不朽なる流れ
徳光さんによると「当時はマラリアが横行し、八田先生は皆にマラリアの予防薬を飲むよう促しました」という。だが薬はひどく苦く、帰り道で捨ててしまう人が多かった。八田の妻の外代樹はそれを知り、帰宅する彼らについて行き、きちんと飲むよう注意した。
平等を重んじる八田の考えが最もよく表れているのが「3年輪作給水法」だろう。嘉南大圳;の給水量は、灌漑区全体の3分の1、つまり約5万ヘクタール分しかなかった。そこで不公平にならないよう、彼は15万ヘクタールの平原を3区分し、それぞれ1年ごとに稲作、サトウキビ栽培、無給水が順に巡ってくるようにした。無給水の年はその地区では雑穀を植えた。
この制度で公平に給水できただけでなく、異なる作物を植え替えることで土壌が肥沃になった。嘉南大圳;の給水開始後わずか4年で、台南庁(現在の雲嘉南地方)は台湾随一の穀倉地帯へと成長し、米とサトウキビの生産高は年2万トンから8万トンに増加した。
ダム完成後、10年間辛苦を共にした技師や労働者は「交友会」を結成した。そして記念として八田與一の銅像と、事故やマラリアで殉職した134名の同僚のために殉工碑を建てた。碑には亡くなった人々の名が台湾人日本人の区別なく、死亡日順に刻まれた。これは、主従関係を常に強調する殖民統治時代においては決して容易なことではなかった。
大戦中の1942年、日本の新たな占領地であるフィリピンへ灌漑工事調査に赴くべく乗り込んだ「大丸号」が米軍の爆撃に遭い、八田は帰らぬ人となった。遺骨は彼が心血を注いだ烏山頭に埋葬された。やがて日本は敗戦、台湾にいた日本人は送還されることとなり、妻の外代樹はそれを拒むかのように烏山頭ダムに身を投げた。今、夫妻の遺骨は同じ墓に眠る。
「噫々彼の淙々たる曽文渓水は此蜿蜒たる長堤に蘊崇して長へに汪々たる碧潭を奉し随時の灌水は滾々還流して盡きさる限り諸子の名も亦不朽なるへし」殉工碑に寄せた八田のこの碑文は、くしくも嘉南の人々の彼への思慕を代弁する。