李鼎さんの父、李楽玉さんは筋萎縮が起る運動神経の病気に倒れた。一家は四人だが、母は身体が弱くて台所に立つこともままならず、弟は台北から距離のある新竹で働いている。そこで36歳で未婚、仕事の時間がやや自由になる李鼎さんが父の介護をすることになった。
初めの頃、父はまだ言葉を話せたので父子は毎日病室でおしゃべりをした。この時、李鼎さんは初めて父の「前半生」の物語を聞かされる。――1949年、父は中国大陸から台湾に旅行に来ていて、そのまま帰れなくなったのだ。いつか故郷に帰れるようにと、パイロットの道を選び、1950年に母と結婚した。「34歳だった私は、その時73歳の父と一緒に子供の頃に返ったような気持ちになりました。それほど近しさを感じたのです」と李鼎さんは言う。
間もなく、父は言葉を話せなくなった。3回も危険な状態に陥り、管を挿入してからは、目配せだけでしか意思の疎通ができなくなった。
李鼎さんは必ず毎日午後3時に病室を訪ねた。出張で行けないことがあると、その後、父は「もう俺に会いたくないのか」という何文字かを目で伝えてきた。以来、どうしても行けない時には必ず電話をかけるようにした。
「パイロットだった父は大声で話す習慣があり、皆、父の言うことに従わなければなりませんでした。それが病気で言葉が話せなくなり、僕の話を聞くしかなくなったのです」と話す李鼎さんは、毎日病室へ行く前に、エレベーターの鏡に向かって「笑う練習」をし、気持ちの準備をした。病室へ入ると、父の身体をさすりながら新聞を読んであげ、話しかけ、父の代りに自分で答えた。
「肌に触れるのはすごく大切です」と李鼎さんは言う。肌に触れると、父の目はうれしそうな表情を見せた。また手をとって何かに触れさせてあげるのも喜んだ。「介護というのは本当に大変な仕事です」と言う。初めて父の下半身を洗ってあげた時は、自分が恥ずかしくなってしまい、どうしていいのか分からなかったという。
「身体はあっても意識を失っている病人は多いですが、父の場合は逆で、身体は動きませんが意識と魂はそこにいるのです」李鼎さんは、さまざまな工夫をして筋萎縮の父親の世話をした。何とかして父に生きる意志を持ってもらおうと手をつくしたのである。毎日必ず父を車椅子に乗せて散歩に出かけたし、鏡を使って自分の顔を見させてあげ、昔から身なりを重視してきた父の顔の手入れをしてあげた。時には、役に立っていることを実感してもらおうと、自分の仕事上の悩みを打ち明けてアドバイスを求めたりもした。
父が病気で倒れてから一年余り、彼は父のために家を建てるつもりで、家にはその名の一文字をとって「楽寓」と名づける予定だった。しかし、その夢は実現することなく、父は眠ったまま息を引き取った。最後の頃、父はまるで操り人形のようだったと李鼎さんは言う。すべて人の手に頼らなければ、どこも動かせなかったのである。だが、李鼎さんにとって、この一年は、生涯で最も父親と親密になれた期間だったという。
父を記念するために、李鼎さんは生前の写真を使って地下鉄のカードを作り、家族に持たせている。いつまでも父が身近にいて、家族と一緒に行動しているように感じていたいからだ。

李鼎さんは父の職場での写真を使って地下鉄のカードを作った。

父が病に臥していた一年間、李鼎さんはまるで子供の頃に戻ったかのように父親と親密だったという。携帯電話で撮った病室での写真が最後の写真になった。(写真上:楊弘熙撮影)
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父が病に臥していた一年間、李鼎さんはまるで子供の頃に戻ったかのように父親と親密だったという。携帯電話で撮った病室での写真が最後の写真になった。(写真上:楊弘熙撮影)

父が病に臥していた一年間、李鼎さんはまるで子供の頃に戻ったかのように父親と親密だったという。携帯電話で撮った病室での写真が最後の写真になった。