1951年、23歳で喘息の持病を持つ医学生のチェ・ゲバラは、親友のアルベルト・グラナードとともにバイクに簡単な荷物を載せて南米大陸の旅に出た。この8ヶ月におよぶ旅において、彼らは500年前に植民地と化して以来の各地の傷跡や人々の苦難を目の当たりにした。それまで生活の苦労を知らなかったゲバラは、これに大きな衝撃を受け、後に世界を変えたいという革命への強い思いにつながっていく。
今日では革命家の出現は難しいが、ゲバラの精神は今も多くの若者を引き付ける。特に物質に頼らない冒険的な旅は、視野や世界観を広げ、自分を見つめさせ、独立して物事に向き合う勇気を養ってくれる。
朝、大雨が降ったばかりの台北県瑞芳鎮はまだ暗い雲に覆われていて、湿度も気温も高く、少し歩いただけで汗がにじんでくる。大部分の人にとって、旅日和ではない。
天気には恵まれなかったが、若い旅人、劉珮;如と黄筱;姮;は少しもめげていない。この25歳に満たない二人の女性は、雨にも暑さにも負けないホットパンツにビーチサンダルという出で立ちで、瑞芳駅で平渓線の切符を買い、三貂嶺を目指す。

他に誰もいない静かな三貂嶺の駅で、若い旅人、劉珮如と黄筱姮は、作家・劉克襄の描いた孤独の境地を求めて線路沿いを歩いていく。
「貴重な孤独」を求めて
月曜の午後ということで、劉珮;如と黄筱;姮;の他に行楽客はおらず、二人は駅近くの廃棄された信号跡地で写真を撮り、鉄道に沿って日本時代に作られた古いトンネルに向かう。一般の旅行者がガイドブックを持っているのと違い、彼女たちが参考にするのは著名な自然旅行作家、劉克襄;の散文「世界で最も貴重な孤独――三貂嶺」だ。
「でも残念なことに『三貂嶺-菁桐』の紙の切符はもう何年も前に廃止になりました」と劉珮;如は言う。劉克襄;の散文には、2000年元旦に彼がここで出会った日本の若者のことが書かれている。その日本人は、駅にあるだけの当日分の「三貂嶺-菁桐」の紙の切符をすべて買い、お土産にするという。彼にとっては、三貂嶺菁桐の五文字が、放浪と孤独を感じさせるものだからだ。「こんな貴重な贈り物は、どんなにお金を出しても買えません」とその日本の若者は言うのだった。
その「孤独」を象徴する切符は買えなかったが、彼女たちはこの旅を「小站」という文章にし、ブログに発表した。
「駅員室には駅員が二人だけ、彼らは列車の発車時間を管理するとともに、ここのすべてを見守っているように見える。その一人が笑いながらこう言った。このあたりの滝や鉱山には行ったことはなく、毎日列車で出勤してくるだけで、それ以外の時間は全てこの小さな駅に捧げているようなものだ、と。その境地は美しく、またそれも一つの孤独であるように思える」
このように、旅をしながら文章を書くのが劉珮;如と黄筱;姮;の旅の目的である。二人は青年輔導委員会から7万元近い補助を受け、1ヶ月半をかけて劉克襄;や呉念真、林文月、楊逵;、邱秀芷;、龍応台などの作家が描いた風景を訪ね歩き、読書感想と現地での見聞を合わせて散文や旅行記を書くのである。
二人は政治大学中文学科の同級生で、二人とも人生のターニングポイントに立たされている。そこで「文学」をテーマにした旅を通してさまざまな体験をし、執筆を自らに義務付けることで、これから働くための力をつけようとしている。

南オーストラリア、全長1200キロにおよぶナラボー平原には世界中からバックパッカーがやってくる。荒野をどこまでも続く道路には「ラクダ、ウォンバット、カンガルーに注意」という標識が立っている。
旅はひとつの学習
「万巻の書を読み、万里の道を行く」。歴史上、二人のように、学んだことを旅を通して検証してきた人は多い。最も有名なのは前漢の司馬遷だ。司馬遷は20歳の時に長安を出て、長江や淮河の流域、中原や四川などを旅した。壮麗な山河、各地の生活や風習に触れ、また伝説や史料を集めた。
司馬遷は南の廬山に登り、大禹;が治水した九江や、孔子の故郷も訪ねた。孔子の故郷では古式豊かな馬車や礼服に触れ、わざわざ当地に残って弓や宴席の礼儀作法を学んだ。若き日のこうした経験が後に『史記』執筆時の貴重な材料となった。
唐の時代になると、25歳の三蔵法師が旅に出る。さまざまな経典を読んだ三蔵法師は各宗派の説が異なることを知り、仏法に対する疑念を晴らそうと、禁を犯して出国し、天竺を目指す。たいへんな旅の末に天竺にたどりつき、仏法を学んだ後、帰国の途に就いた。
帰国後にその旅を『大唐西域記』に著し、新疆からインドまでの間に通った国々の言語や風土民俗、法政制度などを詳しく記し、後の歴史学者にとって貴重な史料となった。インド人が誇る古代の名君アショーカ王の事績も、三蔵法師によって中国に伝えられた。
西洋でも昔から若者の旅行が奨励されてきた。ギャップ・イヤー(高校卒業から大学入学までの期間など)を利用して、社会に出る前に旅をすることが奨励されている。16世紀末、イギリス貴族の子弟は、学業を終えると、家庭教師と使用人に伴われて海峡を渡り、パリ、ローマ、ベニスなどを旅し、欧州大陸の文化の洗礼を受けた。こうして見聞を広めて、はじめて家を継ぐ「資格」が得られると考えられていたのである。
若き日に旅をした人はまだまだいる。ダーウィンもケンブリッジ大学神学部を卒業した後、22歳で海軍の測量船ビーグル号に乗り、5年をかけて世界を周航した。ダーウィンは、この旅で目にした生物と化石の分布に疑問を抱き、帰国後に進化の研究を始め、ついに有名な『種の起源』を著した。
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チベットの人々は山の入り口に五色の風馬旗を飾る。青い空、白い雲、赤い炎、緑の大地といった自然現象を象徴する祈祷旗である。写真は四川とチベットを結ぶ国道から見た米拉山。
他者を体験し、自我を探す
古今東西、若者を旅に駆り立てたのは何なのだろう。今年37歳、「ベテラン青年」を名乗る台湾大学社会学科の李明璁;准教授は、どのような形の旅行であっても、基本的には「日常を離れ」「他者を体験し」「アイデンティティを探す」という三つの意義があるという。まだ社会を経験しておらず、ある種の先入観を持った若者にとっては、後二者が特に重要だ。
人がしばしば他者の目を通して自分を理解するのと同様、旅人は「他者を体験し、アイデンティティを探す」。これは、比較対照することで自己の文化や環境を知り、世界の他の地域の人々との違いを知り、そこから「自分は誰なのか、自分はどのように形成されたのか、自分は誰になりたいのか」を考えることを言う。「外に探索し、内に追求する」という過程を通して、自分を独立させるとともに国や民族の観念まで形成でき、さらには世界の運命までをも変えることになる。
李准教授は、あらゆる情報が簡単に手に入る現代においても、旅には他では得られない価値があるという。それは自らが経験する「確実性」にある。全身の感覚を使って見知らぬ世界に触れることで、特別な刺激が得られるのである。

金魚鉢の中の金魚
だが、観光産業が売り出す手の込んだパッケージツアーでは、目にするのは「舞台化された確実性」、つまりその国が外国人に見せたいと思う部分に過ぎない。自分だけが頼りの個人旅行でこそ、真の体験ができ、確実性に対する若者の欲求を満たせるのである。
34歳、イギリスで博士課程に学ぶ旅行作家の「943」も、こうした自分だけが頼りの個人旅行に賛同する。
以前、台湾人は若者も含めてパッケージツアーを好んだ。943もツアーに参加したことがある。座席の位置が高い遊覧バスに乗り、高級ホテルに泊まり、外国人専用の土産物屋を巡り、食事も中華レストランでとる。「実地に触れることはなく、まるで金魚鉢の中の金魚がガラスを隔てて世界を見るようなもので、深い体験も思い出も残りませんでした」
これに対し、実際に自分の足で世界を歩こうと、1960年代、世界の若者の間でバックパッキングが流行り始めた。
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謝旺霖は目的地のラサに到着後、ともに危機を乗り越えてきた自転車を1800人民元で手放した。これはラサのポタラ宮前で、自転車との最後の記念撮影。
バックパッカーが行く
バックパッキングには一人旅も友人との旅もあるが、贅沢な観光レジャー旅行に反対し、観光地巡りにも反対する。経済的に余裕のない若者を主とするため、旅費を節約するために簡単な荷物を背負い、イージージェットやアジアエアなどの格安航空券を使い、ユースホステルやバジェットインなどの安い宿に泊まる。そして自分で旅の計画を立て、徒歩と一般の公共交通手段を利用する。
バックパッカーの旅の目的は、景勝地を訪ねることよりも「異郷の人と同じような生活をする」ことにある。言語や文化の垣根を乗り越え、現地の人々と友達になるために、積極的に人々の中に入っていき、他の旅行者とも見聞や価値観をシェアする。
バックパッカーの原形は17世紀にさかのぼる。イタリアの探検家カレリは、法学博士でありながら貴族出身ではないため理想の職に就けず、すべてを捨てて旅に出た。
カレリはペルシャやアルメニアを通って南インドから中国に入ったが、その旅が普通ではないというので、イエズス会の宣教師は、彼がローマ法王のスパイではないかと誤解し、カレリが北京で康熙皇帝に拝謁する手助けをした。カレリはさらに元宵節の祭典や万里の長城見学にも招かれた。その世界の旅は後に、ジュール・ヴェルヌの『八十日間世界一周』のインスピレーションになったという。
1960〜70年代には、世界中のヒッピーの間で旅が流行した。ヨーロッパ、中東、中央アジア、東南アジア、そしてオーストラリア東部などで、半ば放浪に近い旅をするヒッピーの姿が多数見られた。彼らは「自分探し」と「世界中の若者との交流」を目的とし、多くの若者が未知の世界に旅立った。
放浪を奨励する林懐民
簡単な荷物しか持たないバックパッキングでは、かえって十分な時間とゆっくりしたペースが得られ、心を静かにして目の前の物事をじっくり体験できる。勇気を持って一人旅に出れば、体験は拡大され深化され、自分自身との対話にも集中できる。誰にも干渉されず、孤独や挫折の言い訳もできない状況で、「自我」はどこにも逃げ隠れできないのである。
先頃、ドイツのモヴィメント・フェスティバルで受賞した「雲門舞集」創設者の林懐民は、台湾の若者に「一人旅」を奨励している。
林懐民は1972年、25歳の時に、アメリカ留学中にアルバイトで貯めたわずかな旅費と『1日10ドル、ヨーロッパ旅行』というガイドブックを手に、オランダ、フランス、ポルトガル、スペイン、スイス、イタリアと、3ヶ月でヨーロッパの半分を巡った。
「ルーブル美術館とウフィツィ美術館で初めて『色』を感じた。ギリシアの空とエーゲ海を見て、ようやくブルーに無限のグラデーションと変化があることを知った。ジュネーブでは美しい画集を見た。それは敦煌の壁画との初めての出会いであった」と林懐民は後にこの旅の衝撃を書いている。旅の終わりのローマの空港で、林懐民は声を上げて泣いた。戒厳令下の窒息しそうな台湾に戻るのが辛くてたまらなかったのである。翌1973年、林懐民は雲門舞集を設立、旅で出会った美への思いと自由への渇望を舞踊にぶつけ、台湾の芸術文化創作運動を起こしていった。
「若い時の放浪は一生の養分」と林懐民は言う。公演のために世界を飛び回る日々だが、今も定期的に、自分を空っぽにして旅に出る。2004年には行政院文化賞で得た60万元で「放浪者プラン」を設立、30歳以下で、海外で2ヶ月にわたる「貧乏旅行」をしようという若者に8〜15万元をサポートしており、すでに数十名がこの補助を受けている。
孤独と貧困に挑戦
「放浪者プラン」で最も感動的な物語は、第1回受賞者で2008年に旅行記『転山』を上梓した謝旺霖だろう。東呉大学で法律と政治を学ぶ彼は、大学3年の時から葛藤していた。卒業後は好きな文学の道に進みたい、と考えていたのである。
しかし、文学の道は「孤独」と「将来の見えない貧困」を意味するのではないかと不安にかられていた。そこで放浪者プランのサポートを受け、2004年秋から、雲南とチベットを結ぶ滇;蔵道路を自転車で行くという無謀な旅に出た。それは、自分が恐れる孤独と貧困に挑戦するためであった。
2ヶ月の旅の間、彼は嘔吐や下痢、風邪や喀血に見舞われ、巨大なチベタンマスティフに襲われ、自転車をこぎ続けたために股下の皮膚はただれて膿が流れた。日が暮れて、暗闇の中、白馬雪山の峠を越えて徳金県へと下る途中では、自転車ごと深さ数百メートルの断崖に墜落しかかった。こうして数々の危機を乗り越え、謝旺霖は生まれ変わった。この旅は、彼の肉体だけでなく精神をも鍛えてくれたからである。
「この間、病気、恐怖、喪失、弱さ、あらゆる挫折と不安、孤独と絶望に襲われたが、幸い私の行く手を完全に阻むことはなかった。突き詰めれば、前進しなければ、さまざまな負の感情や現実が私の心と体に覆いかぶさり、私を押し倒してしまうからだ」と謝旺霖は述べる。現在彼は清華大学台湾文学研究所に学んでいる。極限状態を経験したことで、彼は「孤独だが豊かで充実した」文学の道を歩む力を得たのである。
旅は生涯の養分
政府の青年輔導委員会でも毎年5000万元を投じて、ボランティアや国際青年組織活動参加のための海外旅行を補助している。一方「壮遊台湾」プランでは、創意ある台湾旅行プランを提出した内外の青年に旅費を補助し、また台西養殖漁業体験活動や吉貝海上生活キャンプなど、台湾各地のNPOのプランにも資金を提供するなど、国民が改めて自分たちの土地に親しむ機会も提供している。
青年輔導委員会の王昱;婷;主任委員は、自分の経験からこう語る。「台湾の子供たちは親に過保護にされ、独立して生活する能力を欠いているため、この機会に一人旅をさせ、自分で自分の人生を歩める『大人』に成長させるべきです」
台湾大学社会学科の李明璁;准教授も自分の貧乏旅行の経験を語る。家が裕福ではなく、兵役などの関係もあって、彼が初めて飛行機に乗ったのは27歳の時だった。目的地は台湾からわずか3時間の東京である。
「初めて海外へ行った私は、まるで乾いたスポンジのようで、見るもの聞くもの、すべて新鮮でした。旅費は少なく、宿も食事も切り詰めていましたが、毎日が非常に充実していました」と李明璁;は言う。
彼は、日本のサラリーマンの後をついていって駅前の安いカレーを食べ、街で話している人が欧米から来た「外来語」を大量に使っているのを聞き、伝統的な日本家屋と現代的なビルが独特の秩序を持って並んでいるのを見た。これらすべてが、台湾から来た彼を困惑させ、また懐かしく感じさせもした。
その後、彼が書いた博士論文のテーマは、日本がいかに西洋の物事を消化して受け入れ、「日本風の西洋文化」を生みだしたか、そしてその文化が、かつて日本の植民地だった台湾にどのような影響を及ぼしたか、というものだ。
自立を学ぶため、自分探しのため、職場での競争力を高めるため、あるいは単純に世界を見るためでもいい。一度の貧乏旅行で、若者は豊富な収穫を得ることができるだろう。今の若者は恵まれている。政府や民間から資金援助が受けられるだけでなく、ホームエクスチェンジやワーキングホリデー、海外ボランティアなど、さまざまな形での旅が可能なのだ。
もう迷ってなどいられない。今こそ一人旅に出かけよう。若い時機を掌握して「いま行かなければ、きっと後悔する」ような貧乏旅行をしてみようではないか。