中国のキュリー夫人と呼ばれた呉健雄(1912-1997)は、華人科学史に残る大科学者で、ノーベル賞こそ受賞しなかったが、いかなる賞も及ばないほど高い評価を受けている。
米国籍の胡玲(1947年-)は華人女性として呉健雄晩年の唯一の学生で、現在は米国科学アカデミーと全米技術アカデミーの会員で、最も優れた女性華人科学者である。
呉と胡二人は、台湾の中央研究院数理組でただ二人の女性アカデミー会員でもある。呉健雄は1997年に84歳の高齢で世を去ったが、今年61歳の胡玲は、今まさに学術的に油が乗った時期である。
かつて呉健雄の講演会に行かなかったら、科学者として33年を生きて、呉健雄との師弟の思い出を語ることにはならなかっただろう。華人女性科学者二人の縁というものだろうか、二つの文化の間を生きた人生が交錯している。胡玲はいつの間にか、自分の中にも呉健雄と同じ科学への情熱が潜んでいたことに気づいた。あたかも娘が成長していくにつれ、母に似てくるかのように。
時は1957年1月16日に遡る。それは国際物理学界を驚かせた日であった。ニューヨークタイムズ一面の見出しは「実験が物理学の基本概念を覆す」であった。自然界は鏡像のように左右対称で原子内部も同じと考えられていたのが、原子内部では対称性が保存されないとするパリティ対称性の破れは、1956年末にコロンビア大学と国立標準局の物理学者が予言していた。それを証明した実験物理学者が、ベータ崩壊の世界的権威である呉健雄であった。
呉健雄はコバルト60を使い、極低温(0.003K、零下273度)でベータ崩壊を起させて、華人物理学者楊振寧と李政道の理論的予言、物体に働く4つの相互作用のうち、弱い相互作用ではパリティ対称性が破れることを証明した。
その日、朝早く新聞を開いた10歳の胡玲は、興奮に手を震わせながら記事の一字一句を読み進んだ。そしてこの科学者の名前呉健雄Madame Wuを心に刻んだ。
エンジニアの父は「中国で最も偉大な物理学者」だと教えてくれた。この呉夫人は両親と同じく、上海からアメリカに渡り成功した中国人であることも知った。しかし、パリティ対称性の破れで1957年にノーベル賞を受賞したのが楊振寧と李政道で、それを証明した呉健雄ではないのがなぜか、当時の胡玲は知らなかったし、その後も理解できなかった。

二人の華人女性科学者は極めて高く評価されている。カリフォルニア大学サンタバーバラ校の胡玲教授は「中国のキュリー夫人」と称えられる呉健雄(左・呉健雄学術基金会提供)の衣鉢を継ぎ、まるで娘が成長すると母親に似てくるかのように、また後進を育てている。
師弟の縁
コロンビア大学はアメリカの物理学の重鎮で、しかも胡玲の家に近かった。父の影響を受け胡玲は小さい頃から数学や物理に天分を発揮した。高校のときの科学キャンプで華人同士ということで、主催者側が呉健雄に紹介してくれた。そのとき、胡玲は呉健雄の上海語がいくらかは聞き取れた。
1969年、胡玲は優秀な成績でバーナード・カレッジを卒業しコロンビア大学物理大学院に入学した。1971年からは呉健雄の講座に入り、素粒子物理学と加速器を学んだ。当時、胡玲は24歳、呉健雄は59歳であった。
コロンビア大学物理学科の校舎はPupin Hallと呼ばれる建物で、第二次世界大戦の期間に原爆開発のマンハッタン計画が実施された重点研究基地である。1944年、呉健雄は原爆の父オッペンハイマーに呼ばれて共同で計画に参加し、その後コロンビアに残った。
1957年、パリティ対称性の破れの実験が発表されると、メディアは競って呉健雄の業績を報道し、Dragon Lady(美しいが横暴で危険な女性の意味)の称号を奉った。実験室での厳しい学生の取扱いを揶揄したのである。

終ることのない実験
呉健雄の学生で、後にラトガース大学最初の女性教授となったノエミ・コラーは「自分も努力するが学生にも努力を強い、朝晩、土日も休むことはありませんでした」と呉健雄を語る。
当時すでに60歳の高齢でありながら、呉健雄は相も変わらず毎日12時間研究を続け、年中無休であった。24歳で呉健雄の実験室に入った胡玲は、そのワーカホリックのような生活スタイルになかなかなじめなかった。
学生仲間と朝早く実験室に入ると、机には呉健雄のメモが残されていた。「×時に実験室に来ましたが、誰もいませんでした」と文句が書いてある。
最初は、週末ごとに実験室に行くのが嫌で、休暇なのに呉健雄が電話で実験の進度を聞いてくるのも嫌だった。
それでも胡玲は呉健雄の気持ちを理解していた。「呉博士は身をもって学生に、科学は志だと教えていたのです。ですから文句は言っても、怠ける人はいませんでした」という。
1971年から75年、胡玲は呉健雄について博士論文の研究を進め素粒子加速器の実験を行っていたが、呉健雄は別に大型プロジェクト二つを抱えていた。
呉健雄は自信家で、しかも粘り強く、目標を決めると、実験過程で何度壁に突き当たろうと最後までやり通そうとした。
ある時、二重ベータ崩壊の実験をしていた。呉健雄はすでにベータ崩壊の国際的権威であったため、実験プロセスから実験器具の製作まで、人の手を借りようとはしなかった。壁にぶつかると、自分の理解する理論に戻って修正し、途中で諦めたりはしなかった。

呉健雄科学キャンプに参加した学生たちが、講義の後に胡玲(右から2人目)に質問する。
一歩下がれば全体が見える
5年後、胡玲が博士論文「反陽子の質量と磁気モーメント」を完成させたとき、呉健雄は卒業後どうするつもりかと彼女に尋ねた。
呉健雄の博士課程指導教授エミリオ・セグレが呉健雄に言った言葉「一歩下がれば全体が見える」を思い出し、胡玲はずっと自問していた。
自分にとって何が一番重要なのだろう。自分がやりたいこと、自分の才能はどこにあるのかと。考えれば考えるほど、呉健雄のように人生を素粒子物理学に捧げたいとは思わなくなっていた。それは自分のやりたいことでも、自分に向いたジャンルでもないのだ。
その当時、超伝導や電子デバイスを極小化する微細加工技術が脚光を浴びていて、アメリカの大規模実験室はこれに力を入れていた。胡玲は「ニュージャージーのベル研究所に空きがあるから、そこに行きたい」と無邪気に申し出た。
物理から光学、素粒子物理から固体物理、表面物理への胡玲の転向に、呉健雄は気を悪くすることもなく、あたかも娘を嫁がせるかのように、希望する行き先を探してくれた。
呉健雄はアメリカ物理学会の最初の女性会長で幅広い人脈をもっていて、ベル研究所がちょうどコロンビアに人材募集をかけてきたところに、胡玲を推薦してくれたのである。

逆境には頭を下げて
胡玲はベル研究所にチャンスを掴んだが、固体物理、超伝導、半導体、微細加工技術、ナノ技術など、どれをとっても胡玲が呉健雄の下で学んだ素粒子物理学とは全然異なっている。改めて新しい用語を覚え直し、読んだことのないジャンルの科学雑誌を読み、苦心の毎日を送っていた。
そんな時、ある声が頭に響いてくる。「頭を下げて、前に進みなさい」と。
「困難にぶつかり、科学の大海で孤独を感じたら、頭を下げ歯を食いしばり、努力しなさい」と、呉健雄はそうやって学生を励ましていた。
「Pupin Hallで学んだのとベル研究所での実験は全く違いますが、道は違っても行き先は同じ、精神は同じです」と胡玲はきっぱりという。
1984年、胡玲は科学人生の二度目の分岐点を迎える。学術人生を始めた東海岸から、西海岸のカリフォルニア大学サンタバーバラ校に移り、電気とコンピュータ学科の教授として現在に至る。24年来、胡玲は材料科学、ナノ科学、光電と生物学を結びつけ、ウィルスのナノ構造を金属や半導体に接合するなど学際的な研究を続け、ネーチャー誌やサイエンス誌などに多くの論文を発表してきた。
ニューヨークからカリフォルニア、素粒子物理学からエンジニアリングと、胡玲は呉健雄から離れて、自分の科学の道を歩み続けてきた。

二人の華人女性科学者は極めて高く評価されている。カリフォルニア大学サンタバーバラ校の胡玲教授は「中国のキュリー夫人」と称えられる呉健雄(左・呉健雄学術基金会提供)の衣鉢を継ぎ、まるで娘が成長すると母親に似てくるかのように、また後進を育てている。
二世代の女性の二つの人生
1936年、呉健雄は祖国と知人に分れ、上海からアメリカに旅立った。その科学人生はカリフォルニアに始まり、ニューヨークに終った。一世代後、胡玲はニューヨークで呉健雄の研究室に入り、中年を過ぎてカリフォルニアに移った。二世代の女性は、全く異なる科学の道を辿り、人生を送ってきた。
胡玲によると、呉健雄が科学研究を始めた1940年には、全米トップ20の大学に女性教授はいなかったという。コロンビア大学物理学科も最初はベテラン科学者として呉健雄を招いたが、女性であることを理由に教職にはつかせなかった。1958年、パリティ対称性の破れを証明する実験を発表してから2年後になって、ようやく正式に教授に就任した。胡玲が37歳で教授となったのに比べると、9年も遅れている。呉健雄は社会的制約や科学的資源の競争に直面し、どれも後輩である胡玲よりも厳しいものがあった。
「本当に大変で」と、胡玲は道を切り開いた女性科学者としての苦難を形容する。1970年代、すでに60歳を超えていたが門下の研究生の面倒を見ながら、自分で実験器具を製作し、男性科学者に伍して研究費を取ってこなければならなかった。男性でも辛い仕事であったろうと、胡玲は言う。

胡玲(左)と同じく科学者の夫デビッド・クラーク教授(中央)は呉健雄科学キャンプに出席するためにわざわざ台湾を訪れた。右は呉健雄学術基金会理事長で中央研究院副院長の劉兆漢。
二つの文化、二様の性格
中国に生まれ育った呉健雄にとって、郷愁が一生の痛みであった。かつて恩師胡適に、留学を終え中国に帰るはずだったのに、情勢の変化が大きくどうしていいか分からない感があると手紙を書いた。
1958年と59年に、父と兄の訃報を受けたが、国を離れて37年後の1973年に漸く故郷に戻ることが出来た。しかし親戚知人はすでになく、文革が祖先の墓まで壊していた。内向的だが意志の強い彼女は、学生の前でこういった話をしたことがない。たとえ話したとしても、中国語も出来ず、戦乱の経験もない胡玲には、一世代前の故郷に帰りながら、胸を抉られる苦痛を味わうなど、理解することは出来ないだろう。
「呉博士はとても中国的な方でした」と胡玲は語る。呉健雄の印象というと、チャイナドレスを身につけ、襟をきちんと立て、後れ毛一つなく髷に結い上げている姿である。
英語を話すときも上海なまりが混じり、焦ると思わず「アイヤー」と中国風の声を出す。
「あの世代、中国からアメリカに来た女性はどれだけ成功しても、自分になじみのあるライフスタイルを守っていました。中国の服を着て、中華料理を食べて」と、胡玲から見る呉健雄は自分の母親と重なる。
科学的な業績を見れば、呉健雄は優れて国際的であった。「呉博士は各地の国際会議に出席されて、各国の科学者と交流を持っていました。その科学思想と見識は、早くから狭い中国の枠を越えていたのです」
「文化での中国性と科学における国際性が、同時に呉博士の身に備わっていました」と胡玲は呉健雄を評価する。

師たるもの、身をもって教えなければならない。実験室での呉健雄は自らを厳しく律して毎日12時間以上働き、学生にも同様の努力を求めた。
娘も母になる
「いつの間にか、呉博士は私の学究の徒としての人生に影響しています」と胡玲は言う。自分が教授になってみると、若い学生からは厳しい師と思われるようになり、そこでようやく呉健雄が学生を育成するために注いだ苦心が分かるようになってきた。
胡玲の頭の中には、呉健雄が実験室に学生に書き残したメモが浮かんでくる。24時間、厳しく学生を追い回す姿である。それに馴染めず、不満も抱いたが、今では全く違う思いがわいてくる。
「たとえば新しいアイディアを思いついて興奮しているとき、学生を実験室に呼びつけて実験したくなる衝動を感じます。一刻もおろそかに出来ないし、休みはおろか、お喋りもものを食べることも禁止です」とかつて実験室で不満で一杯だった少女を思い起こすと、胡玲は自分の変化に驚く。
この実験の重要性に気づかないのだろうか、その努力が全てを変えるかもしれないというのにと焦るのである。
大先生に学ぶ
今年8月中旬、胡玲は呉健雄学術基金会の招きにより、呉健雄科学キャンプに参加し、呉健雄との思い出を語るために初めて台湾を訪れた。夫で同校の材料と機械エンジニアリング学科のデビッド・クラーク教授も、聴衆の中にいた。
呉健雄がかつて科学に対して注いでいたのと同じ絶対的な愛情と情熱を、胡玲は自分の中に見出している。
胡玲はしかし、科学を志す若者に「こういった愛情と情熱は自分で捜し求め、自分の中に見出すものです」と語る。
「自分が信頼でき、尊敬できる指導教官を選べるし、彼らの判断を信じ受け入れることも出来ます。それでも最終的には、自分の時間を費やし、努力し、情熱を傾けなければならず、すべて自分から自発的に出てくるものです」
「研究の中から何を得られるかを知る必要があります。物理現象の背後にある美を発掘できるかもしれないし、現在のエネルギー問題を解決できる装置かもしれません。そうではなく、謙虚に言えば単なる達成感だけかもしれません。それでも自分で決め、思考し、実現した成果なのです」と胡玲は語る。
150人の学生が自分を見上げる眼差しから、胡玲は40年余り前のニューヨークで、一人の科学者に同じような夢を抱いた少女がいたことを思い出した。同じような憧れの眼差しで、演台の呉健雄を見つめていた。
「ありがとうございます、呉先生」と、胡玲は心に呟いた。