏香書苑文化教育基金会の体通法師事務局長は震災後、子供は多くの人に注目されているが、高齢者には目が向けられていないことに気付いた。「このままでは、人の子として申し訳がたたない」そう考えた体通法師は、被災地の高齢者ケアをする決意をし、菩提長青村を創設、身寄りのない高齢者を受け入れた。「私の目的は、自分の行動を人に見せることで、社会に潜在的な影響を与えることです」
被災地で援助活動を行う団体「台湾世界展望会(ワールド・ビジョン)」も、深刻な被害を受けた埔里に入り子供や家庭の世話の他、高齢者ケアに参与し始めた。現在この会は南投の埔里、台中の新社や大坑などの被害の深刻な地域で、身寄りのないお年寄りの生活を支援し、緊急通報器の取り付けをしている。また展望会は、高齢者の栄養食品の支給と医療や交通費の補助を検討中だ。
被災地に入ったソーシャルワーカーは、高齢者の住宅問題をとりあえず解決して、それから被災地の高齢者が直面するさまざまな問題を明確にしていかなければならない。
「台湾大地震の後、コミュニティは崩壊しました」老五老基金会の林依瑩会長は、埔里でコミュニティの確立に携わっている。彼女の話では、埔里の場合、地震の後コミュニティの高齢者は亡くなったり、養護施設に入ったり、また子供に引き取られたり仮設住宅に入ったり、独り暮しをしているなど、分散してしまったという。
「私を連れて帰ってください」台湾大学公衆衛生研究所の呉淑瓊助教授は、以前質の高い養護センターを訪問した時、ある高齢者が何度も何度も彼女にそう繰り返したと言う。「お年寄りが家を恋しく思う気持ちは、尊重されるべきです」呉淑瓊さんは、コミュニティの高齢者ケアの体制が早急に確立されるべきで、それは被災地も同じだと言う。
家を恋こがれる気持ちは、高齢者に共通の心理であり、今回の震災後の高齢者ケアでぶつかった大きな問題だ。老五老基金会のスタッフである巫樺全さんは、多くの高齢者がコミュニティに残ることを希望しており、その理由として一つはプライベートの問題、二つ目は子供への世間の目への気遣い、三つ目は昔からの近所付き合いがあるという。このような場合、唯一の方法は、その地域での介護だ。
68歳の林生旺さんは、中風で糖尿病を患っている。長い間、埔里の蜈蚣地域で家を借りて一人暮しを続けてきたが、大地震で瓦ぶきの屋根が壊れ、雨漏りがするようになってしまった。だが家主はただ損壊した部分に布を被せただけだった。
1人玄関にたたずむ林生旺さんは、見るからに元気がない。中風を患ってからというもの、仕事にも行けず、障害者手当と老人年金に頼って生活するしかなくなったのだ。「お金はあるだけ使ってしまいます」と彼は言う。体の不自由な林さんだが、食事を自分で用意しなければならず、1回に調理したものを2日続けて食べるという。
最近、台湾世界展望会と老五老基金会は林さんのために緊急通報器を取り付けた。万一何かあった時、手元にあるボタンを押せばすぐ処理センターに通報されるようになった。普段も通報センターから林さんに電話がかかり、安否が確認される。林生旺さんは「このサービスはいいですよ。3日に1度かかってきて、親戚よりやさしい」と言う。
一人暮しをしている中風の呉さんは、家屋の状況はそこそこだが、家の中がひどく荒れた状態だ。地震の後、被災地の物資が不足していた時、この老婦人が見ている前で家からベッドが見知らぬ人に運び出され、玄関の戸も取り外されてしまった。普段は孫娘が訪れては家の中を掃除しているが、先ごろ老五老基金会のスタッフが緊急通報器を取りつけた。この婦人になぜ仮設住宅や介護施設に入らないのかと尋ねると「いけません。神様が行くなといっているので、私はここに残って拝まなければ」と答えた。
元の場所で自分の家を建て直すのがお年寄りの最大の願いだ。たとえトタンの家でも、数坪しかなくても、彼らはそれを望んでいる。
埔里の大湳地域に住む80代の黄花妹さんは、40年前の水害で家屋を流されたことがある。当時はロータリークラブの手配で、黄さんたち9家族がここに住むことになったが、再び大地震で住居が倒壊してしまった。現在、彼女は近所の人と住居のあった隣りの他人の畑にテントをはって、自分の家の再建を待っている。だが最近続いている大雨で、畑に建てられたテントには水が入り、とにかく早く自分の家が建て直されるのを願うばかりだ。
「私たち老人はトタンの家でもいいのです。雨露がしのげ、地震が来ても倒れなければよいのです」と、黄花妹さんは多くは望まない。
震災後創設された民間の支援組織、「台湾大地震震災地区損壊家庭再建奉仕団」が今まずやろうとしていることは、一人暮しの高齢者や低収入家庭、身体障害者の家屋の修理への支援だ。王清峰団長は「政府の20万元の補助金では家を建て直すには足りませんし、仮設住宅も暫定的なものなので、期限が来たらどうしろというのでしょう」と言う。彼女は被災者の問題は徹底的に解決されなければならないと考えているのである。再建団の評価で支援の対象となった場合、被災者は1坪につき1万元の再建費用を用意すれば(政府の補助金での支払いも可)、残りの不足分は再建団が責任を持って寄付を募る。「彼らに安定した家を提供することが、すべての生活再建の第一歩です」と王清峰さんは言う。
家の建直しはもちろん最高の選択だが、多くの人は、土地がなく建て直せないため、仮設住宅などに引越すしかない。だが多くの高齢者は、住んでいた土地を離れたがらない。
「環境の変化はお年寄りには不安なものです」呉玉琴さんは、高齢者には自主的に決める権利があり、誰もその決定権を剥奪することはできないが、これを尊重しつつ福祉をいかに提供していくかが重要だと指摘する。
「雨の後、被災地の高齢者のニーズが変わりました」林依瑩さんは、これまではどんなに寒くてもテントを離れようとしなかったが、雨で地面が湿って我慢できなくなったお年寄りから、「以前おっしゃっていた仮設住宅はまだありますか」という問い合わせの電話が多数寄せられたという。
林依瑩さんは、雨は被災地の状況を悪くしたが、かえって多くの高齢者が仮設住宅を希望するようになったと言う。この雨は仮設への引越しを勧めるよい理由となったのだ。
だが、仮設住宅ではやはり制限があり、すべての高齢者に入居の資格があるわけではない。自活できることも基本条件だ。この他に、菩提青長村も悪くない選択だ。高齢者で、家屋が半壊したり全壊した人、また子供が生活の立て直しに忙しく世話してもらえない人、一人暮しや身寄りのない人など、すべて菩提長青村の受け入れの対象だ。
長青村は、一人のお年寄りが入ったことから始まり、次第に知られるようになった。視察に来た各部門の担当者も、ケアの必要な高齢者が自分から長青村に来るようになったことを知った。この半年で長青村は280人余りの高齢者を受け入れ、家が建て直されて戻った人もいれば、家族が引き取りに来た人もおり、現在は70数人がここで生活している。
今年の2月、長青村は震災当時に提供された空家から、埔里籃城里の華僑銀行とYWCAが寄付した仮設住宅に移った。
菩提長青村に暮らすお年寄りはそれぞれ境遇が違い、個性的だ。
85歳の客家のあるおばあさんは、ご主人と子供を震災で亡くしたが、彼女は明るくほがらかで、決して天を恨んだりはしていない。
老夫妻もいる。おばあさんは中風で体が不自由で、おじいさんは少し頭がはっきりしない。だが2人はお互いに助け合い、おばあさんが、おじいさんに指示するなどして、2人の協力関係はなかなかうまくいっている。
だが、環境に適応できないお年寄りも多い。96歳のあるおばあさんは長青村に入った後、毎晩寝る時に布団の中で「家は壊れてしまった。もう帰るところはない」と絶望して泣いていたと言う。
ある外省出身の男性は入居当時、誰とも話そうとしなかった。その後にわかったのは、この人は以前は文房具屋をやっていて、地震が発生した時に逃げ出したが、後で物を取りに家に戻った時、余震にあったことだ。この時、男性は驚いて地面にしゃがみこんでしまい、震えが止まらず、結局何も持ち出せなかったそうだ。「私の蓄えの米ドルや金はすべて建物の下に押しつぶされているのです」と言う。
蔡美秀さんは、昨年10月から菩提長青村でケアの仕事をしている。「多くのお年寄りが、入居したばかりの時は眠れず、余震の度に恐がって、とてもかわいそうでした」と言う。
社会からの関心の不足も大きな問題だ。巫樺全さんは「被災地の高齢者はまるで社会から忘れられたかのようです。生きる望みをなくし、ただ死を待っているようなのです」と言う。
台中の栄総病院精神科の林本堂医師は、毎週長青村にボランティアとして診察に訪れる。高齢者の血圧や健康診断をするほか、話を聞いて精神的なストレスの解消に努めている。「最初は孤独、落ち込み、ホームシック、不眠などの反応が出ましたが、お互いの協力関係ができたことで、状況はかなりよくなってきました」と林本堂さんは言う。
「いろいろなケースを見て、非常に不安な気持ちです」老五老基金会のスタッフになってまだ3ヵ月ほどの巫樺全さんは「自分で自分のことができるお年寄りはいいほうです。ですが、幼い子供や身障者の世話までしなければならない高齢者もかなり見てきました」と語る。
例えば大満地区の潘煙さん夫妻は、離婚した娘とその子供と同居している。80代のお年寄り2人が、自分のことだけでなく、離婚して寄る辺のない子供の世話をしなければならないのだ。地震で家屋の一部が損壊したため、彼らはテントを張って、そこを台所と浴室にし、何とか暮らしている。
南投県信義郷に暮らす先住民のあるおばあさんは、息子を亡くし、嫁は中風で寝たきりなので、嫁だけでなく孫の面倒も見なければならない。生活の負担が彼女に重くのしかかっている。
1日3食の炊事も高齢者にとっては大きな問題だ。巫樺全さんの話では、食事はお年寄りにとって非常に重要だが、彼らには炊事は大変な作業なので、栄養的に偏ったり、古くなったりしがちだ。何日分もまとめて作っておいたり、数種のおかずを鍋で一緒に煮てしまったり、毎日インスタントラーメンで過ごす人などもいる。このため老五老基金会では、大湳地区に共同炊事場を設置して食事を提供し、お年寄りに食事の面で苦労させないようにしようと検討中だ。
老人福祉推進連盟は南投県竹山鎮に「コミュニティ家庭支援センター」を設立し、家庭訪問、電話連絡、在宅介護、食事配達のスタッフの養成を積極的に進めている。呉玉琴さんは「これまでコミュニティの近所付き合いは報酬のないものでした。ですが私たちは現在、サービスを制度化するため在宅介護と食事配達の費用を支給したいと考えています」と言う。
菩提長青村では炊事の問題がない。長青村で暮らせば、食費と住居費は無料で、三食とも基金会からたっぷりと野菜中心の食事が提供される。栄養もバランスがよく衛生的だ。だが、仮設住宅の使用期限が切れた後、長青村をどうやって継続させていくのか。お年寄りはどうするのか。
体通法師は、菩提長青村は台湾大地震のための1年間の居住計画に対応したものだが、高齢者ケアの仕事は終わりのないものだと指摘する。法師は期限になったらこれに代わる方法を考えると言い、将来は老人ホームか老人レジャー農場などの方向もあり得るとしている。現在、長青村の経費はすべて体通法師の法事での収入と心有る人からの寄付によってまかなわれている状態だ。
問題が集中し、かつ切迫している被災地の高齢者の状況は、また台湾での高齢者問題の縮図でもある。
今年1月に内政部の主催した「全国シルバー・サミット」では、被災地からの代表者が、被災地の活動センターが倒壊したことで、高齢者が娯楽や活動の場をなくし、社会参加の機会を失い、ただ家にこもるようになったことなどを次々と指摘した。老人福利推進連盟の呉玉琴会長は、社会参加の奬励は高齢者の「孤独死」を防ぐ最良の方法であり、被災地代表の意見は重視されるべきだと述べた。
被災後の地方行政は混乱し、高齢者への手当の支給も不定期になっており、老人年金はすでに中断して数ヶ月になる。多くの高齢者は支援を得る方法や申請の手続きを知らない。緊急避難救助手当などもあるが、申請の期限さえも知られていないのが普通だ。呉玉琴さんの話では、年金支給が中断している他、多くの関連福祉も経費の不足で実施されていないという。老人の在宅介護の時間も25時間から16時間に短縮されたり、食事配達サービスの回数が減少したりしている。被災地では、これで状況がより悲惨になったことは間違いない。
台湾の高齢者は辛抱強く、自分の運命を受け入れてしまう人が多いのかもしれない。呉玉琴さんは、現在被災地の高齢者の問題はまだ目立つほど深刻化してはいないという。だが半年では、まだ表面化していない問題もある可能性もあり、いま結論を下すのは早過ぎるだろう。
例えば2年後、仮設住宅が取り壊された時、そこに住んでいる高齢者はどうすればよいのか。4年後、各福祉部門や慈善団体が撤退した後、ケアを引き継ぐ力が地方にあるのだろうか。これらは、政府が真剣に取り組んでいかなければならない問題だ。
5月の初めは、気候も春めいて全ての生命が生き生きとする季節だが、被災地の高齢者は、依然として先が見えない状況で毎日を過ごしている。彼らがいつ人生で最も寒い冬を乗り切り、春の足音を聞けるのか、問わずにはいられない。