「歴史の冬を過ごし、風雨の道を歩み、天と地の接する高山に佇めば、心には百合の花が開く。台湾の春に向かい、苦難の日々を歩きぬいた。百合の花よ、百合の花、新しい民族、新しい心、海のように広々と」
選挙になると、李敏勇の作詞、蕭泰然の作曲になる「百合の歌」が街角に流れる。音楽で台湾を愛したというのが、このピアノの詩人、蕭泰然の一生であった。
2000年10月5日、国立劇場と国立コンサートホールの設立15周年記念シリーズの一環として、わが国の作曲家のコンサート「蕭泰然の音楽フェスティバル」が開催された。最後を飾る「玉山頌」のイントロのフルートがゆっくりと響き渡り、木管と弦楽器が呼応するように重なり合って鳴り始め、合唱が「悲しみの過去を過ごし、新しい世紀の始まりを待ち望もう。玉山、ああ玉山。新しい台湾の輝かしきシンボルよ」と歌いだすと、満場の聴衆は感動に包まれ、少なからぬ人が思わず涙を浮かべた。
音符で故郷への思いを語り、メロディに新しい国家への期待を託し、蕭泰然の音楽はこれまでにも内外に散らばる多くの台湾人を感動させてきた。「台湾のラフマニノフ」と呼ばれるこの作曲家は、病後の体を抱えながらアメリカから帰国したが、それも自分の作品が国立コンサートホールで演奏されるというチャンスを逃したくなかったからである。そればかりではなく、さらに音楽でこの土地への愛情を表現するチャンスを逃したくなかったからでもあるのだろう。
一見したところ温和で静かな蕭泰然であるが、その態度からかすかな憂愁が感じられるようである。心臓の手術で傷ついた声帯は力を込めることができないため、常に微かなかすれ声で話し、階段の上り下りにも手すりをつかみ、胸をさすり息を弾ませる。それでも遠来の客のために風を受けて見晴らしのいい場所に登り、淡水の観音山の景色を楽しむ。音楽について、中でもその音楽に込められた故郷への思いを語りだすと、蕭泰然の眼は輝いてくる。「私には金銀などありません。台湾に捧げられるものと言えば、音楽しかないのです」と常々語っているとおりである。

国立コンサートホールのリハーサルルームで、静かに演奏に耳を傾ける蕭泰然氏。最も美しい楽の音を国民に聞かせたいと願っているのだ。
音楽と魂と
蕭泰然の一生を振り返ると、そのロマンチックで誠実な性格は子供時代にすでに形作られているようである。1938年の元旦、蕭泰然は高雄に生まれた。その祖父はプロテスタントの長老教会派の伝道師である。日本に留学した父は著名な歯科医であると共に教会の長老で、母は日本に留学したことのあるピアニストであった。小さな頃から宗教と音楽に満ちた環境に育ち、そのためにその後の起伏に富んだ生涯の中でも、蕭泰然には常に文人気質が寄り添っていたのである。
子供時代のことを思い起こすと、高雄市全部でピアノが2台しかなかったという時代にあって、家のピアノの椅子におとなしく座って、母についてピアノを習ったことを蕭泰然は今も覚えている。教会音楽、聖歌、クラシックや日本の歌謡など、すべてが教材となった。誰もがうらやましがるこのピアノも、名家に育った母の嫁入り道具であった。
1959年、蕭泰然は師範大学音楽学科に入学したが、医者の子として生まれながら音楽の道を進むには、それなりの苦悩もあった。すべては蕭泰然の母校であるプロテスタント系の台南の長栄高校の校長、戴明福氏の力添えのおかげでもある。

台湾に帰ると蕭泰然氏は淡水に借りている家の屋上に座り、コーヒーをすすりながら静かに山と海を眺める。
音楽家への路
師範大学4年生のとき、ピアノ科専攻であった彼はパリから帰国したばかりの音楽家許常恵について作曲も勉強していた。その当時、許常恵は欧米の現代音楽の様式を台湾に積極的に紹介していて、台湾に新しい音楽の波を起こしていた。才能を知る許常恵は、学費を取らずに蕭泰然を自分の弟子にしたのである。師範大学卒業後間もなく、蕭泰然は日本の武蔵野音楽大学に留学し、著名な作曲家の藤本秀夫について作曲を学びながら、ピアノを専攻していた。
1967年、蕭泰然は日本より帰国し、高雄の女子師範学校や台南の神学院など多くの学校で教えながら、合唱曲やピアノの小品の作曲を楽しんでいた。その後、母校の師範大学音楽科に招聘され、母校に戻る。そこでオーストラリア人の音楽家シュルツ博士にめぐり合い、二人は師弟であり友であり、父子のような交友をもつことになる。
シュルツ博士の指導の下で、蕭泰然の音楽の視野は大きく広がり、作曲の範囲も器楽や室内楽に拡大していった。1975年には台北の中山堂で最初の蕭泰然音楽フェスティバルが開かれたが、これはわが国の作曲家としては滅多にない名誉であった。蕭泰然はこのために特にピアノの連弾曲「幻想円舞曲」を作曲して、恩師に感謝を表したのである。
当時の蕭泰然というと、教職にありながら演奏と作曲を試み、才気溢れ、優雅な外見に加えて名家の令嬢を娶り、まさに台湾の紳士を代表する存在であった。その華やかな外見の影に、迫り来る嵐が潜んでいようとは誰が知りえたであろう。運命のいたずらにあって、蕭泰然は祖国を離れざるを得なくなり、貧困と病気に苦しみながら故郷への思いを綴るようになったのである。

厳しい運命に翻弄されながら、それに屈することのなかった蕭泰然氏は台湾の音楽の詩人であり、生命の勇者でもある。(楊瞶撮影)
債務に追われて
1977年が蕭泰然の一生の転換点となった。妻がビジネスにおいて騙されて債権を踏み倒され、一家の財務は危機に直面した。局面打開のため、蕭泰然は単身アメリカのアトランタに赴き、ただ一人の妹の家に身を寄せる。妻は英語があまり話せず、アメリカの生活に適応できないため結局台湾に残り、蕭泰然が幼い三男一女をつれてアメリカに暮らすことになった。二人はそれぞれ別の場所で借金返済のために働き、夫婦は離れ離れに暮さざるをえなかった。
この危機にあっても、蕭泰然は思い切りがよかった。生まれて初めて日本に行ったときはわずか4歳だったと思い起こす。その時も父が人に騙され巨額の借金を負い、加えて幼い妹は2歳で夭折し、傷心の両親はしばらく一切から離れて、息子をつれて日本に遊ぶことにしたのである。それから25年近くの歳月が過ぎたが、蕭泰然には再び借金の波が押し寄せ、終りがないように見えた。
アメリカ時代の当初を省みると、生活のために金儲けを目指したのだが、彼自身はビジネスの器ではなかったと思われる。
アメリカに行って間もなく、蕭泰然は同じく商売に失敗してアメリカにやってきた友人の許丕龍に招かれて、アトランタからロサンジェルスに移り住み、友人の援助を受けながらギフトショップの経営を引き継ぐことになった。妻が台湾から送って寄越すちょっとした装飾品や工芸品などを扱う店であった。
この店はそれでも1年余り続いた。真面目に丁寧に接客はしたものの、ビジネス向けの弁舌の才もなく、無口な蕭泰然には客を惹き付けて商品を買わせる力などあるはずもなかった。店の経営も生活を維持するのがやっとであったのだが、暇なときに自分の楽しみで弾いていたピアノのほうが人を惹きつけたようである。ある時、3人の老婦人が店を訪れたが、ピアノの音にじっと耳を傾け、そのうち一人が「まあお若い方、一体どうしてここにいるのですか」と尋ねた。
その言葉に蕭泰然は目を覚ましたような気がしたという。「なぜこんなところで時間を無駄にしているのだろう」と自問した。自分の音楽への情熱や才能を、こんな現実にすり減らしてしまっていいのだろうか。主が与えた使命というのは、町の小商いを守るだけのはずはない。こうして店をたたみ、音楽への路に戻っていったのである。

「台湾の作曲家が皆、故郷に知音を見出して欲しい」と語る蕭泰然氏は、自分の曲が台湾で大切にされていることに心から満足していると言う。(楊瞶撮影)
文化の黄金時代
しかし、いかなる人脈もない一介の台湾人がアメリカで演奏デビューするというのは困難だった。それでも最初にカリフォルニアに来たとき、華人の子弟にピアノを教えて、何人かのピアニストを育てていた。国際的なピアノコンクールで何回も賞を受けている陳毓襄も教えを受けた一人である。ギフトショップをたたんでからは、南カリフォルニアの華人向けの音楽振興運動に全力を挙げる。1982年11月、蕭泰然と許丕龍が主宰する台湾音楽社が企画し、10の教会系団体が協力して、第1回南カリフォルニア感謝祭音楽会が開催された。演奏されるのはすべて台湾の作曲家の作品で、台湾民謡の雰囲気と郷土の趣が濃厚に表現され、3000人の聴衆は聞き惚れた。これが海外における台湾人の最初の文化的イベントとなり、アメリカ在住の台湾人の文化的黄金時代の魁となった。
現在、花蓮のキリスト教メノ病院の小児科主任医師で、望春出版社を創設した林衡哲氏も、その当時蕭泰然と共にロスで音楽のために働いた一人である。2年連続して開催されたこの感謝祭音楽会は、聴衆の故郷への思いと賛美の声で幕を下ろしたと彼は言う。台湾出身者の団結の機会となり、また正統な台湾文化が海外の華僑社会に主流となるきっかけを作った。
蕭泰然が編曲した「心酸酸」(心痛んで)や「補破網」(網繕い)などの台湾民謡がオーケストラで演奏されると、台湾の民謡はこれほど美しかったのかという誇りが聴衆の心に生まれ、満場の聴衆の心が一つになっていったのである。
その後数年、蕭泰然は若い世代のアメリカ在住の台湾音楽家を集めて北米文芸協会室内楽団を結成し、アメリカの大都市のコンサートツアーを行った。サンフランシスコにおける最後の公演の時のことである。コンサートも終りに近づき、翌日にはまたそれぞれの生活に戻っていくことを思った団員たちは、蕭泰然作曲で故郷を思う曲「出外人」(異郷にあって)の演奏にさしかかると、ついに皆こらえきれず涙をこぼした。舞台では演奏家が演奏しながら泣き、観客席では聴衆が声を咽ばせながら唱和し、故郷を思う悲しさ、異国での孤独などが旋律につれて噴出したのである。

一年前に大手術をしたばかりだが、ピアノを弾きながら作曲に取り組む。蕭氏は「作曲のために生きる」という思いをより強くしている。
奇跡の誕生
1986年、48歳になった蕭泰然はカリフォルニア大学ロサンジェルス分校に入学し、現代音楽作曲の修士を取得した。そこではソウル・オリンピックのテーマソングを作曲した韓国系作曲家B.K.Kimの教えを受け、一人娘の蕭雅心さんや娘婿と同窓生になったのである。
一貫して唯美的で保守的な曲風の蕭泰然だが、なぜ現代音楽を学ぼうとしたのであろうか。蕭泰然によると21世紀の作曲家の物の見方を知りたかったのだという。時代が移ると共に人の美的感覚も変わっていき、それぞれの時代ごとにメロディの美の認定も異なってくる。天性多感でロマンチックな詩人気質の蕭泰然は、その作品においても、常に色彩豊かな、うねるように層をなすメロディの美が溢れている。それをKim教授は目にして、蕭泰然に不協和音ばかりの尖鋭な現代音楽を真似ることはないのだから、自分の路を行くようにと勧めた。
この大学院の時期である。蕭泰然は台湾民謡を素材にし、古典派、ロマン派、印象派に現代音楽のテクニックを組み合わせて自身の曲風を確立していった。修士の学位を取得して間もなく、蕭泰然は林衡哲の勧めもあって、絢爛としたバイオリン協奏曲を書き上げたのである。
台湾音楽史上最初のバイオリン協奏曲は、蕭泰然が血を吐くような思いで書き上げたものであった。
「父が亡くなったばかりで、母は篤い病の床にあり、妻のビジネスもうまくいっていませんでした」と蕭泰然は思い出す。母と子供たちと一緒に二間切りのアパートに住んでいたが、子供に一部屋を当てて、病気の母と彼がもう一部屋に眠った。夜は母の看護をしながら机に向かって曲を書き、夜が明け白むまで毎日16時間も仕事をしたのである。
こうして貧困と病に迫られた辛い心持の中にあっても、蕭泰然には狂ったような力があり、今まで手をつけたことのない大規模な曲へと彼を駆り立てていった。蕭泰然はこの曲の誕生を奇跡だと言う。
世界の舞台へ
1988年、蕭泰然はバイオリン協奏曲を完成させたが、最初はピアノ伴奏のみのダイジェスト版で演奏するしかなかった。それでも怨むような、嘆くようなバイオリンがゆるやかに台湾民謡のテーマを変奏していくと、聴衆の涙を絞った。その後1990年になって、蕭泰然はある音楽会において偶然に南台湾出身の世界的バイオリニスト林昭亮と知り合った。林昭亮はただちにこの曲の初演を蕭泰然に約束したのである。
2年後、日本人指揮者大山平一郎とサンディエゴ交響楽団の協力を得て、ソリスト林昭亮によってこのニ長調バイオリン協奏曲が初演された。アメリカの著名な交響楽団が台湾の作曲家の曲を演奏するのは、これが初めてだった。結果は予想通り、歴史的な公演として好評を博し、蕭泰然は国際的な舞台に迎えられることとなり、台湾音楽も国際化に向けての重要な一歩を踏み出した。
この公演を思い出すと、蕭泰然は感激を隠せない面持ちで「この音楽会で私の曲はブラームスとドボルザークに挟まれていました。自分がサンドイッチのように二人の巨匠に押しつぶされると思いました」と語る。しかし事実はポスト・ロマンの特色をたたえたこの曲がこの二人の巨匠に引けを取らないことを証明したことになり、蕭泰然の曲の中で今も一番の人気を維持している。
バイオリン協奏曲で一挙に有名になった蕭泰然は、1990年に台湾作曲家として最初のチェロ協奏曲を発表した。この曲は1995年にサンディエゴ交響楽団により初演されている。1992年になると台湾の民謡「心酸酸」を巧みに取り入れたハ短調ピアノ協奏曲を発表した。低くつぶやくように始まりながら、何段階かの展開を経て次第に昇華し、感情が盛り上がって、最後には勝利の凱歌となるこの曲は、台湾が遂に自由と尊厳を勝ち得たことを象徴している。
作曲のために生きる
わずか5年の間にこの協奏曲3曲を続けざまに発表し、音楽のために毎日明け暮れていた蕭泰然だが、この時突然病に倒れた。1993年のクリスマスイブのこと、蕭泰然は大動脈血管瘤の破裂で病院に担ぎ込まれたのである。ところが医療保険に入っていなかったために先に5万米ドルの入院保証金を支払わなければならないのだが、その金がない。病状が重いにもかかわらず、すぐには十分な治療が受けられなかったという。幸いなことに台湾の同郷の人たちが保証金を工面してくれて、しかも日系の心臓外科の名医横山先生に執刀を依頼できた。10時間にわたる大手術の結果、蕭泰然は三途の川の前から何とかこの世に引き戻されたのである。
発病したとき、蕭泰然はちょうど二二八事件のために「一九四七序曲」を作曲していたところであった。胸に激痛が起きたとき彼には「主よ、この作品を完成させてください」という願いしかなかった。運良く助かってからは、蕭泰然はさらに一日も疎かにできなくなった。1995年、「一九四七序曲」がオークランドで初演され、台湾民謡からつむぎ出された凄艶であり、ときに激昂し、また荘厳なメロディーの数々が国際的な舞台で大きく異彩を放った。
これからを作曲のために生きると考えた彼は、その後数年体調が思わしくないにもかかわらず、「玉山頌」「フォルモサよ」「浪子」(楽劇)などの作品を書き続け、また作曲や公演の依頼が絶えなくなった。誠実な彼は、期待に応えようと努力するしかなかったのだが、2001年10月に動脈瘤が再び破裂した。緊急手術で動脈を切除したために、蕭泰然は左の手首では脈が取れない半分だけの人間になってしまったのである。
退院してから最初にしようとしたことは、ピアノを弾くというものだったが、鍵盤に手を下ろしてみると右手は力も敏捷さもあるのに、左手には知覚がなかったと彼は言う。半年に及ぶリハビリのおかげで、少しずつ回復してきた。
樂の音を再び
2回の大手術を受けながら、蕭泰然の体内にはまだ取り残した動脈瘤が残っていて、時限爆弾のように命を脅かしているが、彼自身はそれを見切るコツを知っているかのようである。現在は息子の家に同居し、貧乏は相変わらずだが、内外の友人の援助を受けて文教基金会が設立され、毎月生活費が支給されることになった。時折台湾に戻ってくると、静かな淡水の借家に腰を落ち着ける。
蕭泰然のために長年にわたりコンピュータの譜面を作成し、また偶然にも台湾では蕭泰然と同じマンションに住む音楽家の荘伝賢さんは、蕭泰然が台湾に戻るたびに親切に世話をしてくれる。その荘さんはため息をつきながら、例えばシベリウスなどの作曲家は北欧で国宝扱いされて、国家が報酬を支給して生活の心配なく作曲に専念できるのにと嘆く。それに引き換え蕭泰然はこれまで流浪の一生で、数年前までは台湾に永住したいと考えたのに住む所もない。師範大学が教授に招聘するという話もあったが、教室に入るのに階段を上らなければならないとあって、体力のない蕭泰然は諦めるしかなかった。
借家のある淡水はいつも風が強い。足元のふらつきがちな蕭泰然のことで、用事で台北に行くためにバスに乗ろうと走った途端に転びそうになったこともあった。楽譜の印刷コストが高いのも、蕭泰然の曲が広く普及するための妨げになっている。今回の国立コンサートホールでの公演にしても、これだけの規模なのに楽譜はすべてコピーで間に合わせるしかなかった。こういった待遇の様々を目の当たりにすると、蕭泰然の音楽を愛し、その人格を尊敬する荘伝賢さんはただ心が痛むばかりである。
音楽会が終わってから、蕭泰然はわずかな身の回りの物をまとめてアメリカに帰った。その頭の中には、故郷の高雄のために作曲を依頼された「愛河の歌」の構想が渦巻いている。現代の台湾音楽界で最も才能豊かなこの作曲家はこれからも創作を続け、その音楽を通じて深い愛情で台湾を包み込んでいくことであろう。