5月20日、発足してからちょうど一年を迎えた民進党政権は、批判と肯定の両極端の声の中で、平穏に一年が過ぎたことを祝うとともに、さまざまな面における成果と課題を検討した。その日、行政院の頼英照副院長は政府を代表して、ある財政経済会議に出席した。企業界から出された「与野党は経済発展を重視し、迅速に政局を安定させるべし」との建議に応え、頼英照副院長は陳水扁総統の談話を引用し、経済発展を成功させるには、政府と企業と民間の参与が欠かせないと語った。その後のグループ討論では、さらに具体的に、企業と労働者、企業の合併と買収、ハイテク産業、バイオテクノロジーの人材、そして金融改革などに関する政府の積極的な考えを述べ、出席者から前向きの評価を得た。
行政院副院長であり、財政経済小委員会の幹事長でもある頼英照氏は、我が国の政界では珍しく、各党派から均しく尊重されている人物だ。法律と財政経済面でのキャリアは十分にある。中興大学法律研究所(大学院)所長、財政部関政司司長(財政省関税局長に相当)、同常務次官、政務次官、台湾省財政庁庁長、同副省長、司法院大法官と務めてきたのである。このように、さまざまな党派の執政の下で、常に要職に就いてきた人は台湾では決して多くない。
マスコミは氏を「能力があり、距離もある」と形容する。幾度かの険悪な政治闘争の中で、決してそれに巻き込まれることなく、むしろさらに高い地位へと上り、その専門領域で政府に貢献してきた。特に多くの人が口にするのは、台湾省政府の簡素化が決った時、国民党の主流派と非主流派の間でどちらとも同等の距離を保ち、省政府簡素化の前に当時の李登輝総統から司法院大法官に抜擢されて政界から一度離れたことだ。
頼氏は政治闘争と距離を保ちながらも、要職に就くことを拒んだことはない。昨年10月に唐飛氏が行政院長を辞任した時、経済の立て直しへの期待が高まる中で、新内閣の財政経済の舵取り役を引き受けたのである。
民主主義の歴史がまだ浅い台湾では、政治環境におけるイデオロギー色が強く、大部分の政治家が必然的にどちらかの側に寄るものと見られているが、頼氏は常にそれらと一定の距離を置いており、そこからも知識人らしい志と無欲な姿勢がうかがえる。なぜこのように心を広く持てるのかと問うと、頼氏は笑って「慈なり、故に能く勇なり。倹なり、故に能く広し。敢えて天下の先に為らざる、故に能く器を長く成す」という老子の言葉で答える。これは氏の座右の銘だ。先哲の知恵を崇拝する頼氏は、いま読んでも新しく感じられる2500年前の文章からさまざまなものを汲み取ってきた。実際、文章も非常にうまく、詩詞古典を多数引用して優れた文章を書く。一番なりたかったのは実は学校の国語の先生だとも言う。その国語への思いの由来は、少年時代にさかのぼる。
台湾の祖国復帰の翌年、頼氏は、当時勉強の機会も少なかった宜蘭の田舎に生まれた。そうした中、知識欲の旺盛な少年にとって書物は宝物だった。生まれて始めての自分の本は、小学校3年の時に父から贈られた『唐詩三百首』だったと言う。
当時『唐詩三百首』は一冊10台湾ドル、決して安いものではなく、少年はそれを大切にして最初から最後まで熟読したため、今でも暗誦できる。
幼い頃に唐詩の啓蒙を受けた頼氏は、専門知識の勉強をする他には、今でも古典を最もよく読む。古典文学の書籍はセットで購入している。そうすれば書店で本を選ぶ時間が省けるし、好みが偏ることもないからだという。
「人生至る処 知らず何にか似たるを、まさに似たるべし 飛鴻の雪泥を踏むに。泥上に偶然指爪を留むるも、鴻飛んでは なんぞまた東西を計らん。老僧はすでに死して新塔となり、壊壁には旧題を見るに由なし。往日の崎嶇なお記するや否や、路長く人困しみて蹇驢の嘶きしを」
この蘇軾の詩「子由の“澠池懐旧”に和す」は、役人としての道の険しさを歌ったもので、頼氏がしばしば自らの状況を映す詩でもある。
「同じ雪の上に残された雁の爪跡を見ても、まったく異なる二つの心境が考えられます」と語る頼氏は、困窮して深く傷付く人もいれば、涙を拭き、勇気を出して対岸まで泳ぎ着く人もいると言う。
頼少年の小学校の成績は優秀だったが、中学入試の日に汽車が遅れたため合格できなかった。小学校の先生は、その才能を惜しんで少年の父親を説得し、まだ物の不足していた時代に5年制の農業学校に進むことになった。
少年自身、自分は一生学歴とは縁がないだろうと思い、王雲五のように学位を持たない学者になりたいと考えていた。そのため農業学校に通いながら、当時流行っていた「実存主義」を含め、さまざまな分野の書物を読みあさった。
その実存主義については、頼氏にも独自の考えがある。当時の社会では一般に実存主義は退廃的なものだと見られていたが、カミュの『シシュフォスの神話』を読んだ時に、本質より先にある実存、奮闘過程の理念を感じ、再び学問への大きな志を抱くようになったのだという。
農業学校を卒業すると兵役に就いた。成功嶺で教育班長を務めていた時、他の兵士から、自分は通えなかった普通高校の教科書を借り、わずかな時間も惜しんで、計画を立てて勉強した。屋外訓練の時にも制服の下に教科書を忍ばせ行くほどだったという。これほど熱心に勉強する姿を見て、最初は彼を笑い、勉強に反対していた隊長も心を動かされ、彼自身もますます知識欲を旺盛にし、以後、大学から博士過程修了まで13年間学問を続けることになった。
大学の受験勉強をしていた頃は毎朝4時に起床し、兵営の横にある道路の薄暗い街灯の下で教科書を読み、6時の起床のラッパで兵舎に戻った。野外訓練の時にも教科書を持って行き、少しでも時間があると取り出して読んだ。熱い時には、教科書も汗でぐっしょり濡れた。
わずかの時間も惜しんで勉強するという習慣のおかげで、彼は第一志望の中興大学法律学科夜間部に合格し、昼間は働きながら、大学では毎年トップの成績を取り続けた。
大学5年の頃、昼は政府青年輔導委員会と台北市役所で働いていたため、授業以外には、ほとんど勉強する時間がなかった。だが彼は効率の良い独自の勉強方法を編み出していた。夏休みや冬休みの間に次の学期の勉強を終えてしまうのである。学期が始まると、他の学生にとっては初めての授業が、彼にとっては復習になった。
これだけではない。法学部に通っていた彼は、暮らしの中で法律を学び続けた。映画を見に行けば、チケットを買って映画を見るという行為には、法律上どのような債権債務関係があるのかと考え、途中で停電になったら、どの条文に従って映画館に賠償を求められるのか、と考えた。また新聞を読む時には、自分が裁判官だったらこの事件にどのような判決を下すだろう、などと考えた。
勉強と生活を一体化させたことで急速に力を付けた彼は、大学3年の時に書記官の試験に合格、4年生の時には弁護士の資格を取得した。そして卒業する年には司法官の試験に合格しただけでなく、台湾大学法律学研究所(大学院)と税務法制官の国家試験にも合格した。
その後は国税局に勤務しながら、台湾大学法律学研究所に通い、相変わらず熱心に勉強を続けた。その頃の出来事で忘れられないことがある。
国税局に勤務していた頃、財政経済の奇才と呼ばれた陸潤康氏が直属の局長だった。当時、陸氏は『アメリカ連邦憲法新論』という本を書き、国税局内で法律を学んでいる部下に一冊ずつ贈った。頼英照氏はその本を週末のうちに読み終え、アメリカ情報センターまで行って関連資料を調べた結果、陸氏が引用している資料の一部がやや古いものであることがわかった。そこで彼は手紙を書き、「修正表」を添えて陸局長に送ったのである。局長からの返事はなかったが、それが印象に残ったのだろう。1984年に陸氏が財政部長(閣僚)に就任した時、頼氏は関政司の司長(局長相当)に抜擢されたのである。
多くの人は、頼英照氏がどんな試験にもパスするのは「カメラのような記憶力」があるからだと言う。氏自身、若い頃は確かに記憶力が良かったが、勉強は理解することが大切だと言う。すべての物事に起承転結と核心となる道理があり、問題点を見出してそれを解明すれば、覚えやすいだけでなく、忘れにくいのだと説明する。ただ丸暗記しただけでは、どんなに記憶力が良くても、すぐに忘れてしまい、真の知識にはならない。
頼英照氏の学問への取組みは非常に着実だ。着実で身についているからこそ、他の人より先見の明がある。公費による博士課程留学の試験を受けた時、彼は人気のあった一般法律科目ではなく、国際貿易法を専攻した。これによって法律から財政経済の世界へと歩み入り、台湾経済のテイクオフの時期には、国際化のための政策の担い手の一人となったのである。
財政部関政司司長の時には、関税の税率を大幅に引下げ、国際商品統一分類制度を採用し、通関自動化制度を設けるなど、数々の税制改革を行ない、WTO世界貿易機関への加入のために良好な基礎を築いた。
財政部次官を務めていた時には、財政部による数々の証券・金融改革に協力し、証券取引法の改正、金融商品多様化の推進などを行ない、欧米との貿易交渉では第一線で交渉を担当した。また代表団を率いてOECD経済協力開発機構のテクニカル・コミッティに参加し、イギリスやフランスとの間で多項目にわたる協定を結んだ。
台湾省政府財政庁の庁長に任じられてからは、民間との交流を深め、省に属する金融機関の民営化を積極的に推し進めた。
昨年の総統選挙で政権交代が実現してからも、頼英照氏の財政分野での専門能力が新政権から高く評価され、行政院の副院長に任命された。以来、金融制度健全化、従来型産業への支援、インフラの強化、就業率の向上や民間参与の促進など、財政経済面での数々の政策を打ち出し、新政権による経済発展の希望を担っている。
現在の台湾経済の苦境について、頼英照氏は、台湾をグローバルな視点から位置づけなければ正しい判断はできないと考えている。氏は経済学の有名な「雁行理論」を挙げ、この半世紀の間、経済発展はアメリカを先駆者として展開してきたと説明する。アメリカでは30年前から労働集約型産業である紡績業や製靴業が、台湾や香港を含む海外に移転し始めた。そして台湾でも近年、従来型産業が海外へ出て行くようになり、情報産業などのハイテクがそれらに取って代るようになったのである。今後は、陳総統や張行政院長が主張しているようにバイオテクノロジーや煙突のない工場が主流になっていかなければならない。これには政府と学界、そして民間が一緒になって計画を立て、国内の人材や研究開発を有効活用し、市場ににおいて有利な地位を確立していく必要がある。
頼英照氏は、自分が国民のために働くことになったのは縁があったからだと言う。これは謙遜し過ぎとも思われるが、頼氏は政府で働くようになってから確かに広く縁を結んできた。陳総統が行政院副院長の人選を考慮していた時にも、同じ宜蘭出身の政界の人々が強く氏を推薦したという。
将来のことを問われ、頼氏は、正直なところこれまでライフプランというものを立てたことはなく、実際に計画通りに歩んで行ける人などいないだろうと語る。ただ、勉強であれ仕事であれ、勤勉に誠実に、そして着実に取組み、自分にできる最大の努力をしていくだけだ。そうしていれば、いつチャンスが訪れても準備は整っているのだから、余裕を持ってそれを迎えることができると言う。
小作農家の子供が総統になり、農業学校を出た勉強の好きな田舎の少年が行政院副院長になって、国家経済の舵取りをしている。努力が報われるこの台湾において、頼英照氏の物語は決して偶然ではなく、必然のものと言えるのではないだろうか。

農業学校時代の頼英照少年。田舎のごく普通の純朴な少年だ。(頼英照提供)

頼英照氏は兵役を終えてから大学に進み、修士号を二つと博士号を取得するまで13年間学問に取り組んだ。これは公費でハーバード大学に留学した時の写真だ。(頼英照提供)

法律と財政経済の専門家である頼英照氏は古文と詩詞を愛読し、特に蘇東坡の才気と瀟洒なところが気に入っている。下は頼氏直筆の老子「道徳経」の言葉だ。

法律と財政経済の専門家である頼英照氏は古文と詩詞を愛読し、特に蘇東坡の才気と瀟洒なところが気に入っている。下は頼氏直筆の老子「道徳経」の言葉だ。