映画監督のアン・リー(李安)氏は「グリーン・デスティニー(臥虎蔵龍)」を撮った理由について外国人に華人固有の侠客の侠文化を見せたかったからだと言う。「グリーン・デスティニー」が多くの国際的映画賞を受賞し、主人公李慕白の颯爽とした大侠のイメージは欧米諸国にも受けいれられたようである。現代の武侠小説の大侠は李慕白のイメージとは少し違うかもしれないが、それでも志は同じ「義のあるところ、死をも辞さず」である。辞典にも書いてあるとおり、大侠とは義を好み勇敢で、強きを挫き弱きを助け、「古来より侠を侠とする所以は、是非を明らかにし、礼義を知り、気概を重んじるからである」と言うものである。
侠、華人文化の中でも時代を超えて生き続け、今も無限の想像を駆り立てるイメージはいかに作り上げられてきたのだろうか。そして、どんな人物が侠と呼ぶに相応しいのだろう。
侠客の鼻祖と言えば『史記』の遊侠列伝に挙げられた郭解と朱家から始めなければならない。郭解の輩は「その行いは正義に則っているとは言えないものの、その言は必ず信あり、その行いは必ず果し、承諾すれば必ず誠実で、死を恐れず、士の苦難に赴く」だと『史記』には簡潔に書くのみだが、これが中国の大侠の典型なのである。
太史公司馬遷は遊侠と刺客に別々に伝を立て、荊軻のように知遇の恩に感じて暗殺を企てるのは刺客に過ぎず、公のために私を捨てる遊侠とは違うと言っているのである。しかし、その大侠は本当にそれほど天下の為に身を捨てたのだろうか。
「郭解や朱家は漢代の遊侠の中でも少数です」と、かつて侠文化を研究したという仏光大学の龔鵬程校長は話す。その昔の侠客は決して正義の徒ではなかったが、歴史家の責任としては人物像の解釈に異なる視点を提供することにあった。史記はそれぞれの人物を叙述するに当り、そこにそれなりの存在価値を見出し、取るべき部分にスポットを当てているが、それは特別な例に過ぎないことが多い。例えば名医として扁鵲が列伝に挙げられているが、当時の普通の医者は扁鵲のような起死回生の術など持ち合わせていなかった。同じように郭解や朱家には賞賛すべき点があっても、当時の市井の遊侠は、今なら単なる痞子(やくざ)としか言えないもので、史記もそこまでは扱っていない。
「この時代に遊侠と言われたのは盗賊や庶民を絞る土地の顔役でした」と龔校長は話す。侠は正義ではないものの、幾つか手本になる例を挙げておこうと言うのが、司馬遷の本来の意図であった。
遊侠は武力で禁令を犯すので、漢の統一後に社会秩序維持の為に厳しい取締りにあっている。「漢が統一し、遊侠を誅した」とあるが、時代が必要とするのか、侠が歴史の中から姿を消したことはなかった。
そもそも古来より、大侠は特定の階層に属したわけではなく、書物に言う侠の姿は多様で、意味するところも単純ではない。しかし人間の記憶は選択的なもので、郭解のように私を捨てて義を行う侠客は少数であろうと、その少数が人間の心を捉えて離さないのである。それに世の中は意のままにならないことばかり、弱い者虐めは時に耳にするので、侠客が不正を正し悪者を打ち殺すというのが人気を呼ぶ。国の勢いが衰えているときは尚更、義を行う精紳が叫ばれるのである。
20世紀初頭の大学者顧頡剛は、かつて遊侠の消長をこう解釈した。遊侠は布衣(無官)の身分でありながら生殺与奪の権を握り、統一帝国の統治者には決して許せない存在である。漢代において徹底して弾圧され、その代表する尚武の精神さえ振わなくなった。しかし統一政権が崩壊し農民が蜂起すると、似たような人物が出現する。制度が崩壊し綱紀が緩む時代、階層の別や道徳規範が曖昧になると、社会組織を離れた個人の可能性が増大し、遊侠が活躍する場が生れる。
魏晋南北朝以降、短命な王朝が続いて戦乱の世となると遊侠が出現する。ただその遊侠も玉石混交で、火事場泥棒の輩なのか、真に国のため民のための忠義の士なのか図りかねる。どんな人間が侠なのか、分りやすい特質も説明しにくいのである。三国時代の曹操は遊侠少年と言われたが、それは放蕩無頼な毎日を送っていたに過ぎない。義軍に参加して黄巾の乱を平定し、漢の王朝を簒奪してから梟雄と言われるようになる。
遊侠の正義の徒というイメージは唐代になってやっと確立し、ここから大侠の高潔で正義の士の性格が生れ、卑劣な輩と完全に手を切る。
大唐の盛んな世は気宇壮大で、外国人が多く雑居した長安の都は国際都市だった。社会的にも文を軽んじ武を重んじ、文人までが侠客を自認したし、豪侠と言われた豪放な侠客のイメージが唐の伝奇小説の三大テーマの一つだった。この時代の風潮に合せて、文学における侠客も脇役から一躍主役に踊り出る。「侠客は唐の時代にプラスのイメージを強め、漢代の、正義に則らないという側面が次第に転換され、文武を兼ね備えた英雄に変っていったのです」と龔鵬程校長は言う。
道教の神仙思想が伝奇小説に入り込むと共に、中国の豪侠の武道は不断に洗練を加え、八仙人の一人呂洞賓のように仙術にも精通した「剣仙」まで出現し、大侠は神出鬼没で空を飛び幻術を使い、人を殺し首を取る。仇を討ち、恩に報い、人を助けてから、飄然と去って行くところを知らず、この世に未練を持たない。
宋の時代になると中国では内憂外患が頻発し、政治は暗闇、天災や不幸な事件が続いたために、豪侠が義を行う物語が欠かせなくなった。緑林の好漢を描いた『水滸伝』は、中国最高の侠客の小説と見なされている。世の中の様々な不合理を正さんと、梁山泊の一百八人の豪傑が役人と対抗するこの物語は、元末から明の初めに施耐庵が長編小説に整理したものだが、物語自体は宋の時代から一般に流布していたものと言われる。
国家の衰退の中で、宋の理学家たちは国家安定を目指して儒学の振興を提唱するが、礼教思想の束縛の下にある儒者たちには迂遠な感じが付きまとう。血気逸る侠客は、儒者の文弱に強さを与え、儒と侠が一体となる境地を簫と剣で表す。「簫は文学芸術を、剣は不屈の意志を表し、両者が支えあって中国人の理想の人間像を作り上げます」と、淡江大学中文科の林保淳助教授は言う。儒と侠が合さった人間像は小説や戯曲を通して具体化され、後世の武侠小説もその影響を受けて主人公は常に文武一体の侠客である。
時代が英雄を作る。明朝は倭寇に苦しみ、女真に蹂躙されたために、武を重んじる気風が高まった。文人でさえ軍旅に身を投じ、兵学を研究した。明朝の名将戚継光や兪大猷などは文武を兼ね備えた儒将であった。多くの大儒が兵学の教養を具え、武術の著をものしている。「この時代が中国武術の発展の鍵となりました。例えば、最初に内家拳を提唱したのは黄宗義(明末清初の大儒、思想家)です」と、長年武術を学んできた龔鵬程校長は言う。太極拳、少林寺拳法などの研究書が出たのもこの時代で、中国の武術は大きく発展して後世の武侠小説に武術の基礎を提供することになる。
その一方、儒と侠の一体化が求められたために、中国の大侠の意味も大きく変ってくる。肝胆相い照らす梁山泊の好漢が豪侠なのかどうかも、議論の的となった。「平然と人を殺す梁山泊の英雄は、倫理的に説明しにくいのです。一体彼らは道徳を無理強いしているのか、それとも横暴な道徳に反対しているのか分りにくいのですが、この問題が後に中国武侠文学の最大の特色となります」と、龔校長は言う。
「史記の時代よりも前から、中国では武術に王道思想を取り込み、武術の最高の理想は覇道の克服にあります」と林助教授は言う。中国の侠の理想では道徳の方が武術より重要で、武の頂点は徳の頂点を意味しない。中国の大侠は倫理と徳を実践し、友誼を重んじ、礼に適った行いに努め、民を労り、国に忠節を尽くさなければならない。これだけの重荷を負わされると、大侠も颯爽としてはいられない。
こういった視点が武侠小説の侠客の人物像にも影響し、「中国の侠客は基本的には仁でなければなりません。ですから低い次元の徳で欠陥があっても、より高い次元では決して誤ってはならないのです」と、林助教授は大侠が負う宿命を語る。
「グリーン・デスティニー」がヒットしたため、原作の小説も売れ出した。誰もがヒーロー李慕白の本来の姿を知りたがったからなのだが、映画とは随分違っている。原作の李慕白は道徳と愛情の間を揺れ動き、親友の孟思昭が世を去って月日が経ち、未亡人の兪秀蓮が愛情を寄せても、心を決められない。親友の妻を娶っては道徳に悖ると考えながら、兪秀蓮を忘れることができず、迷い続けるのである。これには迂遠過ぎて堪らないと、ある武侠小説ファンは話す。こんな有様では恩と仇を明らかにするという大侠の本来の性格が、どこからも見て取れないと不満さえ出てくるのである。
しかし、李慕白のように迷い続けるのが現代の大侠でもある。「中国の武侠文学で出来のいい作品は、主人公が内面に矛盾を抱えています。剣を頼りに自由自在に生き、人を殺すのも恐れないかのようで、実は昔からの倫理に縛られて、思い切った行動に移せないと言えます」と龔鵬程氏は話す。武侠小説では、大侠が倫理の問題で思い悩む様が描かれているのである。
こうして倫理に足をすくわれて、きっぱりとした行動の取れない大侠には本能的な生命力の躍動が感じられず、小説の中で倫理を無視して愛に生きるような人物像ほどには魅力的ではないことがある。現代武侠小説の大家金庸の筆になる主人公たち、張無忌や令狐沖などは、正邪の間を揺れ動いているために、徹底して愛に生きる相手役のヒロインの趙敏や任盈盈、小龍女のような精彩を欠く。
こうした現代の武侠小説の侠客たちが、様々な愛情を体験することについて、自身でも多くの武侠小説を書いている作家の荻宜氏はこう語る。以前の武侠小説は新聞連載小説だったので、ストーリーを長く持たせるために大侠も独行するわけには行かなくなったというのである。そこで袖を翻し、一人行く孤独感、一人剣を振る悲壮な雰囲気は薄れていく。
「清末になると、武侠小説に恋愛物語が入り込み、主人公は恋に悩むことが多くなりました」と、女性の侠客である女侠のタイプの変化を研究したことがある林保淳助教授は言う。武侠文学にはきわめて早い時期から女性が登場していて、その分量も男性に引けを取らない。しかし、早い時期の女侠は女性とは言え冷然とした態度で、女性らしさは余り見られないのである。唐代伝奇小説の女侠聶隠娘は、子供と遊ぶお役人の姿を見て殺せなくなってしまい、師である尼に叱責される。「この役人のような輩に出会ったら、まずその愛するものを殺し、それから本人を殺せ」と言うのである。仏教の影響を深く受けていた唐代のこと、小説の登場人物は人の愛するものを殺すし、さらには自分の愛するものでも断ち切れるのである。清朝の小説『児女英雄伝』のヒロイン十三妹でも、男性的で未練を持たない侠としての性格が目立つ。
20世紀に入り、武侠小説の大家顧明道の『荒江女侠』以降、再び女侠が活躍するようになるが、その性格は次第に変っていく。清末に流行した鴛鴦胡蝶派と呼ばれるロマンチックな小説スタイルに影響され、武侠小説の女性も愛を語るようになる。「女性が恋を語りだすと、男性の感情も繊細に描写されるようになり、侠客に女性的な面が入り込むと共に、大侠も愛情が生の一部であることに気づくのです」と林保淳助教授は言う。王度廬の筆になる「グリーン・デスティニー」の原作小説「臥虎藏龍」が含まれる『鶴鉄五部曲』は、20世紀初頭における愛に苦悩する大侠を描いて精彩を放つ武侠小説の連作であった。
「王度廬は武侠小説の中でも、侠と恋愛とを二つの柱に据えるスタイルを確立しました。この点だけを捉えても、王度盧の小説が成功したか否かを問わず、少なくとも武侠小説の発展において新しいページを開いたと言えるのではないでしょうか」と、林保淳助教授は評価する。王度廬の筆になるヒーローは超人的な英雄でもなければ、侠客らしくもない。むしろ優柔不断で感情に溺れる書生であり、侠客と言うよりは文人で、欠点も多い。しかし人間的な李慕白が、多くの読者の共感を呼んだのである。李安監督も、多くの武侠小説の中でどの大侠が好きかと聞かれても困るが、「臥虎藏龍」を選択したのは、李慕白の迷い続ける人生に共感を覚えたからであると言う。
そうなのである。人々に尊敬される大侠とは才気溢れる失意の文人でもある。颯爽とした大侠は平凡な人生を忘れさせる想像の人物で、スクリーンや古い紙の中にしか存在しないのだ。