半世紀にわたる東南アジア報道の変化
『光華』(中・英語版)が最初に東南アジア関連の報道をしたのは1987年の記事「インドネシアへの道」で、台湾の中国鋼鉄公司(中鋼)と栄民工程事業管理処(栄工処)が建設するインドネシア初の冷間圧延設備に関する内容である。当時、製鉄所建設は、我が国の技術輸出の中でも最もレベルの高い分野だった。
1970~80年代、台湾経済は急成長し、質の高い技術の輸出は国民の間でも注目されていた。この時期、『光華』の東南アジア関連報道においても「経済」が主なテーマの一つだった。
1980年代の東南アジア関連報道のもう一つの主要テーマは華語文学である。当時、東南アジアの華語文学は二つの大きな要素の影響を受けていた。一つは中国の五四運動における白話運動の影響、もう一つは1980年代中頃の台湾の華語文学の影響である。台湾文学の当時のエネルギーは1950~60年代の台湾モダニズムの興隆から始まったものだ。『現代文学』『劇場』『人間』といった文芸誌が次々と創刊され、また「五月画会」が設立されるなど、台湾では芸術文化界の活力がみなぎっていたのである。
東南アジアに関する『光華』の報道内容は、1990年代以降、多様化していく。1990年3月号(日本語版は翌月号、以下同じ)が掲載した「マレーシアから来た花嫁」は台湾人と東南アジアの人々との結婚をテーマとしている。また、1991年12月号には「シンガポールの華語運動」、1998年3月号では「東南アジアの台湾企業」が特集されている。内容は、それまでの経済や文学から、国際結婚や教育へと変わっていった。だが、この時期の報道の目は外に向けられており、さまざまな国や文化が、どのように数々の問題を解決しているかに注目していた。
2000年以降になると、『光華』の報道の視点は、台湾に暮らす新移民や新住民(結婚や仕事で東南アジアから来た人々)の暮らしへと移る。この時期の記事「台湾に嫁いできた外国人花嫁の想い」「国際結婚の子供は優秀――顔永全さんの物語」(顔永全さんは12歳で第5回総統教育賞を受賞)、「新住民が台湾で迎える春節」「新住民家族の故郷の味」などは、より深く、多元的な内容となっている。この時期の台湾社会は、さまざまなエスニックが互いに適応していく過渡期にあったと言えるだろう。

栄民工程事業管理処の海外事業の現場には、大規模な材料処理場が設けられる。写真は、スラバヤの高速道路建設現場の処理場。1987年4月号「インドネシアへの道」。(写真:外交部資料)