竹東市場で味わう一杯の客家湯圓。塩気と香ばしさがきいたあっさりとしたスープに、一口で虜になる。
新竹県の竹東といえば、多くの人が竹東市場の米を使った美味しい客家伝統料理や人情味あふれる雰囲気を思い浮かべるだろう。だがこの小さな町には、あまり知られていない産業の歴史もある。竹東は素朴な農村というだけでなく、台湾のハイテク産業の出発点でもあるのだ。90年以上前、石油採掘中に発生した大火災が町の名を一躍知らしめ、竹東を工業発展へと導くきっかけとなった。
「竹東の旧地名は『橡棋林』と言います。開拓当時、この辺りにはモクタチバナ(橡棋樹)が多く生えていたことから、この風情ある名前が付けられました」と語るのは、竹東の文学・史学研究者・黎許伝さんだ。竹東は、新竹の山間集落の中心に位置し、古くから農産物の集散地として栄えてきた。そんな静かな農村に激変をもたらす事件が起こったのは1934年のことだった。
黎さんは、自身の著書『照説橡棋林』(橡棋林を語る)を開き、火災当時の激しい炎が写る一枚の古写真を指差しながら話してくれた。当時、台湾総督府の委託を受けた台湾鉱業株式会社が、竹東の員崠子山で石油の試掘を行っていた。目標は1000メートルの試掘井の掘削だったが、まだ300メートルほどしか掘り進めていない段階で大量の天然ガスが噴き出し、大爆発が起こった。こうして火災は一気に広がってしまった。

台湾が半導体大国となる起点は、竹東の天然ガス資源にあったと語る地元の文学・史学研究者の黎許伝さん。この歴史をもっと多くの人に知ってもらいたいと願っている。
大火が照らした竹東の未来
「火柱は7階建てのビルに相当する高さまで上がり、100メートル以内には誰も近づけなかったんですよ。火は30日以上も燃え続ました」と黎さんは語る。この火災で、当時の金額で3億円以上(当時は日本統治時代で、台湾でも「円」が使われていた)の損失が発生した。当時の公務員の月給がわずか12円だったことを考えると、どれほどの損害だったか想像できるだろう。だがこの火災が、竹東油田の存在を世に知らしめるきっかけとなった。豊富な天然ガスの埋蔵を背景に、日本人技師や地元の若き知識人たちが竹東に集まり、研究に取り組んだ。こうして竹東は、農業や小規模商業の町から、工業化へと舵を切っていった。
私たちは、黎さんが収集した古写真を辿りながら、竹東の産業の足跡を追って、員崠小学校の敷地内にひっそりと佇む員崠山神社の遺跡を訪れた。この大火が、竹東の発展ポテンシャルを示す証となり、石油採掘事業は本格化していった。そして1935年には、採掘に従事する人々の安全を祈願するため、地元の名家が土地を寄進し、民間の資金で神社が建立された。祀られたのは石油業の守護神とされる天香山命(あまのかぐやまのみこと)だ。
員崠小学校の裏手に足を踏み入れると、小高い丘の両側には石柱があり、当時の参道の痕跡をかすかに残している。坂を少し上っていくと参道の石段が現れた。
階段を上り小高い丘の上に立つと、そこには神社の基壇が完全な形で残されていた。拝殿そのものはすでに取り壊されて久しいが、周囲を囲む杉やタイワンアカシアの木々が、この神社跡に静謐な空気を漂わせている。かつて多くの人々が参拝したであろう情景が脳裏に浮かぶ。

日本統治時代、山間部の農林・鉱産資源を開発するために竹東を通る内湾支線鉄道が建設された。戦争で一時中断したが、戦後に復旧し全線開通。二つの時代をまたいだ竹東駅には深い歴史が刻まれている。
鉱業からハイテクへ、巨星たちの原点
黎さんによれば、台湾鉱業株式会社が竹東で探採した豊富な石油と天然ガスは、竹東地域の石油化学産業の発展に寄与しただけでなく、火薬やガラスの試験的製造も行われ、さらには1936年に台湾総督府が天然ガス研究所を設立する契機にもなったという。戦後は国民政府が天然ガス研究所を接収し、研究所は後に「聯合工業研究所」と改称、広範な工業技術研究を行うようになる。1973年には、聯合鉱業研究所、金属工業研究所と統合され、「工業技術研究院」が設立され、やがて半導体技術の研究開発へと転換していく。その後、この流れはTSMCや新竹サイエンスパークの誕生につながり、台湾の半導体発展の基礎が築かれた。黎さんは、「本当に源流をたどるならば、台湾が今日、世界に名だたる半導体拠点となった出発点は竹東の天然ガス資源にある」とし、「竹東と新竹市は、台湾の発展の時間軸の中でとても長く関わり続けており、しかもその歩みが途切れたことはない」と誇らしげに説明してくれた。

員崠山神社の遺跡は、竹東における石油化学資源の採掘を今に伝える。参道入口の階段脇には、今も石灯籠が完全な形で残っている。
昔ながらの氷菓と時代の記憶を留めて
絶え間ない工業の発展は、竹東に多くの人々を呼び寄せ、地域を繁栄させた。台湾鉱業株式会社は、社員が安心して竹東で働けるよう、員崠山神社の麓で竹東油業所から約300メートルの地点に、3ヘクタールに及ぶ「社宅区」を建設。暮らしに関することが揃うエリアとして、200戸を超える宿舎のほか、幼稚園、図書室、球場、医務室、クラブ、理髪店、売店、公衆浴場、講堂など、必要な公共施設を一通り備えた。「生まれてから死ぬまで必要なサービスがすべて揃っていて、塀の中から一歩も出ずに一生暮らせる場所だった」と黎さんは冗談交じりに語る。
戦後、台湾鉱業株式会社は中国石油公司(台湾中油股份有限公司の前身)に引き継がれ、社宅区は「資源荘」と改名されたが、生活機能は当初のまま維持された。資源荘は地域繁栄の象徴でもあり、黎さんは「員崠小学校に通っていた頃、クラスの多くが資源荘の子だった」と言う。黎さんのような貧しい農家の子は、坊主頭で裸足が当たり前だったが、靴を履いて髪を伸ばしている子を見かけると、資源荘の子だとすぐにわかったそうだ。生活の差がいかに大きかったかが窺える。
塀の中の暮らしといえども閉鎖的ではなく、資源荘の公共施設は一般にも開放されていた。売店で雑貨を買ったり、冷飲部(冷たい飲み物などを売る店)でアイスを食べたりするのは、多くの竹東人にとって日常の思い出だ。しかし残念なことに、木造の日本家屋は老朽化が進んだため、1980年代には取り壊され、現在残っているのは講堂と売店のみとなってしまった。当時の資源荘の暮らしの痕跡は、今でも竹東人の記憶に刻まれており、講堂の内部には、油井、日本式宿舎、理髪室、浴場、員崠山神社などの古写真が多数展示され、一般公開されている。
資源荘の売店にはかつて、雑貨、冷飲、温食部門があったが、やがて冷飲部だけが残り、外部にもアイスを販売するようになった。これは竹東人にとって、暑さをしのぐ相棒のような存在だった。昨年(2024年)5月、売店が火災に見舞われ、築90年近い建物は深刻な損傷を受け、竹東の人々にとっては心痛む出来事となった。幸いなことに、黎さんら文学・史学研究者の署名活動と尽力により、中油は方針を転換し、資源荘のアイス店を講堂に移転して営業は再開された。
黎さんによれば、資源荘のアイスは日本統治時代から伝わるレシピと技法を受け継いでおり、原料はすぐ近くの員崠浄水場のきれいな水道水を煮沸し、砂糖や果汁などを加えて作られるという。「人生で初めて食べたアイスバーの味が、資源荘の緑豆アイスだった」と語る黎さん、そのなめらかな緑豆ペーストには緑豆本来の自然な甘みがあり、「魂を奪われるような味だった」と表現する。また、資源荘のかき氷も格別で、素朴な甘みを楽しむだけでなく、通はひとつまみ塩をふりかけて食べるのだという。味のバランスを崩すことなく、むしろ甘さが際立つのだそうだ。

資源荘の講堂には当時の写真が展示されている。写真はかつての資源荘冷飲部の様子。(中油資源荘の展示壁より転載)
市場に息づく客家の手仕事
竹東では石油、天然ガス、セメント、木材、ガラス、石炭といった産業の隆盛により、多くの人々が集まった。それに伴い、竹東の青果市場も発展し、かつての小さな市が、今では各地の産物が集まるにぎやかな中央市場として成長した。
深夜1時、竹東市場は動き始める。作業員が可動式のテントを設置し、各店舗は商品の準備や陳列に追われる。地元のお年寄りたちは、自分たちで育てた野菜を持ってきて、市場の中に小さな屋台を出すこともある。黎さんは、こうした「自家生産・自家販売」の小規模な農家の屋台を見分けるコツを教えてくれた。たいてい扱っている品目は少なく、野菜や果物の見た目も卸売品ほどは整っていないが、どれも丹念に手がかけられている。こうしたお年寄りたちは、生計のためではなく、何かすることを見つけたいという思いで市場にやって来て、ついでになじみの客と世間話をしたりする。そうした人情味のあふれる光景は、都会の市場ではなかなか見られない。
竹東市場には700を超える店舗が並んでおり、その中には代々受け継がれてきた客家の手仕事も多く見られる。たとえば「粄(バン)」と呼ばれる客家の伝統的な米粉料理だ。黎さんによれば、これらの歴史は少なくとも200年以上前にさかのぼり、代々受け継がれてきた。祭事の供え物、日常のおやつとして欠かせない食べ物だ。本格的な客家料理を語るうえで、調味料は重要な存在だ。市場には「姐婆油葱酥」という店があるが、商品の油葱酥は、エシャロットを香ばしく油で揚げた台湾の伝統調味料で、家伝の味を活かした手作りの逸品だ。「姐婆」とは客家語で「母方の祖母」を意味し、この名前には、店主の彭立蓁さんが母や祖母の味を受け継いでいるという思いが込められている。彭さんは黒豚のラードと新鮮なエシャロットをその場で切って使うことにこだわる。見た目は黄金色で、香りがふわりと広がり、試食してみるとラーメンスナックのようにカリっとしている。和え麺や茹で野菜との相性も抜群だ。
客家の人々の「物を大切にする心」は、保存食の知恵にも表れている。竹東市場では、客家の定番漬物である酸菜、福菜、梅乾菜の「芥菜(カラシナ)三兄弟」を見つけることができる。これは食材を無駄にしない農家の知恵から生まれたもので、食べきれない芥菜を漬けて保存するところから始まる。1〜2週間ほど発酵させれば酸菜になり、それを日干しして半乾きにし、瓶にぎゅっと詰めて再度発酵させると福菜になる。酸菜を完全に乾燥させて束ねて保存すると、梅乾菜になる。同じ芥菜でも、まったく異なる風味が生まれ、代々受け継がれてきた生活の知恵が、客家料理の魂を形作っているというわけだ。
歩き疲れたら、市場のサービスセンターで一息つくのもいい。そこにはお茶のタンクが置かれており、竹東客家伝統市集促進会の理事長・胡崑龍さんが毎日用意しているものだという。この何気ない親切は、胡さんが子供時代、大おばを手伝って、ヤカンを持って木の下に置き、人々に振る舞っていた記憶の延長だという。今は竹東市場に温もりある風景を添えている。
市場をひと通り見て回ったあとは、黎さんの案内で市場内の食堂に入った。梁記という老舗で、出来たての客家の粄條や、湯気立つ湯圓を味わう。店が毎日煮出しているあっさりとしたスープに、たっぷりのニラと油葱酥が加わり、一口すすれば体も心もほっとゆるむ。もう一品、おすすめは「客家婆菜」だ。サツマイモ、タロイモ、ニンジン、パクチーなどを衣にくぐらせ揚げた野菜の天ぷらのような一皿で、野菜の甘みがしっかり感じられ、油っこくなくて、味わいもボリュームも満足できる料理だ。

日本統治時代が始まってから戦後にかけて、資源荘は竹東産業の繁栄を象徴する場所だった。現在もアイスを売る店が残っており、すっきり甘いアイスバーは多くの竹東人の思い出の味だ。
至る所で感じられる歴史の痕跡
歴史の奥行きを感じさせる竹東の街では、よく見ると多くの家屋に金属製の装飾窓や洗い出しの外壁がそのまま残っていて、かつてこの地が栄えていた証となっている。街を歩いていると、ふと一枚の看板に目が留まった。「帝國製藥株式會社製品竹東郡元賣捌所」「日本名物千金丹」「清涼健胃麝香丹」などの文字が並んでおり、この店が長い歴史をもつことを物語っている。
中に入ってみると、そこは清朝末期から続く薬局「大生堂」だった。初代と二代目は漢方薬を扱っていたが、三代目からは西洋薬へと切り替え、今では五代目が店を継いでいる。店内には、先祖代々受け継がれてきた看板が残っていた。
五代目の劉淑芬さんによれば、店の外に掲げられている看板は、日本統治時代に帝國製薬株式会社が日本から台湾に12枚送ったもののうちの一枚で、当時の各地の販売代理店に掲げさせたのだという。現在、台湾中を探しても現存しているのはこの大生堂の一枚だけだそうだ。かつては、日本から帝國製薬株式会社の社長が来訪し、博物館で展示したいから譲ってほしいと申し出たこともあったという。「日本国内の看板は火災で焼けてしまい、今では世界で残っているのはこの一枚かもしれない」と、劉淑芬さんの母、四代目の李美恵さんはそのときのことを話してくれた。
いろいろと思いを巡らせた末に、李さんは申し出を丁重に断り、看板を残すことにした。看板は大生堂の一部であり、過去の歴史を今に伝える証でもあるからだ。家業を守り続ける母娘にとって、それは台湾にとっての貴重な文化財でもある。竹東のかつての繁栄の記憶は、こうした何気ない風景の中に今も息づいている。

中油竹東鉱場の掘削記念写真は、竹東における石油採掘の歴史を物語る一枚だ。(中油資源荘の展示壁より転載)

「姐婆油葱酥」の彭立蓁さんは、母から受け継いだ油葱酥、紅麹醤、福菜、梅乾菜などを手作業で作っている。これらは食卓の客家料理にひと味加える名脇役だ。

市場の作業員は深夜1時から可動式テントを組み立て、午後2時にはすばやく撤収する。竹東市場ならではの人間味あふれる風景だ。

竹東市場では、地元のお年寄りが自家栽培の野菜や手作りの客家漬物を並べて出店する光景がよく見られる。通にはたまらない宝探しの場だ。

は、先人たちの「茶振る舞い」の精神を受け継いでおり、営業日にはおいしい紅茶を用意して来場者をもてなしている。

「粄(バン)」は客家に代々伝わる食べ物で、祭事の供え物や日常のおやつとして欠かせない。竹東市場でもよく見かけ、それぞれの店が独自の味を誇っている。

客家婆菜は、サツマイモやタロイモ、ニンジン、パクチーなどを衣にくぐらせて揚げた野菜の天ぷらのようなもの。野菜本来の甘みが楽しめる。

竹東市場には700を超える店舗が集まる。多彩な商品が所狭しと並んでおり、多くの観光客を魅了している。

手作りの水晶餃子は、モチモチした食感と美味しさが魅力。

「梁記」の客家粄條は、店主・梁烘昌さんが毎日煮出すあっさりとしたスープに、弾力のある粄條がよく合う。ひと口で心身が癒やされる味わいだ。

梁烘昌さん(右)は両親から老舗の「梁記」を継ぎ、客家の味を守り続けている。90歳を超える母・梁胡銀金さんは今も元気で、しばしば顔を見せては店を手伝っている。

頭前渓のそばには、客家文化を象徴するオブジェが設置されている。

洗い出しの外壁が印象的な竹東天主堂は、市場のすぐそばにある有名なランドマークだ。

「大生堂」四代目の李美恵さんは、日本統治時代の看板を守り続けており、歴史の証人として大切にしている。

「大生堂」には清朝や日本統治時代の看板が今も残っており、店内はまるで時空を超えた空間のよう。

「大生堂」には清朝や日本統治時代の看板が今も残っており、店内はまるで時空を超えた空間のよう。