「海水の至るところに華僑あり」と言われる。300年来、中国は貧しく、多くの華人が生きるために海を越え、世界各地で生きてきた。だが、彼らの心は常に故郷とつながっており、国家に難があれば手を差し伸べ、数々の感動的な物語を残してきた。中でも最も尊敬されているのはシンガポール華僑界の指導者、陳嘉庚であろう。
1994年、本誌がアモイの陳嘉庚の故居を訪ね、氏が創り上げた「集美学村」を訪れた時は、開放されつつある華僑の故郷の想いを感じた。今回は、シンガポール国立図書館が陳嘉庚特別展を開く機会を借り、シンガポール生まれで集美中学とアモイ大学を卒業し、中国アモイ華僑博物院を主宰したことのある著名学者の陳毅明氏に、陳嘉庚氏のシンガポールにおける事跡を振り返っていただく。
「陳嘉庚がシンガポールに帰ってきた!」
ゴム事業で財を成し、革命と抗日戦争に資金を援助し、故郷に学校を作るなど、卓越した貢献を成した華僑指導者を、当時のシンガポール人はどう評価していたのだろう。
1961年9月10日、シンガポールの各界は共同で1万人規模の陳嘉庚追悼大会を開いた。中華総商会会長の高徳根は弔辞の中で、陳嘉庚を「一代の偉人」と称え、祭壇の左右には「前半生は学を興し、後半生は難を紓;く」「これ一代の正気、また一代の完人」とあった。これは一般の美辞麗句ではない。当時のシンガポール華僑界は心の底から陳嘉庚を称えたのである。
しかし、その後の数十年の雰囲気は違った。陳嘉庚は晩年に「赤い中国」を擁護し、長年中国大陸に暮らして、全国人民代表大会常務委員や中国人民政治協商会議副主席などの要職を務めたため、反共の雰囲気の中で、シンガポール人は陳嘉庚について論じることを注意深く避けてきた。多大な影響力を持った愛国の華僑指導者が、多くの人の記憶の中からしだいに消えていったのである。
ここ数年、状況は変わってきた。今年の7月18日、シンガポール国立図書館では「継承し前途を開く――陳嘉庚と李光前」展覧会が開幕した。リー・シェンロン(李顕龍)総理が開幕式の主賓として華語と英語で祝辞を述べ、その中で、陳嘉庚とその娘婿が社会に貢献した偉大な精神を賞賛したのである。この式典には筆者も招かれ、その後「シンガポールが陳嘉庚を成就せしめた重要な要素」と題する講演を行ない、大きな反響を得た。
現在のシンガポール人は、尊敬の想いをこめて自由に陳嘉庚を語ることができ、また新聞に陳嘉庚を称える文章を発表することもできる。人々は、陳嘉庚は中国に属するだけでなく、シンガポールにも属することに気付いたのである。陳嘉庚はシンガポールにも豊富な文化と物質的遺産を残しており、華人だけでなく、シンガポール社会全体がその恩恵を被っている。

1936年、蒋介石委員長の50歳を祝し、世界中の華僑が国防のために飛行機を購入して誕生日を祝すこととなった。「灘派」は当時のマラヤに飛行機1機分の募金を求めたが、陳嘉庚の呼びかけで11機も購入した。写真は当時の「航空救国」の宣伝物。
成功の基地
陳嘉庚は、西洋の思想や物質が東洋を席巻し、中国で古今東西と新旧の争いが激しい動乱の時代に生まれ成長した。陳嘉庚の祖父は、農業や漁業で自給自足する生活だったが、父の代の3兄弟は海を越えて華僑の一世となった。
父の陳杞柏はシンガポールで商売に成功すると、子供に事業を継がせるため、1890年に故郷アモイの集美にいた16歳の陳嘉庚を呼び寄せた。以後、陳嘉庚が故郷に戻って定住したのは60年後の1950年だった。その間、彼はシンガポールに49年暮らし、中国にいたのは38年に過ぎない。
陳嘉庚の成就は、歴史的な必然でもあった。
一つには、福建省南部とシンガポールの長年にわたる密接な関係が挙げられる。1821年1月、同年1便目のアモイ発シンガポール行きの帆船が出航して以来、百余年にわたって福建南部からはおびただしい数の移民がシンガポールに渡った。
その移民は大きく二つのグループに分けられる。一つはマレー半島のイギリス植民地であるマラッカに事業を興しに来た漳;州と泉州の商人である。彼らはイギリス人がシンガポールを占領すると間もなく移住し、数年の努力を経てしだいに堅固な経済集団を形成し、華人社会の指導的地位を確立した。もう一つのグループは、福建南部の郷里から、生きるために移住してきた農民や職人や無職の者と少数の知識人で、着の身着のままで渡ってきた彼らは、ここに根を下ろした。
福建省南部からの移住者は、その努力と智恵でシンガポールの奇跡を起こし、絶えず祖国と移住先の交流や協力の架け橋となった。彼らは両地の繁栄と近代化に大きく貢献した。
もう一つの要素は、シンガポールが世界各地とつながる特殊な地理的位置にあり、近代文明を受け入れる窓口であったことだ。独立前のシンガポールはイギリス領「海峡植民地」の要衝、東南アジア最大の商業港のひとつであり、また東南アジア華僑の経済・文化・愛国救国活動の中心だった。
華僑の5大グループ(福建、広東、潮州、海南、客家)のうち、福建南部出身者は経済的実力があり、華僑社会の指導的地位を占めていた。陳嘉庚の父は、福建華僑の「陳姓」の宗親組織「保赤宮」の指導者の一人で、その理事を25年にわたって務めた。彼が個人や共同で経営する商店や企業の多くの名称には「安」や「成」の字がついている。陳嘉庚の甥にあたる陳仁傑によると、「18の安」と「24の成」はシンガポール各地に分布し、順安米店を本店としていた。シンガポールに到着した陳嘉庚少年は、順安米店で商売を学び、1904年に独立して店を持った。

第二次世界大戦前後の東南アジアのマッチ箱。918や77の数字に国難意識がうかがえ、また抗日「必勝」の文字も見える。
全盛期
陳嘉庚はシンガポールで華僑企業家となるが、その経緯はいくつかの段階に別けられる。
第一段階は、父に商売を学び、父に代わって借金を返済する段階(1890-1907)である。当初は順安の従業員としての分を守り、自分のために金を貯めるのではなく、知識と商人としての品格を蓄積していった。その後、故郷で結婚して母の葬儀を行ない、学校に通っていた頃、父の事業は横領に遭い、父に代わって債務を返済する重責を自ら買って出る。無事債務を償還すると、父の人脈と商売を受け継ぐこととなり、事業の基礎を築いた。
第二段階は成功への歩み(1908-1917)である。第一次世界大戦後の情勢を見て、船を借りることから始め、後に船を買って海運業を始める。パイナップルの缶詰工場と精米工場をゴム加工場に変え、自ら設立した謙益公司の事業内容を豊富にした。
第三段階は最盛期(1918-1928)。陳嘉庚公司を設立して、ゴムを扱う謙益公司が全体を統括し、ゴム園、生ゴム加工などの事業を経営して、製品は輸出した。
その後、娘婿の李光前を謙益の総経理に任命すると、それに反発する元従業員が別会社を設立して競争相手になったが、3年をかけて問題を解決し、事業は頂点にのぼりつめた。だが、1926年には世界的不況に直面し、1934年に陳嘉庚公司は休業を余儀なくされる。しかしその10年の間に、陳嘉庚は高い名声を得、富を築いた。1925年時点の資産は1200万シンガポールドル、謙益ゴムはアジア最大の企業となり、大きな影響力を持つに至った。1923年頃には会社の元老十数人が出て行き、陳嘉庚公司は大きな痛手を負ったが、彼は「工場は師範学校」という精神でゴム産業の華人人材を育ててきた。

戦後、インド民族独立運動の指導者ネール(右)がシンガポールを訪れた時、陳嘉庚は各界を代表して歓迎した。
南僑のリーダー
陳嘉庚は独立創業して父の負債を返済した後、信用ある青年華僑としてシンガポールの福建華僑社会で頭角を現していた。その後10年は政治と教育興学の面で才能と情熱を発揮、1910年には同盟会に加入して革命組織の一員となり、道南学校総理と中華総商会の理事に選ばれ、福建華僑の指導層に入る。1911年、シンガポール福建保安会会長として初めて中国の政治に関わり、孫文を支援する。
その後、公民資格のないイギリス籍を取り、英語教育を受けてきた海峡華人協会の活動にも参加、天津水害募金会の主席に選ばれ、グループを越えた華僑社会のリーダーとなる。1919年には大規模な「シンガポール南洋華僑中学校」の創設に成功して理事長となり、出身地を越えた華僑中学設立の第一人者となる。これらの活動を通して、陳嘉庚は人脈を広げ、後の舞台を築いていった。
1923-1929年、華僑社会の中心的組織である「怡和軒」クラブの主席と福建会館主席に就任。福建会館では、福建華僑の影響力を強めていった。福建華僑の中堅が彼の周囲に集まり、怡和軒は彼が出身地を越えた華僑活動をする拠点となる。この歴史ある華僑上流組織は、彼の指導の下で、出身地の異なる華僑グループリーダーを団結させ、商業情報を交換し、文化・社会改革と慈善活動を行なう中心的存在となり、さらに南洋華僑抗日救国活動と反ファシズム戦争支援の拠点となる。

孫文を信奉する陳嘉庚は、革命事業の資金を募るだけでなく、各地で演説して参加を呼びかけた。
華僑の模範
1937年、盧溝橋事件が起きると、日本軍は華北に入り、以来8年にわたる抗日戦争が始まる。シンガポール中華総商会は華僑大会の開催を決めるが、イギリス植民地当局は、陳嘉庚に現任会長に代わって大会を主宰するよう求め、さらに総督の要求にしたがって、華僑の抗日救国活動を現地の法律の枠組みの中で行なうこととなった。
法治社会であるシンガポールでは、中国国民党と共産党はいずれも合法的組織として登録できない。常に法を遵守し、イギリス籍を持ち、華人参政局局員も務めた陳嘉庚は、無党派、無官職の華僑リーダーとして、南洋華僑社会に支持されただけでなく、イギリス植民地当局の支持も得たのである。
1938年、世界最大規模の華僑抗日救国団体――南洋華僑籌賑祖国難民総会(南僑総会)がシンガポールで成立、陳嘉庚が主席に選出された。これによって、南洋華僑800-1000万人を団結させ、中国の抗日戦争と連合軍による反ファシズム戦争を支持した。陳嘉庚の世界の華僑政治指導者としての地位は、この時に確立した。

283ヘクタールもの広大な敷地を持つアモイの集美学村。写真の「道南楼」は集美中学の校舎で1962年落成、陳嘉庚が自ら設計した。「背広に編み笠」という東西折衷の設計で、陳嘉庚の代表作とされる。その前でドラゴンボートレースが行なわれている。
「文明国」に学ぶ
少年時代に郷塾に学んだ陳嘉庚の思想には伝統的な一面があり、晩年まで中国古代の数字を使って記帳していた。一方、積極果敢に挑戦もした。狭いシンガポールにいながら常に世界に目を向け、イギリス植民地社会の現実と、世界の趨勢を鋭く観察していた。
ゴム産業を指揮していた時には、数年をかけて手探りしつつ規格に合格するゴム靴や雨合羽や手袋を生産した。後にはアメリカが技術を秘密にしている中で、さらに5年をかけてタイヤの合格率を70%から98%まで高めた。そして広告を通して自社製品の販売ルートを開き、イギリス人による輸出独占という状況を打破した。
ビジネスの過程で、華僑企業を観察し、中国が熾烈な競争で敗れていく姿やその厳しい状況を見ると同時に、列強の文明事業の進歩を目の当たりにした。「文明国」は世界的視野を持ち、資源をうまく利用して製品の質を追求し、国際市場で優位に立つ。それが国の実力増強につながり、さらに教育発展と人材育成を促す。「強者はますます強くなる」という循環である。
陳嘉庚は心の中で、中国と先進国を比較した。識字率の違い、政府が教育を重視するレベルの違い、財産観の違い、国民の社会的責任感の違い、国民の素養や精神面の違いなどだ。シンガポールでは住民の死亡率が年々低下しているのに気付き、1945年に『住居と衛生』を出版して祖国に注意を促した。
興学による救国
また、アメリカの大学300校のうち280校は企業や個人の寄付で創設されたことを知った。中国の富裕層は、自分や子孫のためにしか金を使わず、公益事業には一銭も出さない。
こうして「教育は立国の本であり、興学は国民の天職である」という結論を出した。
陳嘉庚はグローバルな視野から観察し、これを実践した。生涯の富と心血を注いで国民の義務を果たしたのである。自らは質素な生活を送り、たまの贅沢で福建名物の牡蠣入り卵焼きを食べる程度だったが、その一方で大金を投じて故郷にアモイ大学を創設し、幼稚園、小学校、中学、女学校から、師範、水産、航海、商業、農林、国学までの専科を持つ「集美学村」を開いた。学村内には立派な建築物が並び、設備も整っている。軍閥が割拠する時代には、孫文がここを「中国永久和平学村」に認可し、福建と広東の省長に特別な保護を求めた。
陳嘉庚が関心を注いだのは、中国やシンガポールだけでなく、世界の全人類だった。『南僑回憶録』を読むと、陳嘉庚が常に気にかけていたのは郷里と国だけではない。戦渦に巻き込まれた世界各地で「戦勝国の指導者」が戦争の禍根を排除し、公平と道義をもって不平等と不公正を解決するよう求めている。また、各国に対して、華僑が世界にさらに貢献できるよう、華僑を規制する法令を廃止することを求めている。
陳嘉庚の生涯は、近代華僑百年史の縮図であり、シンガポールには、陳嘉庚の偉業と品格を成就させるだけの天の時と地の利、人の和があったと言えるだろう。この一代の完人の事跡を振り返る時、シンガポール人も誇らしく感じるに違いない。